トーマス・クーン解体新書

トーマス・クーン『科学革命の構造』の徹底的批判

ESP(超感覚的知覚)(2)

2015年02月14日 | 日記
 あらためてアインシュタインの言葉を掲げます。:
■ “The intuitive mind is a sacred gift and the rational mind is a faithful servant. We have created a society that honors the servant and has forgotten the gift.”
- Albert Einstein
「直観的な心は天からの贈り物であり、理性的な心は忠実な召使いです。我々は召使いを大切に遇し、贈り物の方は忘れているような社会を創ってしまいました。」■
 自然科学は、昔から今日まで、自然現象についての新しい「発見」と「発明」が次々と行われ、それらの結果が蓄積することで発展してきました。ですから、自然科学での「発見」と「発明」が実際にどのように行われるかを、現象論的に的確に捉えることは科学論として重要ですし、もし、それに基づいて、どのようにすれば「発見」と「発明」が効率よく行えるかが分かることになれば、それは科学方法論の重要で実際に役立つ知見が得られることになります。しかし、これまで多くの人々の色々の試みにも関わらず、具体的で有効な知見が得られてはいません。
 人間が行う推論の方法には帰納(induction)と演繹(deduction)の二つが、普通、挙げられますが、パース(Charles Sanders Peirce)という人は、もう一つ、アブダクション(abduction)という推理方法を加えました。アブダクションは仮説形成と訳されることがあります。
「帰納法」:
太陽は、これまで毎日、東から昇り西に沈むことを繰りかえしてきた、という経験事実から、明日も、太陽は東から昇り西に沈む、あるいは、常に、太陽は東から昇り西に沈む、と推論(結論)します。
「演繹法」:
Tが「××××である」という一つの定言(理論、仮説、命題など)であるとして、それから出発して、Tが真であればa、aが真であればb、bが真であればc、・・・・、といった具合に、Tから必然的に導かれるa、b、cなどの定言を推論(結論)します。結論a、b、cなどは、数珠繋ぎではなく、例えば、Tから直接に、並列的に、a、b、cなどが結論されるような場合もあり得ます。
 さて、自然現象に関する発見や発明の行為を考えましょう。例えば、「雷」の現象。雷光、雷音、雷雨の経験をいくら記録し集めてみても、それだけでは、雷という現象の正体は掴めません。アインシュタインも「経験をいくら集めても理論は生まれない」とどこかで言っています。雷神の仕業にするのは自然科学の説明ではありません。紀元前600年代にギリシアでは琥珀(ギリシャ語でエレクトロン)と毛皮を摺りあわせると 摩擦電気が発生することが知られていたようで、1746年のライデン瓶の発明までの間に人間は無数の電気現象の経験をしていた筈です。自然科学者は、静電気の放電現象(スパーク)などの経験から、雷の正体は電気現象であろうという仮説を思いつき、もし電気現象であるならば、雷雨の中で高く凧をあげ、その糸にライデン瓶をつければ、静電気が蓄えられる筈だと演繹的に推論を進めて、仮説の正しさを確かめたことは周知の通りです。(もっとも、この1752年のフランクリンの凧の実験の真偽については色々の議論がありますが。)この「雷は電気現象である」という自然科学の「発見」、それにもとづいた「避雷針」の発明のプロセスは、明らかに、上に述べたような、単純な帰納法ではありませんし、また、「雷は電気現象である」という出発の仮説あるいは理論は演繹法で導出されたものではありません。雷現象のことをあれこれ考えているうちに、「ああ、これは電気現象ではないか?!」という仮説が頭の中で閃いたということです。大まかに言えば、過去の雷現象の経験から“帰納”的に得られたものと言えましょうが、こうした推理方法は、人間の頭脳が行うことのできる推論の方法として、別の名前を与えるのが適当だとパースは考えて、アブダクション(abduction)と名付けました。正体の分からない自然現象を前にして、自然科学者がその説明やその現象についての理論(仮説)を思いつき、これを演繹的に確かめること(実験や観察で)は、自然科学者の創造的行為(発明、発見)の中核です。アブダクションは仮説形成とか、仮説的推論、発想推論、などと訳されています。
 しかし、ここにはっきり認めておく必要のある事柄があります。アブダクションは創造的な仕事をするための一つの推論方法だと言ってしまうと、この方法を身につければ、誰もがオリジナルな発明や発見ができるのだと人々は考えるかもしれませんが、そううまくは行きません。「あ、そうか」、「分かったぞ!(ユリーカ!)」、とピンと来ることが必要なのですが、この直感的把握を促進する確実な方法や手順は、残念ながら知られていません。フランスの大数学者ポアンカレーなどもこの問題に強い関心を持ち、いろいろ考察しています。パースも、自然科学の研究者としての自己の体験に基づいて、創造的な推論の形態としてアブダクションというものを提唱したのです。確かに彼の言う通りだと思います。創造的な仕事の出発点となる着想、理論、仮説は直観的に得られる場合が多いのですが、これを生み出すのが、はじめに掲げたアインシュタインの言葉の中の「直観的な心」だと思われます。
 では、直観(intuition)とは何でしょう。これは難問です。誰にとっても,哲学者、心理学者、脳科学者にとっても大難問です。これを意識して、前回のブログ『ESP(超感覚的知覚)(1)』に戻ることにします。記事の最後の部分を再読してください。:
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今日は、上の“Obsession with one’s problem is in fact the mainspring of all inventive power.(自分の問題にあくまで食らいつく執念こそが、実際、あらゆる発明能力の根源だ)”に続くPKの部分を読んで、ポラニーが発明発見の現象論として読者に語りかけようとすることの理解を試みます。
■ Obsession with one’s problem is in fact the mainspring of all inventive power. Asked by his pupils in jest what they should do to become ‘a Pavlov’, the master answered in all seriousness: ‘Get up in the morning with your problem before you. Breakfast with it. Go to the laboratory with it. Eat your lunch with it. Keep it before you after dinner. Go to bed with it in your mind. Dream about it.’ It is this unremitting preoccupation with his problem that lends to genius its proverbial capacity for taking infinite pains. And the intensity of our preoccupation with a problem generates also our power for reorganizing our thoughts successfully, both during the houres of search and afterwrds, during a period of rest.
But what is the object of this intensive preoccupation? How can we concentrate our attention on something we don’t know? Yet this is precisely what we are told to do: ‘Look at the unknown!’–––says Polya––– ‘Look at the end. Remember your aim. Do not lose sight of what is requied. Keep in mind what you are working for. Look at the unknown. Look at the conclusioh.’ No advice could be more emphatic. (PK, 125)
「自分の問題に取り憑かれることが、事実上、発明的能力の主な源泉である。自分の学生から冗談に、「パヴロフのような人」になるにはどうしたらいいでしょうかと訊ねられて、師(I. P. Pavlov)は、全く真顔で答えたものである---「朝は前に置かれた問題と共に起床すること。それと共に朝食をとること。それと共に研究室に行くこと。それと共に昼食をとること。夕食後はそれを自分の前に置き続けること。それを心に抱いて床にいること。それを夢見ること。」問題へのこの間断ない専念、これこそ天才に無限の辛苦をするその途方もない能力を賦与するものなのだ。そしてまた、問題への専心の強さが、自分の思考力を首尾よく再組織する力を---研究の間も、その後の休息の間も---生み出しもするのである。
 だがこの強い専心の対象物は何であろうか。自分の知らないものにどうして注意を集中することができるのだろうか。だが他ならぬことをわれわれはしているのだ---「未知のものを見よ!」---とポーリャは言う---「結果を見よ。目標を想起せよ。求めているものを見失うな。そのために努力しているものを心に抱き続けよ。未知のものを見よ。結論を見よ。」これ以上強力な忠言はあり得まい。(長尾訳、118)■
 「未知のものを見よ!」と言われれば、第六感(ESP!)に頼るほかないではありませんか。普通は「第六感」より穏やかで受け入れやすい「直感(INTUITION)」という言葉を使いますが、その正体の分からなさでは同じようなものです。
 アインシュタインも、ポラニーと同様に、自らの体験に基づいて、自然科学における発明発見のプロセスに強い関心を示し、多くの言葉を残しています。最近、ある偶然から、この点に関して、アインシュタインの興味深い言葉に行き当たりました。:
■ “The intuitive mind is a sacred gift and the rational mind is a faithful servant. We have created a society that honors the servant and has forgotten the gift.”
- Albert Einstein
「直観的な心は天からの贈り物であり、理性的な心は忠実な召使いです。我々は召使いを大切に遇し、贈り物の方は忘れているような社会を創ってしまいました。」■

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これで、話がひと回りしました。
 「未知のものを見よ!」と言われて、これを試みるのがアインシュタインの「直観的な心」だとすると、この直観的な心の能力はどうやって生じてきたのでしょうか?アインシュタインは天からの贈り物だと言いましたが、ポラニーはその能力の不思議さに打たれて、一時は、いわゆるESP(超感覚的知覚)が科学的に根拠のある知覚能力なのではあるまいか、と考えた時期がありました。この揚げ足をクーンが取ったのです。
 パースにも、人間の持っている直観という心的能力は不思議に思えたでしょうが、彼は、この能力は、動物としての人間の進化のプロセスの中で次第に獲得されてきたのだろうと考えていたようです。しかし、ただこれだけでは到底納得できる「直観力」の説明にはなっていません。これは、私の空想ですが、やがて脳科学者が、脳内に蓄積される記憶とそれを意識下で束ねて処理する能力の働きで結論(答え)が得られた時に、それが突然意識上に浮上して来るのが「直観」だ、と説明してくれるかもしれません。これはポアンカレーの古いアイディアの焼き直しでもあります。
 進化論といえば、人間以外の動物たちもアブダクション的な帰納法を使って生きているのだろうと、私は想像します。人間が異常に発達させた自然科学や工学的技術は、動物たちが生存のために行使している極めてプリミティブなアブダクション的帰納法の延長線上にあると、私は考えます。
 科学哲学者としてのパースやポラニーとクーンの大きな違いは、前者二人には自然科学研究でのアブダクションの経験がありましたが、クーンにはそれが無かったことです。その違いを決定的にしたのは、クーンのアブダクション・プロセスの実体験が自然科学以外の分野で行われたことでした。クーンは生涯で何度も彼の「アリストテレス経験(Aristotle experience)」なるものについて語っています。まだハーバード大学の物理学科大学院生であった或る暑い夏の日、それまで馬鹿馬鹿しく誤っていると思っていたアリストテレスの物理学が「いやいや、誤っているのではない。ニュートンの物理学とは違うだけだ。これはこれでいいのだ」と頭に閃いたというのです。伝記的には、このクーンの経験は「アリストテレス啓示(revelation)」と呼ばれています。epiphanyという言葉が使われることもあります。要するに直覚的な悟りの瞬間です。revelationにしろ、epiphanyにしろ、神がかった言葉です。昔から聖書など解釈する学問(方法)として解釈学(hermeneutics)がありますが、クーンが突然悟ったのはアリストテレスの物理学という古い文書をどう解釈すればよいかということでした。これを悟った心的プロセスもまたアブダクションと呼んでよいと思われます。
 自然科学の歴史は解釈学の対象でありえますが、しかし、自然科学としての物理学は解釈学的学問ではありません。クーンもそれを認めていますが、彼が経験したアブダクション・プロセス、それが与えた直観的結論が解釈学的な内容であったことが、良くも悪しくも、クーンの科学論の性格を決定してしまいました。

藤永 茂 (2015年2月14日)