日本に最初に来日したイギリス人は、ウィリアム アダムズ(1564~1620)
1600年、オランダ船リーフデ号の水先案内人(按針)として、豊後の国に漂着。幕府から、
相模国三浦郡逸見の地を受け、三浦按針と名乗った。その後、来日する母国の若い水兵の素行が
悪い件について悩んでいた。それは当時の日本人の素行は相当に立派だったということである。
「日本人は、われわれ西洋人より遥かに洗練された複雑な礼儀作法を保ち、清潔で、しかも悪意
がない。大坂城や江戸城は目もくらむばかりの壮麗さである。街道はきれいに整備され、ゴミ一つ
落ちていない。もっとも、宿場に差し掛かると、獄門のさらし首が陳列され、試し切りされた刑死人
の死体が転がっているのが玉に傷であるが」と日本についての印象記に記している。さて、
「何処へ」という概念をキリスト教を基盤とする西欧文明は重要視するのであるが、アジアの諸
文明も、「何処から来たか」という概念は重要である。本当の意味で言うところの豪奢である、
それぞれの国の、それぞれのアポカリプス的生活・文化・ライフスタイルをウィリアム
アダムズは美しいと観たに違いない。「何」という象形文字は、人が荷をかつぐ姿を描いたも
ので、後世の負荷を荷う(になう)の原字である。幕末の動乱から現代にまで言えることは、
「正鵠を得なければ、生国(しょうこく)を失う」ということである