トーマス・クーン解体新書

トーマス・クーン『科学革命の構造』の徹底的批判

クーンのSSRは穴だらけ(3)

2014年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
 黒い木炭は暗いところではよく見えませんが、温度を上げて行くと、はじめは赤く色づき、だんだんと輝きを増して白熱状態になり、高い熱エネルギーを発します。このプロセス、温度によってどんな波長の光を放ち、どのような量のエネルギーを放出するか、という問題が、実は、古典物理学では解けませんでした。つまり、窯業の竃から出てくる光の性質は、日常の現象に量子効果がはっきりと顔を出している例の一つです。この問題が古典物理学の枠内ではどうにも解けないことを痛感して、古典物理学には馴染まない自然界の非連続性を取り込んだ最初の物理学者はマックス・プランクだった、というのが物理学史の定番物語でした。
 ところが、クーンは『Black-Body Radiation and the Quantum Discontinuity (1978)』
で「量子的非連続性を、光量子という形ではっきり唱えたのはアインシュタインであって、プランクは古典物理学のパラダイムから抜け出せずにウロウロしていただけだ」と主張しました。プランクについての定番のストーリーを覆すこの主張を科学史的資料で裏付けることが、このクーンの大著の目指したすべてと言っても過言ではありますまい。
 1962年のSSRの出版で時代の寵児となったクーンは、1972年プリンストン高等研究所に招かれ、殆どの時間をそこで過ごしました。『黒体輻射』の執筆はここで行なわれましたが、このクーンの新著に対する期待は、特に科学哲学者の間で、大きく膨らんでいました。:
■ Before the book came out, I’d agreed to talk with a group of people about this book, and when I got to this small group that was supposed to sit around the table, it turned out the room was full, or more or less full. So, I had to give an impromptu lecture, and I did. When it was done, somebody held up their hand, and said, “It’s all very interesting, but tell me, did you find incommensurability?” I thought, “Jesus! I don’t know, I haven’t even thought about that.” (この本が出る前に、ある小さなグループの人たちに本について話をすることを承諾していたので、一つのテーブルの周りを囲む位の人数と思って部屋に行ってみたところ、部屋はほとんど一杯になっていた。それで、私は俄仕立ての講義のような話をやることになってしまった。それが済んだ時、手を上げた人がいて、“大変興味深く伺いましたが、通約不可能性の問題があったのかどうか、お教えいただきませんか?”と言った。“おやまあ、どうかなあ、そんなこと考えもしなかった。”というのが私の思いだった。)(RSS, 314) ■
 これは驚くほど率直な回想告白ですが、『黒体輻射』(1978年)の内容についての批判に対するクーンの戦闘的な反撃はその1987年版に新しく付けられた22頁にわたる「後記」で展開されました。科学史家、哲学者に加えて、ウィグナーなどの物理学者からも不評を買ったことがクーンの神経にひどく触ったようでした。
 アインシュタイン生誕百年の1979年、プリンストンの高等研究所でアインシュタインの業績を讃えるシンポジウムが開催されました。クーンは「量子的非連続性に最初に思い至ったのはアインシュタインであって、プランクではない」という新著の主張、科学史家としての畢生の異説をここで語りました。講演後、ハーバードの物理学科の大学院学生であった頃憧れたこともあったジュリアン・シュヴィンガー教授の司会する質疑討論のセッションでウィグナー教授が立ってクーンの説に対する反対意見を表明しました。:
■ In spite of all my admiration of Professor Kuhn, I would like to contradict him a little bit. I think Planck did wonderful work, and even the discovery of his equation is wonderful. I do not believe he believed in the details of any derivation of it, and this was natural since the physics of that time was full of contradictions. In Bohr’s atom the electrons wandered around on their orbits following the law of classical mechanics, but then they decided to jump around. The motion on the orbit was governed by the classical equations, and it was very unclear how they realized that they had to jump away from the equations. That Planck believed in the quantum jump is evident: he postulated the emission and the absorption as definite processes and postulated for both of them the energy . I believe it is clear that he believed that the intensity of the radiation of frequency ν is always a multiple of . And this, I think, was in contradiction with many, many basic concepts of classical theory ? and we felt that very strongly in the days before quantum mechanics ? a little bit even after ? that physics as we knew it then was not self-consistent. And, therefore, the fact that there was a deviation from the fluctuation theory was true, but we felt that we had to swallow that fact. And perhaps I should also remind you how little Planck’s ideas were accepted in the beginning; at the Solvay Congress the authorities said: “Oh, the present radiation intensity is just a temporary thing. It is because the blackbody radiation is not yet in equilibrium with matter. Eventually the Rayleigh-Jeans law will be put into effect.” So that I feel that the quantum was discovered, at least from what I read, by Planck and even though we admire Einstein, this is not for what we admire him most. (かねがねクーン教授のお仕事に感嘆している私ですが、ここではいささかの反対意見を述べさせて頂きます。プランクは素晴らしい仕事をしたと私は考えますし、彼の放射分布式の発見にしても素晴らしい。彼がその導出の細かい所を理にかなうと信じていたとは私は思いません、と言うのも、あの頃の物理学は矛盾だらけでしたから、プランクの態度は自然なことだったのです。ボーアの原子では、電子たちは古典力学に従う軌道の上でぐるぐる回っていると思うと、次の瞬間にはあちこちジャンプを行います。軌道上の運動は古典の方程式に支配されていますが、電子たちが如何にしてその方程式から飛び離れなければならないと悟るのか皆目わかりませんでした。プランクが量子的ジャンプを信じたのは明らかです:かれは放射と吸収を明確な過程と仮定し、その両方にエネルギー hv を仮定しました。そして、私が思うに、このことが古典物理学理論の実に沢山の基本概念と矛盾するものでした?そのことを我々は量子力学が出現する以前にはとても強く感じていましたし、出現した後でさえ少しは?物理学は、当時我々が知っていた形では、その中に矛盾を含むと考えていました。ですから、揺動理論からのずれがあるという事実は本当でしたが、その事実は飲まざるを得ないと感じたのでした。それに、プランクの考えが始めは殆ど受け入れられなかったことも思い出して頂きたいものです。例のソルヴェイ会議で“いま論じられている輻射強度は一時的なものだ。黒体輻射はまだ物体と平衡状態になっていない。究極的にはレーリー・ジーンズ則に合うようになるさ”とお偉方は言ったものでした。というわけで、私が読み取る限りにおいて、量子はプランクによって発見されたと私は感じていますし、そして、アインシュタインは我々の讃嘆の的ですが、量子の発見はその最高のものではありません。)
(Woolf 1980, 194) ■
 このウィグナーの反論に対するクーンの反応は、SSRと『黒体輻射』を対にして分析すればするほど、実に興味深いものです。『黒体輻射』の後記(1987年に追加、今後『後記』と略記)のタイトルは“AFTERWORD: REVISITING PLANCK(後記:プランクを再訪する)”となっています。その最後の節「Historiographic/Philosophical Addendum.(歴史方法論的/哲学的補遺)」には、あらためて自分が生涯やってきたことの意味を確認し主張しようとするクーンの気持が強く表れています。SSRでは、科学者の語る科学史が史的真実を歪曲しているという事が繰り返し述べられています。『後記』でもその攻撃は痛烈です。:
■ Later accounts of a discovery typically redescribe it, but again in the conceptual vocabulary of the period in which they are prepared. The result is the linearized or cumulative histories familiar from science textbooks and from the introductory chapters of specialized monographs. Those accounts, however, almost never withstand detailed comparison with documents from the period of the discovery. And when discrepancies are pointed out, one or another variant of a second standard technique for resisting the past is often deployed. Faced with apparent anomalies in the work of the discoverer, scientists and at least an occasional historian protect their version of the discovery by invoking the discoverer’s “confusion” during the early stages of its emergence. It is only because he was confused, they explain, that his words fail to fit their story. (時が経ってからの一つの発見の物語はその発見を記述しなおすのが普通だが、この場合もまた、それは物語が準備される時代の概念的語彙を使って再記述される。その結果は、科学教科書や専門的な研究著書の序章によく見られる一本調子の、または、累積的な歴史である。しかしながら、そうした記述は殆ど常にその発見が成された時期の記録資料との詳しく比較に耐えられない。そして、食い違いが指摘されると、過去に逆らうために持ち出される二番目の標準的なテクニックのあの手この手がしばしば用いられる。発見者の仕事にはっきりとした変な所が認められると、科学者たちや少なくとも一人やそこら科学史家も加わって、その発見の初期の段階で発見者が“混乱していた”として彼らの発見物語を弁護しようとする。ただただ発見者が混乱していたから、彼の言ったことが自分たちの発見物語にフィットしないのだと言うのが、彼らの説明だ。)(Kuhn 1987, 366-7) ■
 この後もボーアやプランクを例に持ち出して “発見者が混乱していた”という説明法を執拗に拒否して、次のように総括します。:
■ That way of talking a discovery makes no sense. Taken literally, it suggests that the discovery, of which its author is said to have had only a confused view, had already been made, was somehow already there, in the discoverer’s mind. Occasionally that implication is explicit. The discoverer, I am then told, was relying on intuition; his view of his discovery was still so clouded that he could only grope his way to it; that is why he described what he had in mind in such odd and inconsistent ways, appeared so much a sleepwalker as he proceeded towards his discovery. (発見をこういう風に語るのは意味をなさない。その語り口を文字通りに取れば、発見者が単に混乱した考えしか持っていなかったというその発見が、実は、発見者の心の中で既に成されていて、そこに存在していた、という事になる。時折はその意味するところがはっきり述べられる。私が聞かされるのは、発見者は直感に頼っていたのだということだ;彼の発見についての見当はまだあまりに曇っていて、もごもご手探りでそれに近づくことが出来るだけだ;それこそが、彼の心の中にあった事柄をあれほど変梃な辻褄の合わないやり方で描いた理由だであり、発見に向けて前進する有様がまるで夢遊病者のようだった理由だ、という事だ。) (Kuhn 1987, 367) ■
 さて、これが、前回の終りに出しておいた“夢遊病者(Sleepwalker)”というキーワードの本当の出所です。ハイルブロンが引いたクーンの言葉を、念のため、おなじく前回のブログ記事から反復転載します。:
■ The book was criticized for not making explicit use of paradigms, crises, and revolutions. Kuhn replied that his effort to situate Planck’s initial approach to black-body radiation within the physics of the time followed strictly the precepts, if not the apparatus, of Structure. The appropriate treatment of Planck made him “ a better physicist??less a sleepwalker?? than the Planck of the standard story.” (本書では(SSRの概念装置である)パラダイム、危機、革命が表立って使用されていないではないかという批判を受けた。これに対してクーンは、黒体輻射についてのプランクの初期の扱い方を当時の物理学の枠内に置いて考察する努力は、『科学革命の構造』で提出された指針に---その道具立てに、ではないにしても---厳格に従うものだった、と答えた。そのように適切な取り扱いをすることで、“プランクを、定番物語のプランクよりも、その夢遊病者的イメージを弱め、より良い物理学者に仕立てたのだ”と言った。)(Heilbron, 1998, 511)■
 クーン批判論を展開している私は、ここで、一つの意地の悪い設問を持ち出してみたいと思います。:「クーンはプランクを夢遊病者よりもましな物理学者に仕立ててやったと言うけれど、本物のプランクには、やはり、夢遊病者的なところがあったのではないか?」実は、問題の1900年の時点、つまり、プランクが彼の放射分布式に行き当たった時点で、プランクがまさしく夢遊病者的であったことを伝えるエピソードがあるのです。それはハイゼンベルクが1958年に出版した『物理学と哲学(PHYSICS AND PHILOSOPHY)』に語られています。それは1900年の夏のことでした:
■ It was told by Planck’s son that his father spoke to him about his new ideas on the long walk through the Grunewald, the wood in the suburbs of Berlin. On this walk he explaned that he felt he had possibly mad a discovery of the first rank, comparable perhaps only to the discoveries of Newton. (プランクの息子さんから聞いたのだが、親爺さんは、ベルリンの郊外にあるグリュネヴァルトの森を通って長い散歩をしていた時に、彼の新しいアイディアについて話をしたという。散歩しながら、彼はニュートンがした発見としか較べるものがない程の第一級の発見をしたのではないかと思ったと説明したというのだ。)(2007年版、p5)■
森の中を散歩しながら、ニュートンに匹敵する大発見をしたかも、などと息子に語るプランクこそ夢遊病者そのものではありませんか!
 冗談はさておき、ここにはクーンの物理学者としての実体験に致命的な欠陥があったことが示唆されていると私は考えます。それは一人称的な“発見”の瞬間の経験の有無です。発見の価値の大小は問題ではありません。発見が自然科学者(数学者もここに含めましょう)を訪れる時の経験を持ったかどうかの問題です。クーンとポラニーの間の深刻な断絶もここに由来します。
 ポラニーの科学哲学の主著『Personal Knowledge(個人的知識)』(略記PK、1958年)の難解さはそのタイトルに始まりますが、普遍性が売り物の筈の自然科学的知識を敢えて「個人的知識」と呼ぶところにポラニーの真骨頂があるのです。ポラニーは、新しい普遍的知識が最初には個人によって感得され、それが一般的に承認されるプロセスに重大な関心を寄せました。タイトルの起源です。PKのp124以下に「Mathematical Heuristics(数学的な発見法)」という一節があります。“Obsession with one’s problem is in fact the mainspring of all inventive power.(自分の問題にあくまで食らいつく執念こそが、実際、あらゆる発明能力の根源だ)”とか“Look at unknown.(未知なるものを凝視せよ)”とか、面白い文章が沢山見つかりますが、ここではプランク/アインシュタイン問題と関連のある大数学者ガウスの逸話を引くことにします。:
■ Gauss is widely quoted as having said: ‘I have had my solutions for a long time but I do not yet know how I am to arrive at them.’ Though the quotation may be doubtful it remains well said. A situation of this kind certainly prevails every time we discover what we believe to be the solution to a problem. (ガウスの言ったこととして広く引用されてきた言葉がある。:“もう随分と前から問題の解答は胸中にあるのだが、どのようにしてその解答に到達したらよいのかまだ分からない。”本当にこう言ったかどうか怪しいものだが、言い得て妙であることに変わりはない。我々が一つの問題の解答と信ずるものを発見する時には、いつもこうした状況が確かに生じる。)(PK, 130-1) ■
 PKの中にある話ではありませんが、バートランド・ラッセルもよく似たことをもっと詳しく述べています。:
■ I don’t know how other people philosophize, but what happens with me is, first, a logical instinct that the truth must lie in a certain region, and then an attempt to find its exact whereabouts in that region. I trust the instinct absolutely, though it is blind and dumb; but I know no words vague enough to express it. … Even in the most purely logical realms, it is insight that first arrives at what is new. (他の人々がどんな風に哲学するか知らないけれど、私の場合には、先ず、真理はきっとその辺りにあるに違いないという論理的な直感が起こり、次に、その正確な所在をその領域内で見出す試みが行なわれることになる。直感は盲目で無口だが、私はその直感に絶対的な信を置く;直感の茫漠さをうまく言い表す言葉がないが・・・・。もっとも純粋に論理的な領域であっても、何か新しい事に最初に行き当たるのは洞察だ。) (Alan Wood, Bertrand Russell 1958, 49-50) ■
 ベルリン郊外の森の中で息子に話しかけたプランクの胸にも同じ想いが揺れていたのでしょう。ある問題について、科学者があるグッド・アイディアに行き当たった(躓いた!?)と直感する現象は、やがては、脳科学的研究である程度まで説明できるようになるかもしれません。面白いことに、こうした直感は同じ問題を考えている同業の科学者の心中でも働くのが常です。つまり、他人が行き当たったアイディアを耳にして“あ、これはヒットらしいぞ”と直感するのです。“先を越されたな”と咄嗟に感じるかも知れません。競争心がなければ、“This is it! He(She) has done it!(これだ!彼(彼女)やったな!)”といった直感です。こうしたことは、1981年のノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士のお仕事をめぐっても生じました。それについては拙著『老いぼれ犬と新しい芸』(岩波、1984年)でやや詳しく論じたことがあります。物理学者としてのクーンに致命的に欠けていたものは、そうした状況の実体験です。この体験の欠除が科学史家として又科学哲学者としてのクーンの思考の場に大きな穴をもたらしました。これに加えて、「量子的非連続性に初めて行き当たったのはアインシュタインであってプランクではない」と晩年言いはったクーンは自分がSSRで強調した主張の一つと矛盾することになりました。SSRの冒頭には次のように書いてあります。:
■In recent years, however, a few historians of science have been finding it more and more difficult to fulfil the functions that the concept of development-by-accumulation assigns to them. As chroniclers of an incremental process, they discover that additional research makes it harder, not easier, to answer questions like: When was oxygen discovered? Who first conceived of energy conservation? Increasingly, a few of them suspect that these are simply the wrong sorts of questions to ask. (しかしながら、近年になって、少数の科学史家は、累積による発展という概念が彼らに振り当てる役割を果たすのが次第に難しくなるのに気が付き始めている。増分的なプロセスの年代記的な記録者として、酸素が発見されたのは何時か、誰がエネルギー保存則を初めて思いついたか、といった設問に答えることが、研究を重ねるにつれて易しくなるどころか、だんだん難しくなることを見出している。彼らは、こうした問いかけ方そのものが全く間違っているのではないのかと考えるようにますますなっているのだ。)(SSR4, 2)■
そして酸素の発見についてはプランク/アインシュタインの量子的非連続性の発見の問題に直接かかわりのあるようなことを述べています。:
■ By 1777, probably with the assistance of a second hint from Priestley, Lavoisier had concluded that the gas was a distinct species, one of the two main constituents of theatmosphere, a conclusion that Priestley was never able to accept.
This pattern of discovery raises a question that can be asked about every novel phenomenon that has ever entered the consciousness of scientists. Was it Priestley or Lavoisier, if either, who first discovered oxygen? In any case, when was oxygen discovered? In that form the question could be asked even if only one claimant had existed. As a ruling about priority and date, an answer does not at all concern us. Nevertheless, an attempt to produce one will illuminate the nature of discovery, because there is no answer of the kind that is sought. Discovery is not the sort of process about which the question is appropriately asked. (1777年までに、おそらくプリーストリーからの二度目のヒントに助けられて、ラヴォアジェはその気体は別種のもので、空気の二つの主要成分の一つだと結論していた。この結論はプリーストリーが最後まで受け入れることのできなかったものだった。)
 この発見のパターンは、これまで科学者の意識の中に入ってきた あらゆる新現象について問うことのできる疑問を提起する。酸素を最初に発見したのは、二人のうちのどちらかとして、プリーストリーかラヴォアジェか?とにかく、いつ酸素は発見されたのか?この形なら、発見したと称する者が一人だけの場合にも設問が出来よう。初めて誰がいつ発見したかを裁定する答えを求める気は全くないのだが、しかし、そうした答えを得ようとしてみると、発見というものの性質が浮き彫りになるだろう、なぜなら求めるような種類の答えは存在しないからだ。発見の過程は、はじめて誰がいつしたかと適切に問えるような過程ではないからだ。)(SSR4, 54) ■
つまり、クーンがSSRで強調していたことに従えば、「量子的非連続性は1900年にプランクが発見したのではなく、1905年にアインシュタインが発見したのだ」と言い張ったのは間違いだったということになります。その上、ウィグナーをはじめとする物理学者が「そのアイディアに最初に行き当たったのは、やはり、プランクだと思うな」と反論した時、発見をする物理学者が一種の夢遊病者みたいな状況にあり得ることを、自己体験に欠けたクーンは理解することが出来ませんでした。
 もちろん、プリーストリーがプランクでラヴォアジェがアインシュタインに当たる、などと言っているのではありません。酸素の発見と量子的非連続性の発見を同列に置くことは出来ません。20世紀前半の量子物理学の形成はニュートンの名に代表される古典物理学の成立を超える科学史的哲学的大事件であり、それが意味するところの全貌は未だに良く把握されていません。量子力学についてのアインシュタインの解釈が主流を外れてしまったことはよく知られています。しかしアインシュタインが1905年に光量子の形で量子的非連続性の発見に決定的寄与をしたことに曖昧さはありません。
 科学史家としてのクーンが提起した「プランクかアインシュタインか」の問題は、おそらくポストモダン思想界でのSSRの過剰な影響のおかげで、今世紀に入っても尾を引いているようです。一例としてClayton A. Gearhartという人の2002年の論文を引いておきます。:

http://employees.csbsju.edu/cgearhart/Planck/PQH.pdf

 上に指摘しましたが、クーン自身がSSRで言っているように、「誰が何をいつ発見したか」を時間が経ってから史的資料で追うことには方法的に問題があるのでしょう。しかし、1900年の時点でプランクの放射分布式の仕事にじかに接したローレンツ、エーレンフェスト、ボーアなどの優れた物理学者たちは、何か極めて重大なことが起ったことを直感的に悟ったのであり、そうした人々の中にアインシュタインもいたのだと私は考えます。

藤永 茂 (2014年2月17日)


クーンのSSRは穴だらけ(2)

2014年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
 前回の(1)からもう4ヶ月半も経ってしまいました。身辺多事で静かに机に向かう時間が少なくなっていますが、頭の中でまで怠けていたわけではありません。この月日の間に私の思考のピントはますます良く合って来た感じです。科学史、科学史方法論、科学哲学の書物としてのクーンの『科学革命の構造』(SSR)の価値はいよいよ下落し、その一方で、SSRが何故あれだけ騒がれたかという文化史的思想史的問題が私の心の中でますます大きくふくれ上がって来ています。
 まずクーンのSSR(『科学革命の構造』)は科学史、科学史方法論の書物として実際的な価値が殆どありません。またまた同じ引用を繰り返すことになりますが、SSRの冒頭の段落は、時の科学哲学者たちの唱える自然科学のイメージに対する果敢な宣戦布告として有名です。
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 History, if viewed as a repository for more than anecdote or chronology, could produce a decisive transformation in the image of science by which we are now possessed. That image has previously been drawn, even by scientists themselves, mainly from the study of finished scientific achievements as these are recorded in the classics and, more recently, in the textbooks from which each new scientific generation learns to practice its trade. Inevitably, however, the aim of such books is persuasive and pedagogic; a concept of science drawn from them is no more likely to fit the enterprise that produced them than an image of a national culture drawn from a tourist brochure or a language text. This essay attempts to show that we have been misled by them in fundamental ways. Its aim is a sketch of quite different concept of science that can emerge from the historical record of the research activity itself. 「歴史は、逸話や年表以上のものを収めてある宝庫と見なしてみると、今われわれに取り憑いている科学のイメージの決定的な変革を生み出しうるであろう。そのイメージは、これまで、われわれが、科学者自身すら含めて、おもに完成した科学的成果を調べることから引き出してきた。それらの成果は古典的著作の中に、また、もっと近頃は、科学者のそれぞれの新世代が仕事のやり方を学ぶ教科書の中に記録されている。しかし、避けられないのは、そうした書物の目的が説得的で教育的になることである:したがって、それらから引き出された科学の観念が、それらの書物を生み出した科学という事業によく適合するものではないのは、観光パンフレットや語学テキストから引き出される一国の文化像と同じようなものである。この論考は、われわれがそれらの書物によって根本的に誤った方向に導かれていたことを示そうと試みる。その目指すところは、研究活動そのものの歴史的記録から立ち現れる、これまでとは全く違った科学の概念をスケッチすることである。」(SSR, 1)
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ここには、科学論、科学哲学の方法論、つまり、「科学とは何か」という問いの答えを科学の歴史的事実から読み取って来るという方法論が打ち出されています。今の時点で現前する科学、具体的に物理学とか化学などの自然科学、の静的な構造内容を考察して科学哲学を構築するだけでなく、経時的(歴史的)な動態も考察して、その本質を摘出してくる方が良いと思われますし、そうした営みはクーン以前にも勿論行なわれていましたが、クーンは今までのやり方では駄目だと言っているわけです。
 クーンの『科学革命の構造』(The Structure of Scientific Revolutions)というタイトルで科学革命が複数になっています。世界史上「科学革命」は一回起ったという立場があり、また革命と呼ぶにふさわしい自然科学の大変革が幾つか起ったとする立場もよく取られます。クーンのSSRの場合に特徴的なのは、「科学革命には大きな革命や小さな革命やうんざりするほど(ad nauseam)沢山ある」という立場を取っていることです。しかも、一つの学問分野の歴史的進展(developments)は、一つの明確なパターンに従って、大なり小なりの科学革命を繰り返しながら行なわれるのが史的事実だとして提出しました。これについては、前回のブログで次のように書きました。:
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 トーマス・クーンはSSR『科学革命の構造』を主に哲学者に向けて書いたと晩年言っていますが、この著作が科学論の歴史的方法論革命(a historiographic revolution in the study of science, SSR4, p3)を引き起こす期待も持っていました。
科学の進展は、例のクーンのパターン;
<前パラダイム期>→<パラダイム(1)>→<通常科学期(1)>→<異常科学期(1)>→<パラダイム(2)>→<通常科学期(2)>→<異常科学期(2)>→<パラダイム(3)>→ ・・・・・
に従って行なわれ、新しいパラダイムが旧いパラダイムを倒して取って代わる事態が科学革命であり、そして、科学の歴史には大小多数の科学革命が認められるとクーンは主張しました。ところが科学史上でこの進展パターンにうまく適合する事例が見つからないという単純な事実から、クーンが期待した科学史の方法論的革命は生じませんでした。これから起る見込みも全くありません。
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私のこの断定はクーン自身の発言によってもその正しさが確かめられます。私のクーン論で鬼の首でも取ったかのように度々引用しているハイルブロンのクーン論にも、この科学革命の構造の理論は「理論ではないし、歴史的記録には当てはまらない」とクーンがはっきり言い切ったことが記されています。
■ When asked what historical episodes he would assign to doctoral students to confirm his theory of revolutions, he replied, “It is not a theory, and I do not expect it to match the record.” (彼の科学革命の理論の正しさを裏付けるために、どのような歴史的エピソードを博士課程の学生に振り当てるか、と聞かれた時に、“それは理論ではないし、またそれが歴史的記録にうまく当てはまることは期待していない。”とクーンは答えた。)(Heilbron, 1998, 511)■
クーン本人が彼の有名なパターンは歴史の事実に当てはまらないと言っているのですから、これ以上の有力証言はありますまい。実際のところ、SSR以後に、唯一、彼が心血を注いで書き上げた科学史の著作『Black-Body Radiation and the Quantum Discontinuity (1978)』には、SSRで展開された科学革命理論、つまり、新旧二つのパラダイムを支持する二つの科学者共同体の間の、実験事実や論理では決着のつかない、争いを中心に据えた科学進展のパターン、は適用されていません。この点を指摘する声が上がったのは当然でした。ハイルブロンも次のように書いています。
■ The book was criticized for not making explicit use of paradigms, crises, and revolutions. Kuhn replied that his effort to situate Planck’s initial approach to black-body radiation within the physics of the time followed strictly the precepts, if not the apparatus, of Structure. The appropriate treatment of Planck made him “ a better physicist??less a sleepwalker?? than the Planck of the standard story.” (本書では(SSRの概念装置である)パラダイム、危機、革命が表立って使用されていないではないかという批判を受けた。これに対してクーンは、黒体輻射についてのプランクの初期の扱い方を当時の物理学の枠内に置いて考察する努力は、『科学革命の構造』で提出された指針に---その道具立てに、ではないにしても---厳格に従うものだった、と答えた。そのように適切な取り扱いをすることで、“プランクを、定番物語のプランクよりも、その夢遊病者的イメージを弱め、より良い物理学者に仕立てたのだ”と言った。)(Heilbron, 1998, 511)■
なぜ“sleepwalker(夢遊病者)”という奇妙な言葉が出ているかは次回に説明しますが、クーンによるプランクの新しいイメージなり格付けなりがウィグナーなどの物理学者の間で不興を買ったのは、「量子的不連続性(Quantum Discontinuity)を考えついたのはアインシュタインであってプランクではない」とクーンが言い出したからです。「プランクは物体が光(輻射)とエネルギーのやり取りをする場合に、それが非連続的に行なわれると結論しただけで、光そのものがエネルギーの粒(光量子)のように振る舞っていると明言したのはアインシュタインだ」というのがクーンの主張でした。パラダイムという言葉を強いて使えば、プランクは古典力学パラダイムの中に囚われていたが、それを振り切って新しい量子パラダイムを発想したのはアインシュタインだ、ということになります。ただし、クーン自身はもう“パラダイム”という言葉は使いませんでした。
 SSRが科学史,科学史の方法を論じた書物として価値が低い、あるいは、著者のクーンが科学史家として大した存在ではないという裁定に対して、「SSRはもともと哲学者に向けて書いた」とクーンは言うでしょう。クーンの最後の著書『構造以来の道(The Road since Structure, RSS)』(2000年)で、クーンは次のように言っています。
■ I had sat in on some lectures of Sarton’s as an undergraduate and found them turgid and dull. And I was not in my bones a historian; and I was interested in philosophy. But I had no real interest in history, and this Aristotle experience was terribly important. Conant, in case histories of his own and in his teaching, never I think saw to the extent that I did the need to say what people had believed before. He would always start in more or less with the beginning of the work. There would be something about it, but there was very little preparation for getting to the person. I always felt you had to do more; and that meant you had to do a stage set, within another conceptual framework, in order to get at these things. And that was what this did for me. But the main thing is, it didn’t really get me interested in history of science; and there are those who feel, and feel with some justice, that I never really did get to be a historian. I think in the end I did get to be a historian, but of a rather special narrow sort. I used to think ?? forgive me ?? that with the possible exception of Koyré, and maybe not with the exception of Koyré, I could read texts, get inside the heads of the people who wrote them, better than anybody else in the world. I loved doing that. I took real pride and satisfaction in doing it. So, being a historian of that sort was something I was quite willing to be and got a lot of kicks out of being, and did my best to teach other people to do. I’ll come back to that. But my objectives in this, throughout, were to make philosophy out of it. I mean, I was perfectly willing to do the history, I needed to prepare myself more. I wasn’t going to go back and try to be a philosopher, learn to do philosophy; and if I had, I’d have never been able to write that book! But my ambitions were always philosophical.
(学部の学生として私はサートンの講義の幾つかに出たことがあったけれど、仰々しいだけで退屈だった。それに歴史家になるぞという気が私にはなかったし、哲学にこそ興味を持っていた。歴史に本当の興味はなかったが、このアリストテレス啓示は大変重要に思えたのだ。コナントは彼の事例史研究でも講義でも、ある史的事例より以前に何を人々が信じていたかに言及する必要性を、私ほどには、認識していなかった。およそ事例の立ち上がりの所から話を始めるのを常としていて、それなりの工夫はあっただろうが、事例の主役人物に迫る準備はほとんど何もなされなかった。私は、もっと努力して、そうした事どもに到達するには、事例の枠とは別の概念枠の中に舞台を設定すべきだといつも感じるようになった。これこそがあのアリストテレス啓示が私のためにやってくれた事だったのだ。だが、一番強調したいことは、それが私に本当に科学史に興味を持たせることにはならなかったという点だ。それがあるものだから、私は決して本当には歴史家であったことがないのだと感じている人々がいるが、それも一理はある。結局の所、私は歴史家になったのだが、それは独自の限定的な類いの歴史家になったという事だ。かつて私はよく思ったものだ???口はばったいことを言わせてもらうが ??? 多分コイレは別として、いやコイレを含めても、私は史料テキストを読み、その筆者の頭の内側にもぐり込むことにかけては世界中の誰よりも上手だとね。それをやるのが凄く面白かった。それをやることにほんとの誇りを感じ、満足を覚えたものだった。というわけで、そんな特別の種類の歴史家であることに大いに乗り気だったし、そうあることに非常な快感を味わい、他の人々にもそうやることを教えるのにベストを尽したものだ。この話は後でまたしよう。しかし、ここでの私の終始一貫した目的は、そうすることから哲学を作り上げることだったのだ。つまり、私はそのために全く自ら進んで歴史の勉強に励んだ、もっとよく準備を整える必要があったのだ。後戻りして、哲学者になろうとし、哲学の勉強をすることはしなかった、もし、私がそれをやっていたら、あの本(SSR)を書くことは金輪際できなかっただろうよ。しかしながら、私の野心は常に哲学的なものだったのだ。)(RSS, pp275~6 )?■
 上の発言の中で、「結局の所、私は歴史家になったのだが、それは独自の限定的な類いの歴史家になったという事だ。」という部分には興味深いクレームが行なわれています。「私は史料テキストを読み、その筆者の頭の内側にもぐり込むことにかけては世界中の誰よりも上手だ」というクレームです。彼がSSRで提唱した科学進展のパターン(科学革命の構造)は実際の史実に適合せず、科学史研究に方法論的革命を起すという彼の野望は潰えましたが、“筆者の頭の内側にもぐりこむ”という心理的方法は、それを自らの誇りとし、学生たちにも教え込もうとしました。科学史の解釈学的方法、技術、あるいは、心得と言ってよいでしょう。
 しかし、この点に就いても、彼の第一の弟子ハイルブロンの批判はなかなか厳しいものでした。:
■ The right way to do history of science, Kuhn’s way, was “to climb into other people’s heads.” He meant that the historian od science must learn the technical languages, approaches to problems, and theoretical and experimental resources of his actors so as to be able to make full and good, if not coherent, sense of their writings. No doubt he was a master of this art. In truth, however, he climbed about in only small and isolated spots in the heads he hunted. In his usage “Max Planck” stood not for a once-living person, but for a certain small set of papers and letters.(科学史研究の正しいやり方、クーンのやり方、とは“他の人々の頭の中に登って入り込む”ことだった。彼が意味したのは、科学史家は専門技術語を身につけ、問題の取り組み方、研究対象の科学者たちの理論家として実験家としての力量や蓄積を知ることで、彼らの研究論文を、例え首尾一貫していなくとも、全体としては良く理解することが出来るようでなければならない、ということだった。疑いもなく彼はこうしたやり方の達人だった。だが、実際としては、彼が物色する頭脳の小さな特定のスポットだけに登り込んだのだった。彼が使った“マックス・プランク”という呼称は、かつて世にあった生身の人間ではなく、ある特定のプランクの論文や手紙の小しばかりの集まりを表していた。)(Heilbron, 1998, 511)■
ハイルブロンはここで特にプランクの場合を問題にしていますが、SSRでのクーンが特にうまく頭の内側にもぐり込めたと思った科学者として、アリストテレスとガリレイが挙げられるでしょう。例の有名な「アリストテレス啓示(epiphany)」については既に何度か言及しました。ガリレイについてクーンが強調したのは「ガリレイは殆どすべての事を頭の中で理論的に考えた。実験には頼っていない」ということでした。この場合、困ったことに、クーンは科学史の師ともいえるコイレのガリレイ観にすっかり感染していましたから、ガリレイの頭の内側にもぐり込んだにしても、その既成観念に当てはまる資料しか目につきませんでした。ガリレイの残した資料をよく調べてみると、やはり、ガリレイは実験結果にも大いに頼っていたことが、カナダ人学者の Stillman Drake などによって確かめられた。ハイルブロン自身も2010年に『GALILEO』という500頁の大著を出版しました。そのカバーには“By far the best general reconstruction of Galileo’s private and intellectual life available in the English language.”という称賛の言葉が印刷されています。ハイルブロンは恩師クーンの指針に、おそらく師よりも、忠実に従って、迫真のガリレイ像を描き上げたと思われます。しかし、クーンの名前もコイレの名前も索引には出ていません。(コイレのガリレイ文献はあげてありますが。)プランクについては、ハイルブロンは1996年(クーンの亡くなった年)に『The Dilemmas of an Upright Man』と題する極めて興味深い書物を出版していますが、ここでもクーンの名は索引に出ていず、量子の考えの生みの親はプランクかアインシュタインかの問題も取り上げられていません。これはいわゆる「耳を覆わんばかりの沈黙」というやつです。ハイルブロンには遠慮の気持があったのでしょう。しかしクーンの弟子でない私は遠慮しないことにします。
 1962年にSSRを出版したクーンは科学史家、科学哲学者として注目のまとになりましたから、次の著作『Black-Body Radiation and the Quantum Discontinuity (1978)』には期待が盛り上がりましたが、それは大きく裏切られました。科学史の見地からの失望と批判については既に上述した通りで、まず、SSRで提唱された方法論が適用されていない事、また、具体的には、「量子的不連続性(Quantum Discontinuity)を考えついたのはアインシュタインであってプランクではない」というクーンの主張に対する物理学者からの反論です。さらに、科学哲学者からも失望の声が漏れました。次回には、クーンがプランクに関して使用した“夢遊病者(Sleepwalker)”というキーワードを中心にして話を続けます。

藤永 茂 (2014年2月6日)