日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

自虐的な歌について。

2008年05月06日 | 五行歌な日々
自作に、
自虐的な歌(主にセクシャル)がないかと言えば、嘘だ。

が、人の自虐的な歌を読むと、
「己の価値観の限界に挑戦!」みたいな、
葛藤を生じさせながら、
「だ、だめだ……受け付けない……ごめんなさい……」
と、その強烈なインパクトに、
あえなく弾き飛ばされることがよくある。

そういう歌についての話題が、
2月に行った、AQ歌会の二次会で、
チラッと出てから、
3月は、よく考えるようになっていた。

で、それなりの結論がでたのに、
雑事に追われてトッピンシャン。

はて、どう思ってたんだっけ?(笑)

     ★

こういう話題を耳にするたびに、
私は俵万智さんの『よつ葉のエッセイ』(河出書房新社・1988)にある、
林あまりと私”という文章を思い出す。

私が初めて短歌に触れたのは、
林あまりさんの処女歌集『MARS☆ANGEL』(河出書房新社)だった。

「『サラダ記念日』なんか買ったら、
いかにも流行を追っているみたいで、ヤダけど、
短歌には興味がある」
というひねくれ(?)動機から買って、
内容が、「お、おわっ!!」とする
性描写を描く短歌が多かったため、驚いてしまい
(あぁあれは高校3年生の頃でした……)、
一読だけして、本棚の隅っこへ追いやってしまった。

それからしばらくして、
結局は流行に乗っかって、
『サラダ記念日』を購入し、
その読みやすさ、
短歌という高尚なもの(当時はそう思っていた)を、
身近なものに近づけてくれたので、
林氏とは正反対に、
気がつけば、本棚に、
『俵万智』の名が入った本がズラズラと並ぶようになっていった。

『よつ葉のエッセイ』は、
確か、俵氏の処女エッセイ集じゃないかと思う。

そこに、『林あまり』の名の入った文章があったので、
特に興味を持って、大学生の頃読んだ。

その4ページほどの文章を読み終えて、
とても共感する文章だ、という感想と、
文体が、
押さえながらも、あまりに強い口調だったので、
「紫式部と清少納言みたい」という感想を持ったのを覚えている。

そして、その文章の中にあった、
「起爆剤(正確には起爆力でした)」というキーワード。

「言葉を起爆剤にして歌って作るもの?」みたいなことが、
書かれていたという印象は、とても影響を受けた。

それから月日が経ち、
五行歌と出会って。

会員になって、
初めて歌誌に提出する歌は、
「生理」の歌をはじめ
男性との甘いカラミは無い、
相対的じゃない、
「性」の歌を、
人に読ませることに、こだわった。

それが自分で詠えなきゃ、
自分の素直さ、素朴さって何?って感じで。

俵氏のいう「言葉の起爆剤を使って……」を、
忘れていたわけではなかったけれど、
五行歌を書くにあたって、
最初にそれができなければ、
自分の歌には“次”がないと思っていた
(もちろん、「生理」という言葉を起爆剤扱いにして、
詠ったつもりは、書き手としては無いです)。

やがて、結婚して、
五行歌も何年か続けていたある日、
林あまり氏の
『ベットサイド』という、
彼女がそれまでに出した、
いくつかの歌集のアンソロジーになった、
文庫本をみつけて、買った。

高校生の頃と違って、
もう少しちゃんと内容を見つめて読めるんじゃないか、と、
オトナになった自分に期待して(笑)

で、読んだ感想は、やっぱり短歌は、
「おわっ!!」でした。

でも、その文庫本のあとがきには、共感した。

そこには、そういう歌を書いたきっかけや、
それを書いたことによっての、
周囲からの様々な反応による苦しみが書いてあったから。

おそらくその共感は、
自分自身も「歌を詠う」という、
書き手としての意識を持つようになったからなんだろうけど。

「これが書けなきゃ、嘘だ」というほどに、
追い詰めてくるものへの、反撃として、詠う。

読んだ人が、どんなところに目が行くか、というより、
自分で自分を解放するために、詠う。

……で、ついさっき、
「あれ?自虐的な歌について、どんな結論もってたっけ?」
って気持ちから、
もう一度『よつ葉のエッセイ』の“林あまりと私”を、
読み直してたんだけど。

一部引用する。

     ★

名だけ告げ電話をきるひと――演技なの? 自意識過剰?――問いだけ残して
曇り空、あなたと会う日はいつもそう……中途半端がお似合いLOVERS

(稲田註:どちらも、林作品。
おそらく、
林氏は、これらの歌を、
実際には二行に行分けして書いていると思われる)

(略)「我」が「君」をうたっているのではない。
「ア・タ・シ」が安全地帯から、
「ひと」の歌を作っている。
(中略)こんな言い方は失礼かもしれないが、
「詩」としての意識が、一首に非常に薄いように思う。
それから最後に、
先ほどの※「生理中のFUCK」もそうだが、
林作品は、言葉の起爆力に頼りすぎているのではないだろうか。
(中略)見ていてせつない。


(※稲田註:「生理中のFUCK」とは、

生理中のFUCKは熱し血の海をふたりつくづく眺めてしまう

という歌です)

おそらく、なんだけど、
林作品が好きな人というのは、
俵氏の言う、
「見ていてせつない」というところにこそ、
心を寄せているのかも。

決して心地いいせつなさではないせつなさに。

また、
「ア・タ・シ」という安全地帯から、
「ひと」の歌を作っているというのは、
詠いたいけれど、そういう置き換え作業がないと、
詠えなかったんじゃないか
(逆にいえば、そうしてでも詠いたい)という、
林氏の歌人としての繊細さ(激しさ)なのかも、とも。

林氏の歌を読む背景を知ったためか、
ちょっと感想が変わっていた。

     ★

それにしても、「見ていてせつない」は、
言い得ている。

自虐的な歌だなって思った歌は「見ていてせつない」。

しかもこのせつなさは、
決して心地いいものではない。

“よっぽど”でなければ、
心を寄せる読み手はいないんじゃないかな。

(林氏の歌を継続的に好む人は、
よっぽどのなんらかの、激しさか、苦しさか、
業の深さを持っているのではないかと、思うのだが)

なんらかの心地いいせつなさでなければ、
「詩」としての意識が薄いと思われても、
書き手としては、甘受するしかないだろう。

そう思われようとも、
追い詰められた自分を立て直すために、
詠われた歌だと、
自虐的な歌を定義すると(思いやると)、

そういう歌に対して、
私は書き手としても、読み手としても、
なるべく寛大でありたいと思う。

「書かないで欲しい。読ませないで欲しい」
というところまでは、思えない。

ただし、寛大であることと、
共感や感動することは、別物。

例えば、歌誌を読んでいて、
すっと読み飛ばして、頁をめくる手に、容赦はない。

俵氏の処女エッセイの本は、
まだ本棚に残っているけど、
林あまり氏の前述の二冊の本は、
古本屋へすでに売り飛ばしている。

     ★

書き手にとって大切なのは、
自虐的な歌を書いたその“次”に詠う歌ではないだろうか。

自虐的な歌は、ひとつの境地に辿りついた歌ではない。
花として咲く前の、蕾の膨らんだ段階にあるのではないか。

内側から、
花びらを裂く、前段階の苦しみの歌ではないか。

自分を追い詰めたものに、反撃した後の歌。
反撃しつくした後の、生き方。

そこにこそ、「詩」は問われるのではないか。

いつまでも「自虐」だったら、
もしかしたらそれは、
言葉の起爆力
(俵氏は「?」などの記号や横文字なども起爆力と言っている)による、
言葉遊びに、
詠う動機が、スライドしているかもしれない。

奇を衒っているだけかもしれない。

そういう作品は、おそらく「見ていてせつない」以上に、
詩的ではなく、人を決して惹きつけないどころか、
不快だ。

その歌で、言わんとすることはなんなのか。
滲み出てくるものは、あるのか。

それが言葉の向こう側に存在していれば、
たったひとりかもしれないけれど、心寄せてくる人は、必ずいる。

詠わずにはいられないのなら、詠うしか道はないってことです。

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