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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

郵政とバブル

2005-07-05 | 時事
 郵政民営化法案が通ったというが、全体これからどうなるのだろうか。民営化しても、負の財産としてある簡保の宿など、再び公的資金やらの登場でうやむやにされるのであろうか。民営化しても当座は、官僚の天下り先として機能するのであろう。NTTも真藤何某が失脚するまで、面妖な会社として存在していた。今話題のNHKの海老沢何某は自民系の有力な後押しで、なんとかなると思い、役員に残ろうとしたが、読みを誤り不払いが続く。
 官が民を圧迫する有様は、ヤマトの前会長の本に詳しく書いてある。文庫で出てます。
 郵政民営、増税、少子化対策といっていながらも、小手先の改革でしかしてない。あたかもそれは、バブルの時に、電通、博報堂に代表されるネーミング改革のようである。ネーミングの上手さは何もバブルに始まったことではない。正露丸とて、昔は征露丸と書いていた。だからことさらバブルと騒ぐほどがあるかという声が聞こえてきそうだが、バブルは日本人の価値観を一気に壊した。あれは、日本における文化大革命であったというのが小生の実感である。
 問題の本質を見ずして、ひたすらその場凌ぎの改革で事を先送りした。分際を弁えずに、金を使うことを美徳とした。畢竟、バブルがはじけて残ったのは借金だけである。
 このたびの郵政民営化も郵貯や保険としてある220兆だかの資産が目当てであることは明白である。景気が悪いのは金が回らぬせいだからといって、件の金に手を出すのは、まるでバブルの再来を期待しているかのように思えてならない。汐留を始めとする臨海地域の再開発、高層マンションの乱立、地震大国、関東大地震は何処へ言ったやら。これらもバブルの下準備か。
 濡れ手で粟の一儲けをした連中は、往時三十、四十代とすれば、今や役人ならば局長、事務次官クラス、会社でいうところの取締役ぐらいか。ならば小泉の後ろにいる傀儡子とやらも想像がつく。
 文革の非を認めるのに隣国は30年かかった、共産主義の看板は未だに下ろせずにいる。人の振り見て我が振りではないが、バブルという名の文革は過ちであることを認めたらどうか。

対中外交

2005-06-30 | 時事
日中関係の悪化に伴って面妖な国粋主義が跋扈しだしたというのは大仰か。日中関係が今日至るまでに、実はいくつかの行き違いがあったと仄聞した。まずは尖閣諸島のガス田開発であるが、時は折りしも日本がバブル経済、中国が共同開発を日本に持ちかけてきたという。しかしながら、当時の日本は、経済大国として、世に買えぬものはないと豪語する勢いであったから、ガス、油の類は金で、中東の産油国から買い入れるから、共同開発はしないと言ったらしい。しかも、中国には、するならご勝手にというにべもない返事をしたという。ならばと中国は、その意を汲んでか、それとも開き直ってか知らぬが、ガス田開発に単独で着手した。ところが、10年も経って、あれはなかったことだと言わんばかりに、領海侵犯扱い、盗人扱いにされている。
 もう一つは、これもバブルの頃であるが、EU統合の足音が聞こえ始め、経済ブロックが形成されつつあるのを嗅ぎ取り、中国が東アジアにも経済ブロックを作ろうとした。その時に出した条件が、日本に盟主になってほしいということであったらしい。ところが日本は米国一辺倒の外交政策をしいておるから、中国の申し出を断った。
 中国にしてみれば、経済進出をしてくる日本をある意味で歓迎しようとしていたのにも関わらず、掣肘され、顔に泥を塗られたことになる。そこで先ごろの反日行動に出たという話である。真偽の程はわからない。あくまでも噂かも知れぬ。
 ところで、日本が米国一辺倒の外交政策を敷くようになったのは、派閥争いの結果であると睨んでいる。田中角栄が日中国交正常化を果たしたが、為に米国に睨まれ総理の席を追われた。田中の作った派閥は、中曽根、竹下、金丸と引き継がれ、当然、対中外交も引き継がれていたはずだ。が、竹下は佐川、リクルートで失脚、金丸も政治生命を絶たれた。今では反田中派が、政権を牛耳っている。これは、なにより中国との外交より、米国中心の外交へ移行を示しているのではと考えるのは、いささか誇大妄想か。
 大マスコミは、真実を伝えないのは幾久しく言われていることであるが、それにしても今の世の中、閉鎖的過ぎやしないか。国連の常任理事国入りも、右に倣えのごとく大マスコミは尻押ししている。英字新聞を見れば、一面に中国関係の記事が載らない日は、殆どない。
 大本営発表は経済指標とデモの動員数だけにして欲しい。

選挙

2005-06-24 | 時事
 選挙の季節来る。駅前にて公明と民主の代表が挨拶していた。公明党は、さすがに母体が宗教団体だけあって動員数はかなりいた。公明党の出した地域振興券とは一体何の意味があったのだろうか。
 かねがね巷間で言われていることであるが、選挙は制限選挙にしたほうがいいと思っている。女、子供、納税の義務、年金の義務を放棄しているものに選挙権など要らない。ニート、フリーターの類に始まり権利、権利と叫ぶ輩に持たせるだけ無駄である。
 国会で紙芝居を作り、フリップを作り、目新しさを強調しているのかどうかしらないが、人を馬鹿にするにもほどがある。それほどまでに白痴化教育が浸透したのは文科省のおかげか。
 マスコミは一票の重みを説くが、世間は今般の食に窮せなければ、政なぞに関心はない。いったところで、床屋政談である。その床屋も今はない。あるのは新聞の投書欄だけである。その投書も、朝日、読売、毎日と会社の方針に従うものだけが掲載されるのみで、朝日に公明党批判の投書は載る見込みはない。ないない尽くしで、世間は枕を高くして眠るのである。
 銀行危うしといって、金貸しに税金をつぎ込んだ。年金危うしとして、今度は何をつぎ込む。高額納税者が決まって言うのは、有効に使って欲しいの一言である。ならば高額納税者に10票、20票と持たせたらどうか、幸い地方分権の時代と叫んでいる。長野を始め、石原都政も鼻息荒い。地域によって税金の優遇、公共のサービスの格差がつくだろう。高額納税者は勇んで住民票を移してくれる。地方出身の代議士はそれこそ、10票、20票を求め、狂奔するに違いあるまい。かくして地域各差が開き、住みやすい地方が現れ、Uターン、Iターンが増えると考えるのは浅墓か。 
 その昔、命売りますと大書して、新宿を歩いた男がいる。不況、不況と言われている世の中である。選挙権売りますの3行広告は儲かると思うのだが。

 外食するべし 産地知らしむべし

2005-06-18 | 時事
 外食産業においても食品表示を徹底せよと消費者団体が詰め寄っていた。「ファミリーレストラン」を代表とする店においても、出される食品の産地を明記せよと。片や企業側は、単品は可能であるが、サラダのようなものまでは無理である。しかしながら努力していくとの回答に留まっていた。インタビューを受けていた消費者団体代表は気焔を吐き、言葉尻をとっていい加減では困ると訴えていた。
 工場からの排水により海中の魚に水銀で汚染され、ためにそれを食すると人体に水銀が云々と喧伝されたのは、高度成長期の話である。各消費者団体が厚生省、農水省につめかけ、食品の安全性を保障せよと。なれど、爾来、魚が安全であるという話は聞いたためしがない。人は魚を相変わらず食い続けているし、今ではマグロの養殖に成功し、大とろしかないマグロも作られている世の中である。
 消費者に産地の情報を提供することで、国産か輸入かを選択させ、国産品を食べることで日本の農業発展にもつながると「有識者」が答えていた。
 恐らくは狂牛病、鳥インフルエンザ、中国産の農薬漬け野菜と食に対する不安感がそうさせているのだと思うが、流通経路の複雑さ、加えて低価格をもとめる消費者の要求に答えている現状では、件の消費者団体の謂いはエゴである。国産にすれば安全かも知れぬ、なれど価格は現状で提供できまい。提供しようと思えば、企業側、生産者側、ともに何かを削らなければ為し得まい。何を削るか、人件費か、輸送費か、量か、それとも設備か。これ以上価格を下げられぬところまできて、ブランド品にして価格を上げたら、喜んで来るのか。
 産地詐称にもつながるので厳しい制約は、困ると企業側が答えていた。表示の詐称が問題になるたびに思うのは、企業側の倫理観だけではなく、その後ろにいる購買者、消費者の姿である。昨日まで米国産と書いていたが、何かの拍子で米の字が抜けたら飛ぶように売れ、会社が安泰し、家族にも週に一度は外食に行けるようになった。企業の倫理観を責めるのは簡単である。鬼の首級を獲ったようで痛快である。普段は口もきけぬ雲上人が衆目を集めるところに出てきて頭を下げるのをみるのはさぞ気持ちがよかろう。なれど痛快は時代劇と講談の中で十分である。
 古人曰く、国の将に滅びんとするや、必ず制多し。

桐生悠々

2005-06-14 | 時事
 桐生悠々の「関東防空大演習を嗤う」は昭和8年の防空演習を揶揄したもので、敵が帝都の真上に攻めてくるようなことがあったら、おしまいだと書いた。ために軍部に睨まれ、新聞社を追われ、赤貧を洗うがごとき生活に追いやられた。桐生の文才と高風を欽慕するものがいたから、自費出版で新聞を発行し、戦時中は憲兵と新聞の発禁、押収のいたちごっこを楽しんだつわものである。
 本土に空襲があったのは昭和17年頃だったと思うが、定かでない。当時、日本はアメリカ本土から空襲なぞくるわけないと高をくくっていたから、国民は勿論、軍部も見誤った。空襲を行ったのはドゥリットル大佐率いる精鋭部隊で、それこそ特攻隊の先駆けのような作戦であった。片道のみの燃料しか積まず、東京を爆撃してそのまま本州を横切り、朝鮮半島に抜けるという内容であった。大佐の乗る飛行機は朝鮮半島に不時着した。作戦は成功とはいえなかったが、これにより米国は中継基地の重要性、兵站の確保、さらに重爆撃機の開発を積極的に進めることになる。この話は映画にもなっており、「東京上空30秒」Thirty second over Tokyo スペンサートレイシーが主演している。
 政府は今年の11月、福井で住民参加の大規模な危機管理演習を行うと発表した。原子力発電所が破壊されたという想定のもとで、迅速な避難と救急対策の演習であると書いてあった。原発銀座と呼ばれた日本海側の住民にとっては何を今更と思うのではなかろうか。不謹慎を承知で述べれば、万が一にもそのようなことが生じたら、被害は関西方面だけで留まるまい。死の灰と呼ばれる目に見えない恐怖は、天候風向きに左右されどうなるか知れたものではない。安直に原発廃止などとは無責任極まるものだ。
 最悪の事態に備えてというなら、オウム事件に始まり、ペルー大使館人質事件、先日の福知山線の事故に至るまで、国はどんな危機管理を行ってきたというのか。
 白州次郎は開戦早々日本の負けを見越して鶴川に隠棲し、戦時中は軽井沢でゴルフに興ずる日々を送った。昭和10年頃は、疎開先があった。平成の御世に疎開先など見つかるはずもない。白州ほどの偉丈夫でもなければ、資産もないし、才覚もない。興じることが出来るのは「みんなのゴルフ」ぐらいである。その日が来ても枕を高くして眠るしかない。 

花の都の靖国神社

2005-06-09 | 時事
 そうだその意気 「何にも言えず 靖国の 宮のきざはし ひれ伏せば」 
 九段の母    「空を衝くよな 大鳥居 こんな立派なお社に」
 あの日から  「お手柄立てて 散った人 さぞや御霊もお心安く 花の九段に香りましょ」
 皇国の母   「今度会う日は 来年四月 靖国神社の花の下」
  
 靖国問題が喧しいが、なぜ中国があれほど固執するのかわからない。足を踏んだ人は踏まれた人の痛みがわからないとよく言うが、全体文化の違いなのか。中国の歴史を振り返れば、民族闘争と覇権の争奪で、八代先も祟るというぐらいに、徹底している。同時に死者に対しても、墓を暴いて晒すほどの熾烈さがあると聞いた。
 過日の新聞に、中国の学者が、靖国問題に関して、日本は深刻に受け止めないでくれと書いていた。曰く、戦犯を祭る云々よりも、自国の毛沢東の霊廟の方が問題であると。日本軍は中国で確かにたくさん人を殺したが、毛沢東の粛清の方がもっと多くの人を殺した。と。数の問題にしてしまうのはいささか軽率かもしれぬが、あれが健康な国の姿である。日本は、長年健康を嫌い、ひたすらすみませんと謝って、自国の歴史まで書き換えた。日教組を始めとする、大朝日の夜郎自大な教育を施し、軍国化が起こらぬ人を作るように画策したが、あにはからん。戦争の本当の姿もわからぬ人間を作り上げてしまった。
 野中広務のこのたびの発言はあまり気に入らないが、なれど南洋で肉弾戦を経験した人の声には耳を傾けるべきと考える。三波春夫さんが、かつて戦争の話しになるとその顔を変えていった。友人が目の前で殺されると、人は鬼になれるのです。
 靖国に行くと、その遺品や手紙には心打たれるものがあり、ついぞ涙がこぼれそうになる。
 内政干渉なのか、それとも一連の反日に潜む内政批判をそらすための画策なのか、さらにはODAをもっと引き出すための駆け引きなのか、真相は奈辺にありや。
 単なる文化の違いであるならば、捕鯨禁止同様に外国の要求に屈し、日本の文化を捨て去るのか。
あいも変わらず肝心の事が見えてこない。迂愚にして戸を出でぬ性分が目を曇らせているのか、百字でいい。誰か真相を教えておくれ。

改頭換面 

2005-06-01 | 時事
昨日、テレビ東京でJR西日本の企業体質を取り上げていた。一人の運転手を取材の対象にして、勤務に励む姿を画面は映じていた。歩いていると背中に命と書かれた紙を張られたこともある、ドアを蹴飛ばすものもいる。運転手はそう証言していた。毎日緊張の連続であるとも語っていた。
 事故が起こった後に非難の矢面に立つのは、必ず現場の人間である。ここぞとばかりに首級をとった気分で面罵する。俗にこれを野次馬といった。人の尻馬に乗って、野次る輩のことである。駆け込み乗車をすれば注意され、車内にごみを残せば車内美化にご協力を訴えかけられ、切符を買えば、ぞんざいに断られ、企業体質を指摘すれば馬耳東風である。
 ならばと事ここに至って、鬱憤晴らすのは人の常である。但し、良識のある人間ならば、怒りをどこに向ければよいかを考える。なるほど、被害者の方々にはその権利はあろうと。なれど彼らは大切な親兄弟をなくし、心神喪失である。または住み慣れた家を追い出されて、慣れぬ環境で右往左往している最中である。
 関東、関西と一括りにして論ずるのは、いささか大雑把過ぎるか。関西にはユーモアの精神があった。京の茶漬けではないが、物事を直裁に言うのを避ける気風があった。列車が遅延したなら、洒落で返すゆとりがあったと考えるは、あまりに迂愚であるか。
 信号が赤から青に変わって発進するまで、運転手が待てる時間は一秒だと仄聞した。一秒以上止まっていると、クラクションを鳴らすらしい。
 JR西日本はダイヤの見直し、教育制度を考え直すという。社長は、万時解決してから引責辞任をするという。会社幹部も労組も棒組である。改革、改善がいつまで続くか知れたものではない。「効率のみを追求して大切なことを忘れていた」、「今後は現場の声を活かしたい」というのは聞き飽きた。JR、JALの幹部の方々に問う。改頭換面ならば、今なお、現場で罵倒されている社員に何と言う。

烏兎そうそう 

2005-05-28 | 時事
佳節に逢う毎にますます親思う。と古人は詠った。異郷の地で身を潜め暮らし幾つの季節の移り変わりを過ごしたのだろうか。日本兵がフィリピンで見つかるという報は、戦後60年といえども、先の大戦で何も終わっていない証左である。中村輝夫さんは高砂族で、創氏改名の流れで日本人として従軍した。28年経って発見されたが、今回取り上げられなかったのは、どこかに後ろめたさがあるからだろう。
 先日、南洋の島で日本語が使われているのをクイズ形式で紹介していたが、皇民教育の名残で、日本語を繰るアジアの民はたくさんいる。台湾の李登輝元総統は京都大学に留学していたことはつとに有名だが、金大中元大統領も日本語を話した。日韓復交後の初代駐日大使も九大であった。もう10年以上も前になるが、報道特集で南洋の島の古老が「兵隊さんよ有難う」を歌ったのには、目頭を熱くした。
 南洋の島々で玉砕し、遺骨が日本に還ってこない例はよく聞いた。骨の変わりに珊瑚を入れた箱が送られてきたり、布切れが入っていたりという具合であった。終戦を知らずにというが、終戦を知りつつも、聖戦の意義を通そうと、民族独立戦線に加わった日本兵もいる。今回見つかった日本兵の方々がどういうつもりで残ったのか知らない。戦後六十年といえども、実は指呼の距離である。中村輝夫さんを安心させるために「愛国行進曲」を歌った。愛国行進曲を知るものは少ないかも知れぬが、「別れのブルース」淡谷のり子ならどうだろうか、「敵は幾万」は歌えなくとも、甲子園で攻撃側が奏でる演奏の一節といえばどうだろうか。
 フィリピンで発見された日本兵の方々が無事帰還なされることを願ってやまない。が、今浦島にしてしまうのも気の毒な気がする。そう考えるのは要らぬ気遣いというものか。
 古人は月日の流れるのが早きこと、烏兎そうそうと言った。
 

 開けゴマ grind sesame

2005-05-19 | 時事
大使百数名を一同に会し、常任理事国入りに奔走せよとは片腹痛い。近くは中国の反日デモ、さらに日朝交渉、イラク侵攻、湾岸戦争、遡れば、ペルー大使館事件といかにその無能ぶりを世間に露呈したきたか。金に物を言わせ、接待攻勢で票が集まるなら、今までのODAの拠出は一体何の意味があったのか。
 伏魔殿と呼ばれ、内部改革もまた行われることなく、ひたすら自己の保身と利益のみを追求する外務省に何が期待できようか。思えば、田中真紀子が外務大臣の際に、ゴマをするというのを通訳させたら、grind sesameと見事に字句どおりに答えた。そのセンスは、日本人にのみわかるユーモアであって、相手には伝わるまい。北米を筆頭に先進国と呼ばれる国の大使はエリートと言われてるが、エリートとは知性と教養、加えて貴賓があってエリートたるもので、肩書きではない。
 教養とは相手を思いやる心だとは養老先生の言葉だが、相手の顔色を伺う心では断じてない。とってつけたように、外務省のホームページには常任理事国入りの意見を広く求めるページがある。新教皇選出と言うキリスト教文化圏にとって最大事に、元外相を出席させるという醜態を晒しながら、今更、何を求めるのか。各国元首が勢揃いし、さながらサミットを思わせる壮観な光景をミスミスの棒に振り、英語教育を省内で行う外務省とは一体何様であろうか。
 商いを旨とする企業戦士が通じる英語を習うのは悪くない。いや、商社を始め、海外に拠点を求める企業なら、相手の文化、風習を存分に研究していると想像する。が公僕であり、国家の代表である大使が卑しくも自国の文化に無知で、加えて英語圏の文化背景にも無知ならば、何のための高官であろうか。親方日の丸で利益追求せぬ体質というなら、いっそ、東京各所にある地方の物産店のごとく
親方日の丸商店の看板を掲げ、日本の物産、ひもの、納豆、醤油、寿司、人形焼に煎餅を並べて商いを始めたらどうか。
 それとも色事は洋の東西を問わぬから、件の町村外相を筆頭に対し一同が会したのはノーパンしゃぶしゃぶ接待の打ち合わせなのか。

 

三十過ぎたら走らない 

2005-04-29 | 時事
 数年前、雪印の内部腐敗を筆頭に、社長が謝罪する場面をマスコミは嬉々として流した。そのたびに、危機管理評論家が登場しては、その不手際をあげつらった。今回の福知山線の事故でも、同じことが繰り返される。内部資料が出てきて、そのシステムの不備をあげつらう。茨城の原発事故でも見せられた。衆人は眉をひそめ、口を尖らせ、呆れ果てる。
 今回も、JRの内部資料が小出しながらも、マスコミより知らされた。資料には、お客様に不備がないよう一秒たりとも遅れてはならぬとあった。鉄道会社として運行の正確さを守ろうと努力するところに何の罪科があろうか。また、過密ダイヤを指摘し、その運行の在り様に疑問を呈していた。近在には競合相手の私鉄がある。沿線はベットタウンとして発展し、乗降客もますます増える。収益の見込みは大なり。国鉄とよばれ、球団を有し、世界最速の弾丸列車を開発し、時に順法闘争を行ったのは昔日のことである。民営化の名の下に、一企業となった。資本主義の競争に打ち勝たねば、かつての赤字は減らない。赤字が解消せず、JTに泣きついた。ない袖はふれぬと昔の親が言う。ならばと社を挙げて萬進努力する。従来のように、多少の手違いは許されない、組合も承服した、社員教育、再教育制度を充実させる。
 今回の悲惨な事故から、人は制度に問題ありという、内部改革が必要だという。内部改革をし、制度を見直したところで、過密ダイヤは直るのだろうか。1分、2分の遅延を大目に見てくれる客はいるのだろうか。運行に異常がある際は、正確な情報と復旧時間の連絡が乗客に告げられれば、たいていは落ち着きを見るだろう。にしても、駆け込み乗車は他のお客様云々の車内放送がない日あるのだろうか。携帯には乗り換え案内がある、初めての土地でも駅名を入力すれば運賃と所要時間が出てくる。ゆとりを持って出かけるために、明日の時間割を前夜に用意しようとは小学校で教わる。車内で携帯を使う大人の姿は以前に書いた。携帯で話すことは知っていても、使いこなせぬなら電車に乗るなと今度は言う。
 イギリスの笑い話に、列車の運行がひどいインドを揶揄したものがある。イギリス人がインドに着くと、自分の乗る列車が定刻に来ている。本国で聞いた噂と違うので驚き、傍らの車掌に運行の正確を誉めそやすと、車掌が、いいえ、これは三日前に到着する予定のものですと答える。
 出来てしまったものは元に戻せない。ダイヤを間引くか、さもなければ運行を現状のまま続けるか、続ければきっと過ちは繰り返されるだろう。
 三十過ぎたら走らない とは古畑任三郎の言葉である。走るのはスポーツジムと皇居の周りだけにしておくれ。衆人ゆとりを持てば、列車のダイヤも自ずと変わるはずである。

 追記:このたびの事故で被災された方々、また関係者各位には心よりお見舞い申し上げる。