私、水廼舎學人です

久保憲一のプライベートな世界。なんでもありです。

茶聖の故郷

2009年10月23日 | 茶で遊ぶ

 

 

 生誕地

 菩提寺

 

 

 

 

          茶聖 大谷嘉兵衛

幕末、黒船の来航によって日本はようやく200年に余る鎖国から目覚めた。この時期、欧米各国はすでに産業革命を経て、近代工業国家として発展していた。自らの後進性を認識した日本は、富国強兵を旗印に殖産興業の道を進むことになる。国力の増強の手段の一つとして、輸出の振興が図られたが、その主役は生糸であり、次いでお茶であった。

 1867年、製茶貿易は極めて盛況で、横浜や江戸の出荷は払底の状態であるにもかかわらず、海外からの注文が殺到する有様であった。当時、横浜での製茶輸出の最大の商社はスミス・ベーカー商会で、大谷嘉兵衛はその製茶買入方をしていた。1869年の9月、嘉兵衛は京都の山城、近江、大和方面で大量のお茶を買い付け、12月までの3ヶ月間に420トン、すべて現金で支払った。その代金は26万8千両にものぼった。買い入れたお茶は宇治川を小船で下り、天保山沖でイギリス汽船に積み替えて横浜に運んだ。この取引により、スミス・ベーカー商会だけでなく、大谷嘉兵衛自身も巨利を得て、間もなく独立し、茶の売込商を開業した。

 しかし、粗製濫造の弊害が出て来たので、品質向上のため、明治12年、第一回製茶共進会を横浜で、明治16年に第二回共進会を神戸で開催し、大いに成功する。

 明治22年、横浜市会議員、23年に神奈川県会議員に挙げられ、議会で議長を務めるなど、政治家としても活躍した。

 明治24年(1891)、48歳で全国茶業組合中央会議所の議長となり、25年、横浜貿易商組合総理に、26年には横浜市会教育会会長、その他、共進会や博覧会の審査官や評議委員にも命ぜられた。

 明治32年、第一回万国商業大会には、日本代表として参列した。世界の市況をいち早く知るために「太平洋海底無線」の敷設を建議し、明治37年には、アメリカの製茶に対する「関税の撤廃」をマッキンレー大統領に面談して要求するなど、日本茶振興に一生を捧げた。

 明治40年、勳三等に叙せられ、貴族院議員に挙げられた。

 明治42年、茶業組合中央会議所の会頭に推され、昭和3年まで20年間、茶業界の先頭に立っていた。

 大正6年11月、静岡市の清水山公園に「銅像」が竣工し、昭和3年には翁の米寿を祝い、横浜市の伊勢山皇大神宮に「立像」が建立されるとともに、「大谷嘉兵衛翁伝」が刊行された。昭和8年2月3日、没す。享年90歳であった。戒名「慶福院殿廣徳嘉祥南湖大居士」

                                        松阪市ホームページより



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