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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

帯に騙されて

2006-11-25 | 
「お客様、この商品は今月限りの」、「メニューにない品物ですけど」、「お客さん好い子がいるよ」と懲りない面々から声をかけられますが、大抵はというより全く、そのような言葉に耳を傾けないのであります。傾けた時は完全に冷やかしであります。今月限りなら、在庫がでっちゃったの、メニューにないものを食べたいなら、はなから他の店にいってるよ、残念、好い子を口説くより、悪い子のほうが、と冷やかし半分で答えるのですが、もっとも最後の返答は相手を見ないと、返す刀で、「お客さん、うちではなんでも取り揃えているから」なんて墓穴を掘ることになります。それでも、魔が差す時がありまして、とりわけ本の帯には弱いのであります。
 帯に「書店員絶賛、読み始めたらローラコースターのように一気に云々」とある、アメリカのミステリーを買ってしまいました。文庫本で上下巻であります。FBI捜査官が出てきます。ここから先は、小生のいう本に興味がある、もしくは既に購入して、これから読もうとしている、さらには今上巻であるという読者の方はお読みにならないでください。
 さて、ハリウッド映画同様、捜査官の出てくるミステリーものも既に万策尽きたのが小生の実感であります。羊たち、ハンニバルなぞは、一つの話から次の話へと人物の焦点を変えたり、格物致知に関する知識を披瀝することで読んで楽しいですが、後は、とりわけ女流の推理ものは読むに耐えられないのが、実感であります。件の作品も、上巻を四分の一ほど読んだ時点で、犯人の目星がついてしまい、あとはいかに物語の展開、人物を掘り下げるかでありますが、どうも今一つであります。恐らくは、映画化、もしくはテレビ化を狙うために、映像化しやすい文章にしているからでありましょう。ドラマのCSIやら、映画なら捜査官が活躍するものを見ていれば自然と場面が浮かんできてしまい、「ああこれなら」となってしまうのであります。スティーブンキングやKディックのような作家ならまだしも、かの国も安易に素人に物語を書かせすぎるようであります。
 映画ならDVDのレンタル料金で済みますが、文庫本二冊なら確実に英世さんが飛びます。しみったれたことを言うようですが、つい「やられた」と思ったので書いてしまいました。どうせ帯に騙されるなら、三味の一つでも爪弾く帯に騙されたいものです。

三文小説

2006-11-23 | 
昭和史発掘:日本の黒い霧 松本清張氏の下山事件に関する推理は面白いものであります。数々の資料と、下山総裁他殺説を裏付けるように、謎解きを行っております。森達也氏の下山事件という文庫を入手したゆえに、このような書き出しになりました。さて下山事件に関する本を読んでわかりづらいのは、時代の空気というものであります。反共の時代、パージが行われた時代の端緒だったのか、その最中であったのか。また、マッカーシズムに関して、本国では冷静な判断が下せる土壌がある気がします。極端に言えば、マッカーシーとは狼少年であった、出世欲の強い成り上がりものであったという記述を読んだことがあります。かたや、下山事件でありますが、杳としてわからぬところがあります。下山事件とは当時の国鉄総裁下山氏が、国鉄の建て直しと人員大量整理を行う前に、失踪し、轢死したという事件です。その轢死を巡って自殺説、他殺説があるのです。件の関係書を読むと下山氏に情報提供者なるものがいて、その人物と会うという話があります。情報提供者というのが小生皆目想像がつきません。組合対策としてスパイなるものがいたのか、それとも共産主義者に対してなのか、はたまた下山氏が与する経営者、政治家に中にスパイなるものがいたのか。大量解雇という重大な決断を前にして相手方、味方の動向を探ろうとしていたのか、それとも当時のアメリカの出方を探ろうとしていたのか。わからないことばかりであります。そこがわかれば、下山事件の性質と意味がもっともはっきりするのでしょう。しかし小生の読み込みが足りないのか、お頭が足りないのか、わかりません。繰り返しになりますが、時代の空気なるものがつかめません。
 報道特集では、アメリカの諜報機関の縄張り争いの結果として下山事件があったということを述べていました。
 下山事件に関する本を読むと、どこかしら三文小説の推理ドラマを読まされている気がしないでもないのです。勿論これはいい意味での小説ですが。

F.K.ディックについて少々

2006-11-21 | 
フリップKディックの作品には、記憶に纏わる話が多く出てきます。トータルリコールしかり、電気羊しかり、警官は涙もしかり、必ずと言っていいほど、体内にコンピュータチップを埋め込まれてしまい、どこにいるかが瞬時にわかってしまいます。Kディックが生きていたら、今の世をなんと描くでしょうが。コンピューターチップを埋め込む代わりに、電話という一見すると生活必需品にも思えるようなものを持たせることで、人の発見というものはたやすくなっておりますが。小生、気になるのは彼の作品の「記憶」というものへの固執であります。電気羊の中、映画ではルドガーハウアー扮するレプリカントが、タンフォイザーの渦の嵐、太陽のフレアと語らしていた、記憶の断片。そして女性のレプリカントが最後まで信じて疑わない偽の幼年時代の記憶。
 以前書いたかもしれませんが、ある留学体験記の本に以下のような逸話がありました。アメリカ人はどうして身辺雑記のことしか話さないのだろうと著者が、ヨーロッパからきている留学生に問うと、アメリカには歴史がないからさと答えたという話です。
 自身の歴史から、家族へ、村へ、そして町、国と歴史の形跡を広げていけることの楽しさは、歴史がある国でしか味わえないものなのかもしれません。奈良の飛鳥山に始まり、日本の各所には百年という時間の長さが指呼の距離だと納得させるものがありますが、その指呼の距離が高々片手で足りてしまう国にとっては、記憶というものが重要性を帯びてくるのでしょう。と小生は考えるのであります。
 とはいえ、仕事の都合で鍋屋横丁を歩く機会があったので、あらためて眺めてみれば、『堀の内』の面影は何処。日本人のハイテクによる記録狂の背景もこんなところにあるのでは、と仕事を忘れて、八月の槍になったのでありました。
 SFに詳しい人には、半ば当たり前でありましょうが、ディックの作品にも、しっかり「一本いっとく」の影が色濃く出ています。脳みそが疲れているときには少々しんどい作品もあります。

りんぼう先生の文章教室

2006-11-10 | 
文章を書く際に、いかに切るか、キーボードを叩くことにためらわないかを念頭においている。文が浮かんでこないというよりも叩いて叩いて文字を連ねていく、連ねていった上で切って切ってと心がけているが、その心がけがこの程度だから、お里が知れようというものである。
 森銑三先生の『明治人物夜話』の中に末松謙澄(けんちょう)と福知源一郎の逸話がある。末松が書いた文に福知がちょっと手を入れるだけで見違える文になったというものである。一茶、芭蕉は、句を添削するだけで豊かな暮らしが出来たと仄聞した。一茶先生に句をあずけ、朱墨でちょんちょんと。このちょんちょんが高いらしかった。今でも、高級料亭の亭主は句や歌を嗜むという。
 先代が鬼籍に入った折、香典返しの中に、手拭が一本。それには二代目が詠んだ手向けの句があった。主は、句を習っているなぞ口にしたことがなかったし、句を披露するといっても年に数回であるからと言って、照れていたが、どうしてどうして、詠むものの心打つ立派なものであった。
 林望氏の文章教室という本を入手して、人の文に赤を入れている項がある。人の振り見てではないが、作文とはこういうものかと認識を改めた。
 てにをはを直す、文章構成そのものを変える、叙情性をもたせようとして裏目になっている、直すところは十人十色である。
 調子に乗って、一年以上書いてきたが、朱入れのできるブログなんて出来やしないか。職業、性別のみ明示して朱入れをしてもらう。一つのブログで複数の朱入れブログが出来れば、一つの職業見本図になるだろう。そういえば、井上ひさし氏の本だったと思うが文体別に、同じ主題で書いた本があった記憶があるが、例の如くうろ覚えゆえにあしからず。

乱読の日々

2006-10-27 | 
本日は、乱読であります。既に読んでいる方は、これから先はお読みにならずにいて結構であります。まずは日本の戦後史ということで、ははぎほうせい『みたびの海峡』です。九州の炭鉱に強制連行された朝鮮人の物語でありまして、主人公の戦後総決算と復讐劇であります。時間軸を現在と過去に交差させて物語を展開させます。が物語の最後が、小生にはどこかで読んだことのある展開でありまして、いささか不満に思えたのですが、それでも、漱石の『炭鉱夫』を意識してか、場面場面に光るものを覚えました。強制連行という仕儀がいかなるものかを知るには面白いものであります。ヤンソギルの『血と骨』がA面ならば、B面がこの作品でありましょうか。『大山増達自伝』も更に併せて読みますと、戦後史の裏面が垣間見られると思われます。
 時折、このようにパズルを組み立てる読書が無性にしたくなりまして、どこにどれを置くかとか、ひっくりかえすと何になるかと考えながら本を手にします。勿論、それとても魯鈍な小生の頭では、専門家の方から見れば、視点がずれてるいるのでしょうが。
 仕事もそっちのけで、いい大人がやることではないと思いながらも、白い帳面の上に線やら丸やらを書いて時間軸を平面に並べているのであります。
 久しぶりに見たスパイクリーの映画について述べるのが、脱線してしまいました。

超格差社会

2006-09-30 | 
「超格差社会のアメリカ」日経BP出版という本を見つけ、ぱらぱらとめくってみるっと、なるほどアメリカの公教育が、あれほど荒んだのも納得できました。古くは「暴力教室」が50年代に、「いつも心に太陽を」が60年代に、その後、この手の教育ドラマは、様々な形で描かれました。サミュエルLジャクソンは、2本ほど、「暴力教室」の話と、「いつも」のタイプに出演してます。ミッシェルファイファーも「いつ」もに、メリルストリープも「いつも」のタイプに出ておりました。それらの映画を見るたびに、口に出てくるのは予算、予算でありました。クリントン政権下では、テレビコマーシャルで、公立学校の良さを訴えてました。バウチャーというアメリカ独自?の教育制度によって、公教育の格差は広がるばかりで、「卒業させることが目標になってしまっている学校もある」と件の本には書かれております。
 翻って、わが国の教育はと言えば、存外すでにアメリカ並みになっているのではないでしょうか。是非はともかく、高校中退者を集めた学校、および私塾が、マスコミで取り上げられたのは、ここ十年のことであります。確かに夜間中学がありましたが、これは、歴史的背景があっての存在であります。ある意味で先の戦争の副産物であります。
 今日では、通信制、単位制の高校がそれなりに社会的地位を確立しているのが現状であります。勿論、それらの学校に通う学生が学習能力が極めて低いという意味ではありません。病気などの諸事情により、全日制の高校に通えない人もいます。
 安部さんの政策には、教育改革があり、バウチャー制度を導入という主旨があります。公立校で競争させて、全体の質を高めていこう、しつけ教育を学校でと謳っております。その先に待っているのは、恐らく、アメリカの卒業さえすればいいという本末転倒の結果でありましょう。教育基本法の改正というおおきなものばかりに目を向けていると、還って地に足の着いた部分が疎かになるのではないでしょうか。
 最後に件の本を読むと、ビリークリスタルのあの名文句の面白さがよくわかりました。小生の頭では、これだけが唯一理解できたことです。
 

本二冊

2006-09-21 | 
訳のわからぬトラックバックがありましたので、削除しました。じじいに春画の類をネット上で見せて何が面白いねん、タイトルが「笑わぬでもなし」ゆえ、どうせなら、昔のいんちき広告の類にしてくれ、ありましたよね。「私たちの生まれたままの姿をさらけ出した写真をみせます」と書いてあって、局留め、若しくは私書箱になっており、送付して代金を送る。いつ来るかと首を長くして待っていると、知らない名前の差出人と住所、恐る恐る開けると、相撲取りの写真が入っていたりする奴です。確かに相撲取りは裸でありますから、生まれたままの姿です。でもねえとため息がついて、次に笑いがこみ上げてくる。そんなユーモアのあるトラックバックならまだしも。
 お話変わって、『グーグルアマゾン化する社会』光文社新書と『データーの罠 世論はこうして作られる』集英社新書は、どうして先の選挙で自民の完勝であったのか、小泉内閣がもたらした格差社会の歪みが、どのように形成されているのかを解き明かすには十分な資料であります。この辺りは、実際にお読みなってください。
 小生が、気になったのは、英語学習熱の契機となった「トフル、トーイックの得点の低さ」の正体と、からくりであります。当時日本はアジアの近隣諸国よりも、得点が低く、「仇敵」と見なしている?北朝鮮と同じくらいの能力であるという世論形成でありました。今でこそ留学、遊学は当たり前で、能力のある学生、社会人は、件の試験を受験し、米国、英国、豪州などの名門校へ行きますが、往時は、その存在すらも知られておらず、フルブライト留学の資格、志望者のみが知る存在でありました。今では、件の試験は企業で、ある意味、人事評価の物差しとして活用されていたり(本当は物差し程度にもならないのですが)大学の能力選別にしか活用されていたりするものであります。
 「受験している大半のものが訳もわからずにやらされているのが実状でありましょう。それゆえに受験者の母体が増え、それこそ得点率が「惨憺たるもの」であるのが現状である」と、『世論』の本には書いてあります。世の中には、様々な語学試験がありまして、受験者数が20万だか、30万だか越えないと「文科省認定」のお墨付きがもらえないという話を仄聞したことがあります。為に、団体を挙げて、受験者数を増やし、時には水増しみたいなこともして、「お墨付き」を貰い、貰えば各種の優遇措置がとられるという仕組みであります。けれども出来てしまったものは、元に戻せぬは赤子だけに限りません。数が権威となり、一千万とも我行かんであります。
 これだけブログが普及し、文章がネット上を飛び交っているにもかかわらず、衆口金を溶かすという東洋の箴言が欧米に伝わらぬのが不思議であります。これだけ外国語熱が高いのであるのなら、だれぞ、グーグルとやらに伝えておくれ。

本の紹介

2006-06-04 | 
一ヶ月前からですが仕事の密度が高まったために、更新が上手くいっておりません、皆様方には大変ご迷惑をおかけします。読書もままならず、映画と言ってもDVD鑑賞ですが、それもままならず、ある意味で文化的に貧困な状況で過しておるのが実状であります。
 坪内祐三氏の『同時代も歴史である 一九七九年問題』文春新書は、アメリカの今の姿を、歴史的系譜から推敲した興味深い本です。内容は雑誌『諸君』に連載した記事をまとめたものでありますが、学生運動からポストモダン、そして現在に至るまでのクロニクルであり、ある意味で「左翼運動」の思想上の変化を知る一冊であります。
 小生がとりわけ関心抱いたのは、「イラク派遣 人間不在の防衛議論」という論説であります。ブッシュジュニアの信ずるキリスト教の一派を解き明かし、パレスチナ問題の根にあるもの、さらには、ハイネのナチズムの話、そして今時の反米主義が嫌いであるという論立てで、最後は日本はまだ「カミ」不在の国ではないはずという結論になります。この本は不惑を越えて人生を回顧するものであります。換言すれば、もう一度自分の出発点に戻って(一種のブレインストーミングのようなものですが)、今という時代を考えるものであります。そこに筆者の不器用ながらもなんとか生きてきたという姿勢が読み取れ小生は好感を抱きました。この坪内氏のアメリカの思想的背景を探るものならば、実務上の思想背景を探るものに『拒否できない日本』という本、これまた文春新書があります。こちらは、日本の国内、正確には小泉内閣が取り組んでいる諸々の法改正、民営化の背景にあるアメリカの意図が書かれた本でありまして、ロースクールの開設、独禁法の改正、建築法の改正、世界基準というまやかしの裏にあるものを白日の下に晒してくれております。
 本日は、舌足らず(毎度のことでありますが)な本の紹介であります。

ウルトラダラー

2006-05-09 | 
今話題のウルトラダラーを読みました。フィクションとノンフィクションのすれすれにあって、小生の印象は、ゴルゴ13を活字にすると、こんな感じになるのでしょうか。ともあれ、詳細は書きません。売れ行きも好調で、暇を見つけて、本屋に入ってみれば、平積みがなくなっているという店もありました。
 戦後も60年を過ぎ、韓流ブームとやらで、隣国との距離がいろいろな意味で縮んできましたが、戦後の日本、戦前の日本の歴史を解き明かすのに、未だ禁忌となっているのが、在日問題であります。新潮選書(新書)から『朝鮮総連』という名の本が出ており、朝鮮総連発展の歴史とその背景に日本共産党の存在が大きく関与していたという話が出てております。ですが、まだまだ日本の暗部とも言われる在日の近代、現代史についての冷静な視座で書かれた書物は少ないのではないかと、小生は睨んでおります。勿論、何を持って「冷静な」視座とするのかが問題でありますが。朝鮮総連と、日本の警察との関係、政治的禁忌、不可触領域としている分野はまだまだあります。そしてそれが日本の政治の舵取り、社会の形成、もしくは文化においてどのような影響を果たしてきたのか、この辺りは常々興味があります。ウルトラダラーが、パズルのワンピースなら、別の方向から描くピースもあるはずです。ノンフィクションという分野では、まだまだ禁忌、聖域にある在日の近、現代史であります。フィクションなら、「月はどっちに出ている」、「ぱっちぎ」、「GO」、「血と骨」など、その欠片は少しずつですが見かけるようになりました。個人史を集めることで、全体が俯瞰できたらと思うのですが、やはり微妙なところは書かれていないようであります。言い換えれば、それは在日の中で、北の存在をどう受け止めるか、さらには北に対する意見に言論の自由なりが保障されてはじめて、小生が関心ある歴史の軌跡なりを見ることができるのでありましょう。
 話を戻して、ウルトラダラーでありますが、作者の手嶋さんの広範囲な趣味とワシントン支局長ならではの知識が描かれた作品であります。ラジオ番組で、大橋巨泉氏が言っていたのですが、この作品の主人公を中心にシリーズ化されるのではないかと。もしシリーズ化されたら、日本版のトムクランシー、フォーサイスのような作家になるのでしょうか。

テレビドラマの質

2006-04-03 | 
民主党のどたばたとワールドベースボールで、何か忘れられたような気がしますが、耐震構造偽装、ホリえもん、BSEなどはどこに行ったのでありましょうか。気がつけば消費税アップという話も出ておりますが、テレビをつけると朝から民主党の面々があちこちに出ていて埒もあかない絵空事を話している一日でありました。また本日は大風のためにJR線のダイヤが乱れ、おかげで乗れない電車に乗れたために、得意先の最寄り駅に早々と着いてしまい、時間をつぶすのに苦労しました。
 さて、小生相変わらず、CSIと寺内貫太郎のDVD漬けの日々でありまして、CSIシーズン3の脚本家は、随分と凝っておりまして、台詞の中にキプリング、イエーツ、シェイクスピアの引用を使っております。毎回感心するのは、米国のドラマの台詞の作り方であります。確かにスノビッシュ、米国人特有の知的・教養コンプレックスの裏返しとも取れないではありませんが、にしても古典の名台詞を使うだけの余裕があるのに感心します。日本のドラマには、そのような傾向が見られず、せめて劇中で芝居の解説、名文句をさり気なくいれるような場面でもあればと思うのですが、家族ドラマが「渡るなんとか」だけになってしまった今では、もはや小生の望みもかなうことは決してあるまいと、加えて久世さんが亡くなったので益々絶望的な状況であることは間違いないと確信しております。何々ブームとは聞こえがいいですが、満つるば欠くるでありまして、若い人に流行った古典芸能は一過性のもので、所詮は残る数が知れているというものです。だからこそ、テレビドラマという中で少しは、古典なり伝統芸を小出しにするものがあってもいいと思うのですが。
 それとも近頃ではテレビも見ないのが現状なのでしょうか、冷静に考えてみると小生、テレビは限られたものしか見ておらず、テレビ番組について述べていても、実のところ何もドラマは見ていないのが実状ですから、偉そうに言えた義理ではないのかもしれません。
 お暇のある方は、久世さんの「大遺言」、向田邦子さんの「父の思い出」の二冊を熟読してから、寺内かんたろうをご覧になってください。なるほどと思う場面が多いはずであります。
 追記:もうじきこのブログも一年になります。今まで書き溜めた記事を順次削除していきます。