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山崎幹夫の各種センサー

ここは現在イベント告知だけにしています。

私たちの恥ずかしいフィルム@neoneo坐

2012年10月26日 07時19分43秒 | 映画表現の辺境へ
上映作品は次の3本。
新川保茂+山崎幹夫『The Musical Box』1980年/25分
内村茂太『猿!ゴリラ!チンパンジー!』1995年/16分
山田勇男『追分』1991年/20分

まずはじめに、今年(2012年)の7月、府中で内村さんの「ほぼ全作」上映が催されたとき「おや、あの作品が入ってないじゃないの」と思ったのが、今回上映する『猿!ゴリラ!チンパンジー!』だ。
内村さんも妻も猫のチャコも出ていない。若いがそこらへんにごろごろいそうな女性3人が、街中でコントっぽい行動をしていくという作品。内村さんはナレーションはなく、ただあのちょっと鼻詰まり気味の声で「だばだばだ♪」とずっとスキャットしているだけ。
でも、おもしろいですよ。タイトル忘れていたけど。
そう言えばこの作品、私のうちで「持ち寄り上映&飲み会」をしたときに内村さんが持ってきて、見せてもらった作品だった。
そこで「上映させてよ」と頼んだところ、
「山崎さんも自分が恥ずかしいと思って上映してない作品をやってくれるなら」と言われたのだった。
いろいろ考えた。
恥ずかしいと思って上映していない作品なら、いくつかある。
そうして「これでいこうか」と思ったのが『The Musical Box』。
北海道大学内の教室を借りて1回だけ上映して、そのあと90年代のラ・カメラ@乃木坂でもどさくさまぎれに1回だけ上映したことがある。
共作者の新川保茂は『猫夜』のセル君がこの頃使っていたペンネーム。添付画像もこの作品。『極星』『猫夜』のカーコさん。

さて、この2作品だけでは足りないので、山田さんにも電話して、留守電にこのプログラムのコンセプトを伝えておいた。
自分の心づもりとしては、前々から山田さんが「恥ずかしい」と言って上映したがらない『夜窓』でどうだろうと考えていたのだけれど、折り返し山田さんから連絡があって、きっぱりと「じゃ『追分』で」と。
なぜ『追分』が「恥ずかしい」のか、電話で確かめようとすると、急にごにょごにょ言い出したので「じゃ、その言い訳は会場で来たお客さんに言ってちょ」ということで切ってしまったので、理由(になるような理由かどうかはわからないけれど)は会場で聞いてみることにしましょう。

これで大西健児プログラムをのぞいた5プロについて、記事にしました。
もう前日です。今夜、機材を搬入してきます。
上映は27日(土)28日(日)、時間とプログラム詳細は過去記事(9月27日アップの記事)を見てください。
料金は当日のみ1000円。
両日とも、上映終わったあとにワンドリンク(酒)と食べ物がついて1000円で交流会(打ち上げ)あります。
neoneo坐の場所はHPを参照くだされ。

フィルムらしさを目で触感しよう@neoneo坐

2012年10月24日 21時12分10秒 | 映画表現の辺境へ
このプログラムの上映作品は、
大川戸洋介『東京幻影談』1994年/40分
大谷高美『水葬』2011年/14分
しらくまいく子『She was looking at the sea』2012年/6分
しらくまいく子『as always』2012年/11分

大谷高美は復活したシネヴィスシネマをやっている人、しらくまいく子は8ミリ素材の映像作品のほか、文字を展示する詩をつくったりもしている人。
どちらも、終焉間近のように見える8ミリフィルムで新作をコンスタントにつくり出している。
ここ数年で目立ってきた(ように自分は感じている)のは、8ミリフィルムの特質を、それまでとは異なる角度であぶり出している作品だ。大谷高美としらくまいく子の作品からは、とりわけそんなことを感じる。
つまり、8ミリフィルムが表現の媒体として、まだまだ可能性を秘めているということだ。
いまさらそんなことを言ってもどうしようもないことだし、フィルムの終焉を止める材料にはならない。
けれども、ネガフィルムを自家現像して、これまで実験映画がえんえんとやってきた作業をさらに職人的なねばり強さで深化させようとしている大谷作品。
あるいは「女性らしい繊細な感性」などと、ヘどが出そうな浅薄な表現で片づけられてきた「女性作家でなければできないこと」を、さらに誠実に深化させようと試みている(ように見える)しらくま作品は、それがフィルムであるなしにかかわらず、表現ブツとして押さえておくべきものだろうと思う。

そして、それらのはるか源流にあるのが大川戸洋介だろうと思う。
80年代、それまでの言説の方法ではうまく解明することができなかった大川戸洋介作品の魅力について、大谷高美やしらくまいく子らの新作とセットで見ることで、もうひとつさらなるヒントを得ることができるのではないか、と憶測してのプログラミングなのです。

高校生映画ふたたび@neoneo坐

2012年10月23日 20時35分10秒 | 映画表現の辺境へ
8ミリというメディアのおかげで、映画というものが高校生でもつくれるものになった。
80年代の8ミリ自主製作映画ブームのなかで、とりわけ目立っていたのが、高校生がつくった映画だったと思う。
自主製作映画の中心はやはり大学生なのだけれど、高校生がつくる8ミリ映画には、どこか独特の味わいがあった。
それはひとつは初々しさだろう。
15歳から18歳までの時期にしか持ち得ない何ものかが、高校生のつくる自主製作映画に込められていて、つくっている本人たちはせいいっぱい背伸びして「おりこうさんな映画」をつくろうとしていても、受け手である我々観客は、その映画の内容よりはむしろ、そこに出演しているシロートの高校生の男女の身振りや表情、画面にうつりこんでくるいろいろな「高校生でなくては撮れないもの」を楽しんでいたわけですよ。

だからPFFに入選したような作品よりも、ごく普通の、よく文化祭などでクラスの出し物として上映されていたような高校生の8ミリ映画を見てみたいという欲望がムクムクわき出してきたのだった。
今回ラインナップされた3つの作品は、そういう思いで集められた。
東京、静岡、大阪と、地域的にもへだたっているので、画面のどこかにそんな地域性が見て取れたりしたらおもしろい。
集めるのが難しいけれど、ぜひとも続けていきたい企画だ。
じつは今回、札幌の知り合いにも声をかけて、かつてその人が札幌の高校生だったときの作品もラインナップしようと思ったのだけれど、やはり恥ずかしいという気持ちが先行してしまうのか、上映にいたらなかった。
なので、北海道のどこかの高校生8ミリ映画と、できれば沖縄とか奄美大島の高校生8ミリ映画が上映できたらいいなーと思っています。
ま、そうでなくともいいや、一度だけの上映だから、フィルムの虫干しのつもりで上映さえてもらえる高校生8ミリ映画をご存知であれば、ぜひ紹介してもらいたいです。
どんどんやっちまいましょう。

ホームムービーデイ@松山市

2012年10月21日 23時32分54秒 | 映画表現の辺境へ
行ってきました。松山市。じつは福祉ビデオの仕事でも年初めに松山市に行っているので、今年2回目になるんですが、四国唯一のミニシアターである「シネマ・ルナティック」には、いまの場所に移転して初めての訪問。
ホームムービーデイは、中四国(中国地方と四国)では初の開催になるとのこと。えー、尾道とか広島とかではやってなかったんだ。
松山と言えば、小型映画の世界では大物の上田雅一さんという人がいるので「来てくれ」と打診されたときに「まずは上田さんという人に連絡して、上田さんは高齢で来れないとしても、その系統の人に映写などやってもらったらいいのではないか」と返信したのだった。まるでヤクザの縄張りの仁義みたいな感じで。
ところが、上田さんは今年の初頭に亡くなっていたそうで、結局、シネマ・ルナティックとも縁のある私にお鉢が回ってきたという経緯でした。
さて、行ってみると、なんとなんと129本もの8ミリフッテージが集ったそうで、これは凄い。
そこからセレクトしたものだから、上映プログラムは充実していました。
古い松山の光景が写っているものや、ホームムービーにとどまらず、遊び心にあふれているドラマ作品や、高校生映画、自家現像のアート指向の作品などなど、今週のneoneo坐のプログラムを先取りして凝縮したような趣きでありました。映画館のロビーなので映写条件は悪いけれど、それはそれでおもしろい立地での上映だと思った。
ホームムービーデイは無料の催しなんだけれど、有料の映画館の200席ある館内では客は一人だけで、狭苦しいロビーには20人以上の人でぎっしりというのもおもしろい対比でありました。
また来年も開催できるといいっスね。
そして、四国唯一のミニシアターであるシネマ・ルナティックも末永く存続できますように、これからも不言実行で支えていきましょう。

小型映画作家の発掘/吉田順彦2@neoneo坐

2012年10月19日 10時53分16秒 | 映画表現の辺境へ
前回の吉田順彦プログラムをやったときに、この人の作品を紹介してくれた人に「15人以上お客さんが来たら秋に第二弾やりますよ」と言ったのでした。で、春の上映での来客数は17人。ということで第二弾をやることに。

春の上映ではドラマ作品を入れてなかったので、今回は『罪の前後』(1966年/33分)という作品をラインナップ。1966年と言えば東京オリンピックのちょいとあとになるわけで、いまこの作品を見てみると、街のようすも出ている人間の顔も、なんだか韓国みたいな錯覚に陥ってくる。日本じゃないみたいなへんな感覚がおもしろい。
それから、これはダブル8の作品なのだけれど、作中で白黒反転するシーンがある。
いったいどうやったのだろう?
16ミリのネガフィルムを使って撮ったのだとしても、パーフォレーションの数がちがう。でも自分が考えられるのはその方法しかない。16ミリフィルムのパーフォレーション(フィルム送りの穴)の穴と穴の間に、もうひとつ穴を開けて、ダブル8カメラでもフィルムが駆動できるようにしたのだろうか?

残り2作品はヌード映画。
前回「ヌード映画とはなんだ?」と突っ込まれたけれど、女性の裸を撮っているのだけれどからみとかはないからブルーフィルムとも言えないし、そう表現するしかないわけで。
こういうタイプの8ミリ映画って、ありそうでなかなかないもんです。

少年少女の夏休み@neoneo坐

2012年10月18日 08時59分23秒 | 映画表現の辺境へ
では上映までにプログラムごとに解説書いていきましょう。「3.11以降の8ミリ映画」は大西健児が集めたプログラムなので、それ以外の5プロについて。
順番にいきましょうか。

「青空学校」というのは、そもそもは小学校の先生が中心になって、小学校に泊まってキャンプっぽいことをする催しだったらしい。
「青空学校」でぐぐると、まだ各地でおこなわれていることがわかります。
青空学校のベースになっているのは「少年団活動」というやつで、これはボーイスカウト、ガールスカウトがちょっと愛国的なニュアンスがある活動であることへのカウンター的活動だと自分は了解しているけれど、まちがっているかもしれません。
ともかく、東村山にも青空学校という活動がありまして、そこではじめて市内でのお泊まり会から脱して、東京都檜原村の廃校に2泊3日のキャンプを行ったときの記録8ミリフィルム。
自分の作品『虚港』のなかで「ちょっと待ってクダサーイ」と出て来る解説おやじや、自転車リクシャーを運転する男などが「指導員」として働いている姿が見られるのが、おもしろいかもしれません。

『おんたキャンプ ’86~白州』はタイトル通り、東村山にある大岱学童クラブの、夏のキャンプの記録フィルム。
どおってことない記録フィルムではあるけれど、やはり併映する『りりくじゅんび』を見たことある人だったら、その舞台になっている学童クラブなので、学童の庭を走り回っていたやんちゃなお子様たちの様子がふたたび見れるところがおもしろいかも。

どちらにしても、これら2つは「この催しの動画での記録」であって、赤の他人に見せることを想定してはいない。
けれども、ホームムービーを見ることのおもしろさを体験してしまった「映像の百万長者」であるような人にとっては、ある意味、背徳的なニュアンスも持ちながら楽しめることだろうと思う。
うまく言えないけれど、商業映画や、商業映画のマネをしている映画が「外食」だとしたら、ホームムービーやこういう各種の記録フィルムは「日常食」のようなものだと思う。
インドに行ったときに、ずうずうしくもごく普通の家庭のメシにまぎれこませてもらったことがあった。
やはりカレー(というか長粒米にカレー味のスープをかけてねりねりして食べるのよ)なんだけれど、食堂で食べるカレーとは明らかにちがって、とても薄味だったっけ。
それよりも、そういう「お店でない普通の家庭」で食事した経験が、じつはインドでの食事で、もっともいきいきと記憶に残っている。
そんなふうに「すげー」と驚き、刺激が強く、脳を揺らされる映画なのに、なぜか翌日には記憶の鮮度がガタ落ちしていることが多々ある。じーんとつい落涙させられちゃったりする映画なのに、帰宅する頃にはもう記憶がおぼろになっていることが多々ある。
けっこう、ホームムービーとか、こういう記録フィルムの方が、見た人間の記憶に長く残留するような気がする。

関根博之その3/特別なゾーンの発見と交感

2011年04月17日 22時38分04秒 | 映画表現の辺境へ
その1その2と書いてくると、まるで関根博之=廃墟のように決めつけているように思われるかもしれない。ここで大きな声で「それだけじゃないぜよ」と言っておきたい。
たとえば『Tokyo Sanpo Vol.2』や『Tokyo Sanpo Vol.3』あるいは『渋谷仙人』のような作品を見ていただきたいと思う。いや、見ていただきたいと思うから上映会を組むわけだけれど、あきらかにほかの関根博之の廃墟映画と比較して観客が少ない。これはとてももったいないことだと思う。
「廃墟」としてこの世界に存在している物件だけに「廃墟性」が宿るわけではなくて、そのようなものは大なり小なり、人間の住む(住んでいた)場所にはあまねく存在している。
また、廃墟を訪問して感じる、愉悦とは、廃墟に限定されたものではないはずだ。射精をともなう行為だけが性的な行為ではないのと同じこと。
話がズレたけれど、関根さんのカメラは廃墟だけに向っているわけではない。廃墟のなかでも、水のしたたりや生き物、廃棄されたもの、壁の汚れの濃淡がつくる模様、その他いろいろ。
そんないろいろが「ゾーン」を醸し出す。この「ゾーン」ってのは、タルコフスキー監督作品『ストーカー』で言うところの「ゾーン」だと思ってください。つまり「特別な場所」。
そんな「ゾーン」を発見し、交感することが作品であってもいい。いいというか、そういう作品ってのは思い切り背徳的なシロモノだと私は思うのだけれど、いかがでしょう。
背徳というコトバを使ったので引き出されるのだけれど、関根博之の作品には「スカートめくり」の感触があるのですよ。女性のスカートをめくるのではなくて、街のスカートをめくっているわけ。でもとびきりエロチックではある。だって、廃墟のスカートをめくってみれば、飛び出してくるのは猫のミイラだったり、はるか南の島の過去の情景の16ミリフィルムだったりするわけで、女性のスカートの中身よりもぐっとくるでしょ。
添付画像は『渋谷仙人』(のスチール)。

関根博之その2/廃墟を遊泳するカメラワーク

2011年04月16日 23時10分54秒 | 映画表現の辺境へ
多くの廃墟DVD映像が「つまらない」のは、その凡庸なカメラワークにも一因がある。
ではどんなカメラワークがいいのか、そのみごとな回答が関根博之作品にある。ただし、簡単にマネできるものではないのだけれど。
関根博之の廃墟映画は、まるで廃墟全体が水没していて、そのなかを潜水しながら撮影して巡っているような印象がある。つまり、ほとんどすべて、カメラは手持ちだ。そうして、ゆっくりと移動している。絶対に走ることはない。普通の速度で歩くということもない。じっくり、廃墟のけはいに耳をかたむけながら、できるだけ足音をたてないように、自分のテリトリーでないところを徘徊する猫のような足どりで廃墟を移動していく。
特異なことをしているわけではない。手持ちカメラの基本に忠実な動きをしているだけ、とも言える。カメラは両手で支え持つ。そうして脇はぐっと締める。呼吸はできるだけ殺す。短いショットだったら息は止める。移動はすり足で、そろりそろりと。これホント、基本のなかの基本。
なのに、関根博之の廃墟映画は、あれだけ記憶に残る。それには、もうひとつの「術」がある。関根さん本人から聞き出した話なので、想像で言っているのではない。
関根さんはある廃墟を撮影対象にしようと決めると、すぐに8ミリカメラを回したりはしない。まずはその廃墟に通い、とどまり、写真を撮っていくそうだ。そういう作業を経て、2つのことが得られる。
ひとつは、その廃墟の魅力を抽出できるということ。初見の印象に引きずられるのではなく、どこをどのタイミングでどう撮ればいいのかが明らかなになっていくわけだ。
もうひとつは、廃墟との一体感と言えばいいのだろうか、交感と言ってもいいかもしれない、廃墟のなかで流れてきた時間を自分のものにすること、廃墟のなかに残留している思念のようなもの(それは廃墟にあるものでなく、訪問者であるわれわれのアタマにすでに存在したものかもしれないが)をつかまえること。
そうしてできたのが数々の関根博之の廃墟映画なのだろう。
添付画像は『U・O』。

関根博之その1/廃墟映画の最高峰『六本木の廃墟』

2011年04月09日 23時33分34秒 | 映画表現の辺境へ
関根博之といえばやはり廃墟をじっくりと撮影した数々の8ミリ映画であり、そのなかでも最高の到達点に達しているのは『六本木の廃墟』だろう。つまり、廃墟映画の最高峰は関根博之『六本木の廃墟』で決まり。
俺じしんが廃墟好きだから、自作品にもよく廃墟が出てくる。しかし関根さんのように、廃墟そのものを被写体というか、映画の主題にしたことはない。『六本木の廃墟』を見たあとには、それにかなうはずもないので、なおさらそのまんま撮るなんてことはできない。
そもそも、廃墟の魅力ってのは、そこに実際にたどりつき、好きなだけの時間そこを探索して廻ることにあると思っている。そのときに重要なのは、その場所の空気感だ。映画ではその場所(廃墟)のひんやりとした湿り気をそのまま伝えることができない。匂いにしてもそうだ。植物が積み重なって朽ちていくときの匂い。雨にさらされたコンクリートがはなつ匂い。そういったものを直接にスクリーンからはなつことはできない。
だから、廃墟を直接の主題にすることはあきらめていた。あれは、そこにいってうろつくべき場所であり、被写体にはならない、と。
しかし、関根博之がそれをくつがえしてくれた。
まるでアレですよ、俺は「オナニーがじっさいのセックスよりいいワケないじゃない」と頭の悪いことを主張していたみたいな感じ。恥ずかしい。
関根博之の廃墟映画全般に言えることだが、世の中にいろいろ出回った廃墟写真集、廃墟DVDにはない決定的な特徴がある。
一歩一歩、廃墟のなかを探索して進みときのドキドキ感がある。廃墟のなか独自の湿り気を表現する視点がある。そして何よりも、廃墟のなかに全身をひたしている快楽が表現されている。
そして『六本木の廃墟』には、さらに2つの強力なアイテムが込められている。ひとつはそこで死んだ、なかばミイラ化した猫の死体。かっと開かれた口に牙が見える。これを、さらっと流すのでなく、ブンブンまとわりつく蠅のようなカメラで、執拗に、じつに執拗に関根カメラは撮っている。このインパクトは比類なきものだ。
それから、廃墟で発見した16ミリフィルムに映っていた、どこか南国っぽい風景の映画の一部。これが、薄暗い廃墟から、光のさんさんと輝く南の方のどこかの昔の光景へと、一挙に時間と空間を超越して「なにかとなにかがつながっている」という、超越的な感覚をもたらしている。
ああ、そうだ。超越感。それが関根博之の廃墟映画に共通する感覚かもしれない。

石井秀人その3/ゆるりとしたたる光

2011年04月08日 23時29分47秒 | 映画表現の辺境へ
かなーり昔から言われていることだけれど、ビデオ作品の光よりも、フィルム作品の光の方が気持ちいいのはなぜだろう。
ビデオ作品を見るモニター、ディスプレイ、ビデオプロジェクターにせよ、フィルム作品を映写機の光で見るにせよ、どちらも人工の光であることにかわりはない。それぞれの光源の色温度が異なることに由来するとも思われない。
たぶん、憶測だが、「石井秀人その2」で記述したような、光の明滅、つまり不規則なフリッカーに由来するのではないかと思っている。
けれども、そんなことはどうでもいい。そのメカニズムを解明したとしても、もっともっと根源的なことがそこにはある。
言ってしまえば「センス」だ。
「姿勢」でもいいか。
作品をつくろうとして、自分を追い込んでいく「姿勢」。
カメラを持ち、シャッターチャンスを待つ「姿勢」。
シャッターを押し、そして離すタイミングの「センス」。
現像が上がってきたものをより分け、つないでいくときの「センス」。
そこに「ことば」や「音」をつけることに関するさまざまな「センス」。
そうしたものが総合的に作用して、石井秀人作品でなければ見ることのできない光がスクリーンの上に現出し、ことばや音がスピーカーから流れ出してくる。そうして「作品世界」がつくられる。
いやいや、こんなふうに形容してみた文章を読むよりも、体験した方が早いでしょう。機会あるごとに石井秀人の作品を上映しておりますので、ぜひぜひ体験してみてくださいな。
たかだか、スクリーンに、映写機の光がフィルムを通して投射されているだけなのに、なんだよ、このゆるりとなまめかしい光は。
まるで、スクリーンからしたたり落ちそうじゃないか。