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SSR: Thomas Kuhn “The Structure of Scientific Revolutions”
RSS: Thomas Kuhn “The Road Since Structure”
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上のタイトルには言葉の引っかけ遊びがありますが、悪意はありません。歴史的な科学哲学者、と読むか、歴史的科学哲学を唱えた哲学者、と読むか、ということです。クーンの場合、どちらの読み方をしても間違っていないと言ってもよいかもしれません。しかし、前々回で討議を始めたクーンの最後の公式講演、『The Trouble with the Historical Philosophy of Science』、を読むと、科学哲学の一古典としてこれからも読み継がれると思われるクーンのSSRで、クーンが声高に主張したことが事実上そっと取り下げられていて、しかも講演の結語が
da capo al fine (ダ・カーポ・アル・フィーネ)
つまり、「始めから終りまでもう一度やりなおし」であるのは、まことに意味深長と言わねばなりません。前々回のブログ(2010年12月1日)で、遺作の予定タイトルが、
(1)The Plurality of Worlds: An Evolutionary Theory of Scientific Discovery
(2)Scientific Development and Lexical Change
と二通りあることを指摘しましたが、(1)は、John Preston (Kuhn’s The Structure of Scientific Revolutions, 2008, p9)によると、三分の二書き上げられていたとなっており、(2)は、佐々木力(構造以来の道、2008年、p462)によると、「本質的に完成に近い形態で遺されたらしい」となっていて、その公刊の日が待たれます。ここに見られる“進化論”と“辞書変化”の言葉から、クーンのfinal words がSSRでの強調点から可成りずれたものであることが窺えます。そのあたりの感じを手探りするために、前々回に約束した、クーンの最終講演『The Trouble with the Historical Philosophy of Science』の終りに近い要約の一節の訳出を行ないます。
■ With these remarks I conclude the presentation of the subject announced in my title. I shall shortly add a very short coda for those who know my earlier work. But first let me summarize the point we’ve reached. The trouble with the historical philosophy of science has been, I’ve suggested, that by basing itself upon observations of the historical record it has undermined the pillars on which the authority of scientific knowledge was formally thought to rest without supplying anything to replace them. The most central of the pillars I have in mind were two: first, that facts are prior to and independent of the beliefs for which they are said to supply the evidence, and, second, that what emerges from the practice of science are truths, probable truths, or approximations to the truth about a mind- and culture-independent external world.
What’s gone on since the undermining occurred has been efforts either to shore up those pillars or else to erase all vestige of them by showing that even in its own domain science has no special authority whatsoever. I’ve tried to suggest another approach. The difficulties that have seemed to undermine the authority of science should not be seen simply as observed facts about its practice. Rather they are necessary characteristics of any development or evolutionary process. That change makes it possible to reconceive what it is that scientists produce and how it is that they produce it.
Sketching the needed reconceptualization, I’ve indicated three of its main aspects. First, that what scientists produce and evaluate is not belief tout court
but change of belief, a process which I’ve argued has intrinsic elements of circularity, but of a circularity that is not vicious. Second, that what evaluation aims to select is not beliefs that correspond to a so-called real external world, but simply the better or best of the bodies of belief actually present to the evaluators at the time their judgments are reached.・・・・■ (RSS, 118-119)
<翻訳> 以上に述べた所見をもって、私の講演タイトルで表明した主題のプレゼンテーションを終ることにします。このすぐ後に、私の初期の仕事をご存じの方々のために、ごく短いコーダ(終結部)を付け加えますが、まずは、我々が到達した主眼点を要約しましょう。歴史的科学哲学のトラブルは、私がすでに示唆したように、科学的知識の権威を支えていると思われていた支柱を、歴史的記録を観察することで、歴史的科学哲学が、それらに代わる支えを何も供給しないまま、土台から掘り崩してしまったという事にあります。そうした支柱のもっとも中心的なものとして、二本の柱を考えています。その第一は、事実というものは、それらが証拠を提供しているとされている信念に先だち、それとは独立して存在しているとすることであり、その第二は、科学の実践で現れてくるものは、人間の心にも文化にも依存しない外部世界についての真理、確かだと思われる真理、真理への近似だとすることであります。
支柱の掘り崩しが起ってからというものは、それらの支柱を何とかつっかえ棒で支えようとするか、さもなければ、科学そのものの領域ですら、科学は何ら特別の権威も持っていないことを示して、科学の支柱の名残のすべてを消し去る努力がなされて来ました。私は、もう一つのアプローチを示唆しようと努めてきました。科学の権威を掘り崩すものと思われてきた諸困難は、単に科学の実践について観察された事実であると看做すべきではありません。むしろ、それらはものの発展の過程、あるいは進化の過程のいずれにも見られる必然的な特徴なのです。こう見方を変えれば、科学者が生み出すものは何か、そして、どのようにして彼らがそれを生み出すのかを理解し直すことが可能になります。
この必要な再概念化をスケッチすることで、私はその三つの主要な様相を示唆してきました。その第一は、科学者が生み出し、評価するのは、信念そのものではなく、信念の変化だということであり、そのプロセスは、すでに私が論じたように、循環論の要素が本来的に含まれていますが、たちの悪い循環性ではありません。その第二は、その評価が選択を目指すのは、いわゆる実在外部世界に対応する信念ではなく、評価が下される時に評価者の前にある、単に、より良い、または最良の一群の信念なのだという事です。・・・・・。(翻訳終り)
前々回(2010年12月1日)には、この文章の後に、
■ ここに書いてあることの重要点をごくごく荒っぽく拾えば、次のようになります。:
(a)これまで歴史的科学哲学は、自然科学の歴史的事実の観察に基づいて、今まで自然科学の権威を支えていると思われていた支柱を、それに代わる何らの支柱も与えないまま、掘り崩して台無しにしてしまった。それからというものは、古い柱を何とかつっかえ棒で支えようとする人々と、自然科学なんて何の特別の権威もないとする人々との争いが続いている。
(b)しかし、自然科学が権威を失うことになったのは、歴史的事実がそうさせたというよりも、歴史的事実によって判断を下すまでもなく、自然科学者がやっていることの本質を考え直せば(reconceive,辞書にはない言葉)、当たり前のこと、必然的なことになる。
(c)必要な考え直しの第一のポイントは、自然科学者が生み出し評価する対象として、これまでは、信念そのものを考えてきたが、そうではなく、信念の変化である・・・。
いや、これだけでは、クーンさんここに来て何を言いたいのかよく分からないのは当然ですが、好奇心はそそられる筈です。「科学革命というのは科学者の信念の大きな変化のことであり、SSRは信念の革命的変化についての議論ではなかったのか?」とお考えの人が多いと思いますから。■
と書きましたが、今回は講演の本体に遡って、クーンが何を言おうとしたかをたどることにします。まず、ポイント(a)に就いて。クーンのSSRによって崩壊した自然科学の栄光と権威を何とか維持しようとするグループと、自然科学に特有な権威などもともと存在せず、すべては社会的に構築されたものだというグループとの、どちらにも与せずに、自らは別のアプローチを示唆することを試みてきた、とクーンは言いますが、やがて説明するように、彼は、ずっと以前からのSSR批判者、おもに A. MacIntyer とD. Shapere の考え方に次第に接近して行ったと看做す方が適切です。その「考え直し」の一番のポイントは、(c)に指摘したように「自然科学者が生み出し評価する対象として、これまでは、信念そのものを考えてきたが、そうではなく、信念の変化である」という変更にあります。講演の中核部に戻ってみましょう。
■ The characteristic concern of the historian is development over time, and the typical result of his or her activity is embodied in narrative. Whatever its subject, the narrative must always open by setting the stage, by describing, the state of affairs in place at the beginning of the series of events that constitutes the narrative proper. If that narrative deals with beliefs about nature, then it must open with a description of what people believed at the time when it began. That description must make it plausible that the beliefs were held by human actors, for which purpose it must include a specification of the conceptual vocabulary in which natural phenomena were described and in which beliefs about phenomena were stated. With the stage thus set, the narrative proper begins and it tells the story of change of belief over time and of the changing context within which those alterations occurred. By the end of the narrative those changes may be considerable, but they have occurred in small increments, each stage historically situated in a climate somewhat different from that of the one before. And at each of those stages except the first, the historian’s problem is to understand, not why people held the beliefs that they did, but why they elected to change them, why the incremental change took place. (RSS, 112) ■
この部分の翻訳は次回に行ないますが、お急ぎの方は佐々木訳『構造以来の道』(p142~3)をご覧下さい。いま注意を喚起しておきたいには、最後の部分[By the end of the narrative those change may be considerable, but ・・・・]の内容で、その部分を訳出します。:
■ 物語の終りに達すると、それらの変化は結構大きなものになるでしょうが、変化は小さな増分が積み重なって生じたもので、それぞれのステージは,歴史的に、一つ前のステージと少しばかり違った雰囲気の中に位置することになります。そして、最初のステージを除き、あとの各ステージでの歴史家の問題は、何故人々は彼らの信念を持つことになったか、ではなく、何故彼らが持っていた信念を変えようと思い立ったか、何故増分的変化が生じたか、を理解することにあります。■
砕いて言えば、自然科学の考え方の変化、信念の変化は、大きく一度に起る、革命的に起る、のではなく、incremental (増分的)に、段階的に、少しずつ起る、というのがクーンの「考え直し」なのです。これは、SSR(『科学革命の構造』)での彼のスタンスからの“反革命的”逆行ではありませんか! SSRの第1頁には、
■ If science is the constellation of facts, theories, and methods collected in current texts, then scientists are the men who, successfully or not, have striven to contribute one or another element to that particular constellation. Scientific development becomes the piecemeal process by which these items have been added, singly and in combination, to the ever growing stockpile that constitutes scientific technique and knowledge. And history of science becomes the discipline that chronicles both these successive increments and the obstacles that have inhibited their accumulation. (SSR, 1-2)■
と書いてあり、ここまで読んだところでは,上に訳出した文章と同じことを言っているようですが、SSRのクーンは、「そんなことは嘘っぱちだ」と声高に宣言しているのです。つまり、「自然科学の発展(scientific development)は次々に小さな増分的変化が積み上がったものではない」と強調したのです。上の引用文のすぐ後に続くSSRの第3頁には、
■ In recent years, however, a few historians of science have been finding it more and more difficult to fulfill the functions that the concept of development-by-accumulation assigns to them. As chroniclers of an incremental process, they discover that additional research makes it harder, not easier, to answer questions like: When was oxygen discovered? Who first conceived of energy conservation?■
とあって、小さな増分の積み上がりという科学発展のナラティブがはっきりと却下されています。生涯最終の講演でのクーンはSSRから遠く離れた場所に立っていました。
He had come a long way!
藤永 茂 (2010年12月29日)
SSR: Thomas Kuhn “The Structure of Scientific Revolutions”
RSS: Thomas Kuhn “The Road Since Structure”
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上のタイトルには言葉の引っかけ遊びがありますが、悪意はありません。歴史的な科学哲学者、と読むか、歴史的科学哲学を唱えた哲学者、と読むか、ということです。クーンの場合、どちらの読み方をしても間違っていないと言ってもよいかもしれません。しかし、前々回で討議を始めたクーンの最後の公式講演、『The Trouble with the Historical Philosophy of Science』、を読むと、科学哲学の一古典としてこれからも読み継がれると思われるクーンのSSRで、クーンが声高に主張したことが事実上そっと取り下げられていて、しかも講演の結語が
da capo al fine (ダ・カーポ・アル・フィーネ)
つまり、「始めから終りまでもう一度やりなおし」であるのは、まことに意味深長と言わねばなりません。前々回のブログ(2010年12月1日)で、遺作の予定タイトルが、
(1)The Plurality of Worlds: An Evolutionary Theory of Scientific Discovery
(2)Scientific Development and Lexical Change
と二通りあることを指摘しましたが、(1)は、John Preston (Kuhn’s The Structure of Scientific Revolutions, 2008, p9)によると、三分の二書き上げられていたとなっており、(2)は、佐々木力(構造以来の道、2008年、p462)によると、「本質的に完成に近い形態で遺されたらしい」となっていて、その公刊の日が待たれます。ここに見られる“進化論”と“辞書変化”の言葉から、クーンのfinal words がSSRでの強調点から可成りずれたものであることが窺えます。そのあたりの感じを手探りするために、前々回に約束した、クーンの最終講演『The Trouble with the Historical Philosophy of Science』の終りに近い要約の一節の訳出を行ないます。
■ With these remarks I conclude the presentation of the subject announced in my title. I shall shortly add a very short coda for those who know my earlier work. But first let me summarize the point we’ve reached. The trouble with the historical philosophy of science has been, I’ve suggested, that by basing itself upon observations of the historical record it has undermined the pillars on which the authority of scientific knowledge was formally thought to rest without supplying anything to replace them. The most central of the pillars I have in mind were two: first, that facts are prior to and independent of the beliefs for which they are said to supply the evidence, and, second, that what emerges from the practice of science are truths, probable truths, or approximations to the truth about a mind- and culture-independent external world.
What’s gone on since the undermining occurred has been efforts either to shore up those pillars or else to erase all vestige of them by showing that even in its own domain science has no special authority whatsoever. I’ve tried to suggest another approach. The difficulties that have seemed to undermine the authority of science should not be seen simply as observed facts about its practice. Rather they are necessary characteristics of any development or evolutionary process. That change makes it possible to reconceive what it is that scientists produce and how it is that they produce it.
Sketching the needed reconceptualization, I’ve indicated three of its main aspects. First, that what scientists produce and evaluate is not belief tout court
but change of belief, a process which I’ve argued has intrinsic elements of circularity, but of a circularity that is not vicious. Second, that what evaluation aims to select is not beliefs that correspond to a so-called real external world, but simply the better or best of the bodies of belief actually present to the evaluators at the time their judgments are reached.・・・・■ (RSS, 118-119)
<翻訳> 以上に述べた所見をもって、私の講演タイトルで表明した主題のプレゼンテーションを終ることにします。このすぐ後に、私の初期の仕事をご存じの方々のために、ごく短いコーダ(終結部)を付け加えますが、まずは、我々が到達した主眼点を要約しましょう。歴史的科学哲学のトラブルは、私がすでに示唆したように、科学的知識の権威を支えていると思われていた支柱を、歴史的記録を観察することで、歴史的科学哲学が、それらに代わる支えを何も供給しないまま、土台から掘り崩してしまったという事にあります。そうした支柱のもっとも中心的なものとして、二本の柱を考えています。その第一は、事実というものは、それらが証拠を提供しているとされている信念に先だち、それとは独立して存在しているとすることであり、その第二は、科学の実践で現れてくるものは、人間の心にも文化にも依存しない外部世界についての真理、確かだと思われる真理、真理への近似だとすることであります。
支柱の掘り崩しが起ってからというものは、それらの支柱を何とかつっかえ棒で支えようとするか、さもなければ、科学そのものの領域ですら、科学は何ら特別の権威も持っていないことを示して、科学の支柱の名残のすべてを消し去る努力がなされて来ました。私は、もう一つのアプローチを示唆しようと努めてきました。科学の権威を掘り崩すものと思われてきた諸困難は、単に科学の実践について観察された事実であると看做すべきではありません。むしろ、それらはものの発展の過程、あるいは進化の過程のいずれにも見られる必然的な特徴なのです。こう見方を変えれば、科学者が生み出すものは何か、そして、どのようにして彼らがそれを生み出すのかを理解し直すことが可能になります。
この必要な再概念化をスケッチすることで、私はその三つの主要な様相を示唆してきました。その第一は、科学者が生み出し、評価するのは、信念そのものではなく、信念の変化だということであり、そのプロセスは、すでに私が論じたように、循環論の要素が本来的に含まれていますが、たちの悪い循環性ではありません。その第二は、その評価が選択を目指すのは、いわゆる実在外部世界に対応する信念ではなく、評価が下される時に評価者の前にある、単に、より良い、または最良の一群の信念なのだという事です。・・・・・。(翻訳終り)
前々回(2010年12月1日)には、この文章の後に、
■ ここに書いてあることの重要点をごくごく荒っぽく拾えば、次のようになります。:
(a)これまで歴史的科学哲学は、自然科学の歴史的事実の観察に基づいて、今まで自然科学の権威を支えていると思われていた支柱を、それに代わる何らの支柱も与えないまま、掘り崩して台無しにしてしまった。それからというものは、古い柱を何とかつっかえ棒で支えようとする人々と、自然科学なんて何の特別の権威もないとする人々との争いが続いている。
(b)しかし、自然科学が権威を失うことになったのは、歴史的事実がそうさせたというよりも、歴史的事実によって判断を下すまでもなく、自然科学者がやっていることの本質を考え直せば(reconceive,辞書にはない言葉)、当たり前のこと、必然的なことになる。
(c)必要な考え直しの第一のポイントは、自然科学者が生み出し評価する対象として、これまでは、信念そのものを考えてきたが、そうではなく、信念の変化である・・・。
いや、これだけでは、クーンさんここに来て何を言いたいのかよく分からないのは当然ですが、好奇心はそそられる筈です。「科学革命というのは科学者の信念の大きな変化のことであり、SSRは信念の革命的変化についての議論ではなかったのか?」とお考えの人が多いと思いますから。■
と書きましたが、今回は講演の本体に遡って、クーンが何を言おうとしたかをたどることにします。まず、ポイント(a)に就いて。クーンのSSRによって崩壊した自然科学の栄光と権威を何とか維持しようとするグループと、自然科学に特有な権威などもともと存在せず、すべては社会的に構築されたものだというグループとの、どちらにも与せずに、自らは別のアプローチを示唆することを試みてきた、とクーンは言いますが、やがて説明するように、彼は、ずっと以前からのSSR批判者、おもに A. MacIntyer とD. Shapere の考え方に次第に接近して行ったと看做す方が適切です。その「考え直し」の一番のポイントは、(c)に指摘したように「自然科学者が生み出し評価する対象として、これまでは、信念そのものを考えてきたが、そうではなく、信念の変化である」という変更にあります。講演の中核部に戻ってみましょう。
■ The characteristic concern of the historian is development over time, and the typical result of his or her activity is embodied in narrative. Whatever its subject, the narrative must always open by setting the stage, by describing, the state of affairs in place at the beginning of the series of events that constitutes the narrative proper. If that narrative deals with beliefs about nature, then it must open with a description of what people believed at the time when it began. That description must make it plausible that the beliefs were held by human actors, for which purpose it must include a specification of the conceptual vocabulary in which natural phenomena were described and in which beliefs about phenomena were stated. With the stage thus set, the narrative proper begins and it tells the story of change of belief over time and of the changing context within which those alterations occurred. By the end of the narrative those changes may be considerable, but they have occurred in small increments, each stage historically situated in a climate somewhat different from that of the one before. And at each of those stages except the first, the historian’s problem is to understand, not why people held the beliefs that they did, but why they elected to change them, why the incremental change took place. (RSS, 112) ■
この部分の翻訳は次回に行ないますが、お急ぎの方は佐々木訳『構造以来の道』(p142~3)をご覧下さい。いま注意を喚起しておきたいには、最後の部分[By the end of the narrative those change may be considerable, but ・・・・]の内容で、その部分を訳出します。:
■ 物語の終りに達すると、それらの変化は結構大きなものになるでしょうが、変化は小さな増分が積み重なって生じたもので、それぞれのステージは,歴史的に、一つ前のステージと少しばかり違った雰囲気の中に位置することになります。そして、最初のステージを除き、あとの各ステージでの歴史家の問題は、何故人々は彼らの信念を持つことになったか、ではなく、何故彼らが持っていた信念を変えようと思い立ったか、何故増分的変化が生じたか、を理解することにあります。■
砕いて言えば、自然科学の考え方の変化、信念の変化は、大きく一度に起る、革命的に起る、のではなく、incremental (増分的)に、段階的に、少しずつ起る、というのがクーンの「考え直し」なのです。これは、SSR(『科学革命の構造』)での彼のスタンスからの“反革命的”逆行ではありませんか! SSRの第1頁には、
■ If science is the constellation of facts, theories, and methods collected in current texts, then scientists are the men who, successfully or not, have striven to contribute one or another element to that particular constellation. Scientific development becomes the piecemeal process by which these items have been added, singly and in combination, to the ever growing stockpile that constitutes scientific technique and knowledge. And history of science becomes the discipline that chronicles both these successive increments and the obstacles that have inhibited their accumulation. (SSR, 1-2)■
と書いてあり、ここまで読んだところでは,上に訳出した文章と同じことを言っているようですが、SSRのクーンは、「そんなことは嘘っぱちだ」と声高に宣言しているのです。つまり、「自然科学の発展(scientific development)は次々に小さな増分的変化が積み上がったものではない」と強調したのです。上の引用文のすぐ後に続くSSRの第3頁には、
■ In recent years, however, a few historians of science have been finding it more and more difficult to fulfill the functions that the concept of development-by-accumulation assigns to them. As chroniclers of an incremental process, they discover that additional research makes it harder, not easier, to answer questions like: When was oxygen discovered? Who first conceived of energy conservation?■
とあって、小さな増分の積み上がりという科学発展のナラティブがはっきりと却下されています。生涯最終の講演でのクーンはSSRから遠く離れた場所に立っていました。
He had come a long way!
藤永 茂 (2010年12月29日)