トーマス・クーン解体新書

トーマス・クーン『科学革命の構造』の徹底的批判

クーン現象(2)

2018年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム
 ウートンの『科学革命の新歴史』の第16章では、著者ウートンは「この本は後知恵に依っているところがあるので、多くの歴史家はウィグ歴史の一例だとして非難してよいと感じるだろう」と考えて、それに対する反論を展開します。まず、科学史の筆者には、ウィグ史観的、あるいは、現在の視点から過去を裁定する「現在主義」の立場をとっていると批判されることを極端に怖れる一般的傾向があると指摘してウートンは第3節(§3)の議論をはじめます:
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Such is the fear of being accused of writing Whig or teleological history that it is difficult to find a historian making simple and elementary point of this sort. Fortunately the philosopher Richard Rorty can come to our assistance. Rorty pounced on a remark by Steven Weinberg, who had written:
What Herbert Butterfield called the Whig interpretation of history is legitimate in the history of science in a way that it is not in the history of politics or culture, because science is cumulative, and permits definite judgements of success or failure.
Here Weinberg had inadvertently confused three separate issues: cumulation (all history, indeed all human activity, is cumulative); success or failure (there are many human activities that permit definitive judgements of success or failure); and progress (a unique feature of modern science and technology). And so Rorty attacked:
Does Weinberg really want to abstain from definite judgements of the success or failure of, say, the constitutional changes brought about by the Reconstruction Amendments and by the New Deal’s use of the interstate commerce clause? Does he really want to disagree with those who think that poets and artists stand on the shoulders of their predecessors, and accumulate knowledge about how to write poems and paint pictures? Does he really think that when you write the history of parliamentary democracy or of the novel that you should not, Whiggishly, tell a story of cumulation? Can he suggest what non-Whiggish, legitimate history of these areas of culture would look like?
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上の文章の中の二つの引用は、両方とも、リチャード・ローティの論文「Thomas Kuhn, Rocks, and the Laws of Physics」(1997年)からです。トーマス・クーンをthe most influential philosopher to write in English since the Second World War と持ち上げたことで知られた論文ですが、これについては別に詳しく論じることにして、今は、ウィッグ的あるいは現在主義的な歴史の書き方の是非に焦点を絞ることにします。
 ワインバーグが「政治や文化の歴史とは異なり、自然科学は累積的であり、しかも成功と失敗のはっきりした判断を下すことができるから、ハーバート・バターフィールドが歴史のウィグ的解釈と呼んだ歴史の書き方は自然科学の歴史では正当なものである」と書いたのに対して、ローティは激しく食ってかかります。ワインバーグが自然科学だけを特別扱いして、過去の失敗を整理して成功を積み重ねていると主張したことに過剰反応して、米国の南北戦争後の南北関係やニューディール政策に基づく州の間の通商条項に関する憲法改正は、まさしく過去の失敗を是正し、成功を積み重ねるプロセスではないか、また、芸術家も過去の蓄積から学んで進んでいるではないか、とローティは勇ましくワインバーグを論駁します。自然科学は累積的に進歩するという立場をはっきり標榜するウートンにとっては有難い助太刀ですから、「まさしくローティの言う通りだ」とこの議論を歓迎するわけです。私もウートンに同調します。「詩人や画家たちは先人たちの肩の上に立っている」という件はニュートンの有名な言葉「If I have seen further it is by standing on the shoulders of giants.」に引っ掛けてあるのだろうと推量し、また、T.S. エリオットの芸術伝統論も思い出しました。
 ウィッグ史観あるいは現在主義史観についてのわかりやすい解説:
『ウィッグ史観は許容不可能か Is Whig history inadmissible? 』
http://tiseda.sakura.ne.jp/works/whig_NJP.pdf
を伊勢田哲治さんが提供されています。これを読ませていただきながら、自然科学の歴史について、ウィッグ史観の周辺で物々しく繰り広げられてきた議論は、その騒ぎの一種のバカバカしさから、私のいう「クーン現象」の典型的なものの一つだという感じを私は強く抱きます。過去から現在までの歴史的事象に対して、一定の価値判断に基づいて、何を「進歩」とし、何を「退歩」とするかを定義することにすれば、その定義に従って、一定の進歩史観、退歩史観が得られましょう。ローティが米国憲法史や芸術史について述べた通り、現在主義的史観に基づいた歴史を書くことに何の不都合もありません。伊勢田哲治さんの“問い”に対する答えは、勿論、“許容可能”ということになります。伊勢田哲治さんご自身の答えも同様です。ただ、この科学史方法論に関する騒ぎのバカバカしさの根源がSSRの「Postscript-1969」に書いてあることを忘れてはなりません:
To the extent that bound periods punctuated by non-cumulative breaks, its theses are borrowed from other fields. Historians of literature, of music, of the arts, of political development, and of many other human activities have long described their subjects in the same way. (SSR4, p207)
しかし、ローティが言うように、文学史であれ、音楽の歴史であれ、前の時代の遺産をそっくり捨ててしまうnon-cumulative breaksなどありはしません。つまり、クーンはもともとありもしないものを借りてきたのでした。ローティはSSRのこの部分を読み飛ばしたのでしょう。
 SSRのクーンの立場をはっきり言ってしまえば「自然科学は一つのパラダイムから他のパラダイムに革命的に変わるだけで、科学的知識は累積もしなければ、進歩もない」ということになります。そんな無茶な!と思われる人も多いでしょう。特に、現場の科学者や技術者はそうでしょうが、これがSSRのクーンの立場の基本なのです。革命の前のパラダイムと後のパラダイムとの間には通約不可能性というものがあって、どちらが正しいという判定はできないとクーンは言うのですから。とは言え、これは余りもの暴論ですから、クーン自身もいろいろ言い回しを変えようとしますが、拙著『トーマス・クーン解体新書』に詳しく書いた通り、事はうまく運びませんでした。まず、一つのパラダイムの下で進行する通常科学の展開では、それまでの科学史で説かれていたように、科学は累積的に進歩するが、それは一つの通常科学の展開期間内のことであって、革命を経て次のパラダイムの下での通常科学では、古い通常科学で達成された累積的進歩はご破算になってしまう、とクーンは言います。しかし一方では、古い通常科学時代に解かれた問題の解答の多くは新しい通常科学へと持ち越されるが、通用しなくなる解答もある、とクーンは言います。これには「クーン・ロス」という名前まで与えられました。ゲインもあればロスもあるとなれば、ゲインの方はどうしても積み上がって行くことになって、「自然科学の成果は累積もしなければ進歩もない」という根元の主張がダメになってしまいます。古いパラダイム(あるいは理論)とそれに取って代わる新しいパラダイム(あるいは理論)の比較が可能か否かについても、クーンはモグモグと誤魔化してしまいました。それにもかかわらず、SSR以後は、ウィグ的な、あるいは、現在主義的な科学史を書くことが事実上ご法度になってしまった理由は、SSRの外の事情の中にあるはずです。これもクーン現象の一部です。
 科学史方法論に関するクーンの立場の混乱はウィグ歴史の問題に限りません。自然現象について、クーンは、「裸の観測事実というものはなく、事実とされるものは全て理論に依存している」と言います。観測事実の理論負荷性、つまり、理論や解釈から独立した裸の事実なるものは存在しないという主張です。ところが他方では、クーンは、論理実証主義やホパーの反証主義の否定を試みる際、科学史の事実をまるで裸の硬い事実のようにして平気で利用します。しかも他人(例えばラカトシュ)が同じように歴史的事実を使用しようとすると、クーンは“History is interpretive throughout.(歴史は一貫して解釈的である)”と非難を浴びせます。こうした問題について、ベルギーの科学哲学者カラボーやローティと親しい哲学者リチャード・バーンシュタインが鋭く突っ込んでいることは拙著『トーマス・クーン解体新書』の第4章に書きました。(続く)


藤永茂(2018年4月18日)