舞台『シダの群れ 純情巡礼編』を23日と25日に両日ソワレで観てきました。
(敬称略)
作・演出:岩松了
美術:伊藤雅子
衣装:山下和美
出演:坂本(堤真一)、ヤスコ(松雪泰子)、泊(小池徹平)、片目(荒川良々)、水野(風間社夫)、ギターの女(村治佳織) 等
上演:シアターコクーン
本当はこんな近い日程で観たかったわけではないのですが、さまざま事情が重なってこういうことに。
席は、23日は1階左右ど真ん中の前後真ん中前目あたり、25日は上手のかなりの前目だったので、23日は全景と物語を観て、25日は主に堤さんガン見、というかなり私的には都合のいい位置でした。(笑)
しかし・・・・先日、岡田(准)くんのGRで中井美穂さんが仰ってたけど、舞台ってほんと良い作品に出会う確率は宝くじ並みなのかな、と。・・・・個人的な好みの問題も大きいのでしょうけど。・・・・
まだ数えるほどしか観劇経験のない私の言うことではないかも知れませんが、映画もそういう面は多分にありますけど、舞台で傑作に出会う機会は映画以上のレアさ加減なのかも、と。・・・・
演劇というフィールドが、「実験的なことに挑戦できる場である」という要素を長所としているからかもしれませんが。
禁止事項や禁忌要素、スポンサーの都合や利益、教育委員会とかの縛りがほとんどない、という自由さが、演劇作品の可能性であり良さでもあるのでしょうね。
でもだからこそ、玉石混交率もとても高いし、完成度の面では、ほとんどの場合期待ができないことが多いみたいな。・・・・
中井さんが言うように、観る観ない、その場に足を運ぶも運ばないもすべてが自己責任だし。
結果ハズレであっても、それまでのドキドキ感をもらったと思えば損はないし、アタリの時はその分感動も大きい、と。・・・・
以下はあくまでも私個人の感慨です。不快に思われそうな方は読まないようにお願いします。
この『シダの群れ』に関しては、私は、いろいろな意味で完成度が低いと思ってしまいました。
設定、美術、人物造詣、物語、セリフ、それら要素すべてが中途半端というか。・・・・・
舞台独特ともいえる、無国籍的設定に私が付いていけない、という面もあると思いますが。
しかし、いわゆるヤクザもの、ギャングやマフィアものはどちらかと言えば好きな方です。
『ゴッドファーザー』は大好きな作品ですし、ジョニー・デップの『フェイク』や『パブリックエネミーズ』もおもしろかった。
スパイク・リー監督作品や『アメリカン・ギャングスター』とかのハーレムを舞台とする映画も良く観ます。
北野作品はやくざがよく出て来ますし、高倉健さんの任侠映画も見たことがあります。
だけど、それらの作品とこの『シダの群れ純情巡礼篇』を比べると、どうにも物足りないというかいまいち話が甘いというか・・・・・やりたいことは分かるけど、上っ面だけなぞった薄味という印象を受けてしまったんですよね。・・・・
たぶん、岩松さんは上に挙げたような作品の雰囲気を描きたかったんだろうけど、描き切れていないんじゃないかなー・・・・と。
その上、なぜかスペインが舞台、というのが、またどうにもこうにも。・・・・・
マフィアならばイタリアですが、なぜかスペインなんですよね。
村治さんのギターの音色を生かしたかったのかも知れませんが、このスペイン要素がまったくうまく嵌っていないというか、効果的に使われているとは思えなかったのが・・・・うーん・・・・。
ホアキン・コルテスの『ジターノ』という映画やペドロ・アルモドバル作品で、スペインは私も結構思い入れのある国なのですが、それらから見ると、まったくスペイン的なものをこの舞台には感じなかったというか。・・・・・
いかにも日本人的パブリックイメージの"スペイン風味"を入れただけ、というか。
完成度薄ーーーー・・・・・としか思えなかった。
それに、女性の描き方が画一的に感じるのも嵌れない要素。
女性は3人出て来ますが、赤の他人のはずの3人がまるで同じ家系の人間のように似通った性格なんですよね。
正直、「岩松さんの奥さまか周りのどなたかがこういう性格の人なんだろうなー・・・・」と思ってしまった。
でなければ、北野監督の『ソナチネ』の幸や『TAKESHIS'』で京野ことみさんが演じたような女性を、いただいて来ちゃったのかな、と。・・・・特に看護師のヨシエ(市川実和子さん)なんかすごくそれっぽい。
舎弟たちが暇を持て余して相撲に興じたりするシーンなんて、『ソナチネ』か『BROTHER』で観たような感じだし。
名前は「坂本」とか「矢縞」とかこってこての和名なんだし、日本の任侠の世界を描くんなら舞台も普通に日本にすればいいのになぜかスペインで、ならばスペイン独特の雰囲気や風土をもっと描き込めばいいのに、唐突な闘牛エピソードで適当にお茶を濁した程度でリアルな奥行きは感じられないし、だから観ている観客としても、背景のイメージが膨らまないというか、舞台装置以外の映像が目の前に浮かんでこないんですよね。
しかも、一応、主役は堤さん演じる坂本のようですが、心情として物語の主軸になっているのはどちらかというとヤスコ(松雪さん)と水野(風間さん)という感じで、この二人が前作の『シダの群れ』において造った因果が、どう展開されていくかが見どころというか。・・・・・
坂本は、この二人がその因果のためにどう動くかの駒でしかない感じ。おいしい役回りとはとても言えない。
で、じゃあヤスコは男性並みの策士だったり政治力があったり、でなければ、女性的な強さや無茶苦茶な大胆さがあるキャラクターなのかと言えば、わりとおもしろくない女というか。(苦笑)
岩松さんが描く女性像は、ひたすら「愛を請う人」って感じ?
でも、女性も男性も、実は愛が何かなんて本当は分かっちゃいない、てこともテーマなんでしょうけど・・・・・にしても、理屈っぽいだけで退屈な女性像、甘い人物造詣。愚かな魅力も憐れな愛らしさもないし。
それにたぶん、水野(風間さん)は岩松さん自身の自己投影でもあるんだろうなー・・・・と。
一種の自分の理想像というか。
だから、坂本を主役にしようにも、どうしても水野の比重が大きくなっちゃったんだろうなー・・・・と。
で、坂本に自分(水野)を殺させてカッコよさげに自己完結、というか。
・・・・ある意味、SPの井上に対する尾形の心境にも似た感じだけど。「こいつになら殺されてもいいや」みたいな。にしても自己満足に過ぎる感じ。
泊(小池さん)のポジションもなんだか中途半端だし。
別に分かりやすいエピソードや、理解しやすい人物や心情が描かれてればいいわけではないけど、それにしても人物の心境の変化を追いにくい。
男性のプライオリティーは、女性との恋愛が一番じゃない、というのもわかるけど、でもだからなんなの?今さら?・・・・というか。
北野映画のような虚無感や男性特有の児戯も感じないし。
や、これだけのキャストを集めて、御苦労さまでしたー・・・・、と正直思ってしまいました。・・・・
映画を観てると、どうしても完成度の高いものほど良いという感覚があるので、こういう演劇作品の細部の骨子の弱さ細さ、それを自分で補完するということには、どうにも私はまだ慣れていないといえるのかもしれません。・・・・
さて、脚本や作品全体としてはそんな感慨を抱きましたが、役者さん個人や周辺状況に関して・・・・。
演劇でおもしろいのは、やはり観客は毎回違う、という要素もあるでしょうか。
23日と25日を比べると、23日の方が年齢層が高めで男性も多く、最初はいわゆる「甘金」という印象がありました。
冒頭から小さな部分にも簡単に反応して頻繁に笑ったりして、さぞかし作品に満足しているのかと思いきや、実のところはワリとシビアで、カーテンコールの3回目には半分以上の人が席を立っていて、舞台上に出て来た役者さんたちの表情が凍りついていたように見えました。
3回目は既に客電が点いている状態なので、お客さんに罪はないのですが、空席や、背を向けて歩き去って行くお客さんに、舞台上で頭を下げている役者さんたちの姿には少し胸が痛みました。
『寿歌』の時にはそういうことはなかったんですが、上手側のバルコニー席に関係者が居るらしく、カーテンコールの拍手を煽る人たちがいる感じなんですよね。
だから、観客の本心からの評価と、その人たちの熱心な拍手の間には少しギャップがあったというか。・・・・
25日の方は、上演中の笑いはあまり起こらなかったけど、カーテンコールには皆さん熱心で、3回目のコールも全員着席で歓迎する雰囲気で役者さん達に拍手を贈っていましたけど。
堤さんも安心したような笑顔を浮かべられて、私も「ああ、今日は良かったな」と。・・・・・
ああいうのを見ると、演劇の怖さと言うか、生のお客さん相手の怖さって半端ないなと思います。
某事務所のファンの人たちなんかだと、甘金も甘金でカーテンコールも予定事項って感じで、役者はシビアな評価に直面せずに済むかもしれませんが、やっぱ普通はそうはいかないんだな、と。・・・・・・
男性年配客は特にそういう部分は厳しい、というか、ある意味フェアだから、役者さんとしては客に鍛えられるでしょうね。
確かに、25日の方が良かったと、私も思いました。
特に小池さんや倉科さんとか若手の方々が。
23日は中だるみ感というか、セリフに感情が籠らずただ滔々としゃべってるだけで、言葉が荒んでる感じがしました。魂が入ってないというか。
だから聞かされている方も言葉が頭に入ってこなくて、心に届かず、分かり難い話がますます分かり難くなってたというか・・・・。(苦笑)
惰性感や疲労感が演技に出てしまって、客にそれがバレてしまっているんでしょうね。
でも声を枯らしてる人や出にくそうにしてる人は一人もいなくて、初舞台の小池さんもその点はまったく問題はなかったですけど・・・・・。倉科さんも、いかにも若い女性らしい澄んだ通る声で(ちょっと宝塚の娘役っぽいけど)、舞台向きかも、とも思いました。
しかし長丁場でテンションを維持することの難しさは相当なものなのでしょうね。
堤さんや風間さんたちベテランさんたちは、さすがにそういうムラはなくて、「ああ、この人たちは常に一定レベル以下には絶対にならない人なんだろうなー・・・・」と。
プロの矜持というか、観た甲斐はあると思わせて貰えるパフォーマンスの安定感と申しますか。
25日は、特に役者さんの発する声がダイレクトに聞こえる距離だったので、尚のこと感心至極で。
堤さんの声の良さ、声量はやっぱり素晴らしいです。
音量はあるのに声張ってるうるささや、怒鳴ってるような印象は一切ありませんでした。むしろ心地良いぐらいで。(笑)
艶と温かみのある変幻自在な通る声で、間もいいので、委ねられる感じというか。・・・・・
でも役柄が役柄なだけに、常に眉間が険しくて、上から強いライトが当たってると眉毛が無いみたいに見えるし、目の下に影ができるから、なんかエンケンさんに似てるなー・・・・と思っちゃいましたけど。(笑)
それにもう一回り細身のスーツでも良かったかも。一度も上着を脱がないから細腰がなかなか見えなくて。屈むシーンは何度かあって、きゅっとした小ぶりのおしりは何度か見えたけど。(笑)
でも、綺麗な背中と脚のラインはよくわかりました。あの背中の饒舌さ、色気はやっぱ堪らないものがあります。
険しい表情でスーツ姿だけど、尾形のような峻厳で潔癖な香気ではなく、少し前屈み気味で獣っぽい、愚かな男の野卑な色気でした。
しかし役が抜けると憑きものが落ちたように別人になるのは相変わらずのようで・・・・。(笑)
カーテンコールで出てくる堤さんは、ちんぴらっぽい虚勢はまったくなくて、恥ずかしげに、また謙虚に感謝を込めた微笑みなんぞ浮かべられると、「かかかかかかわええーーーーー」みたいな?(笑)
白皙で透明感があって、照れたような顔をすると、ほんとただの綺麗なお兄さんって感じ。
坂本居ないじゃーーん、みたいな。
カーテンコールで出てくるたびに、「かわいい。つつみさんかわいい。」と呟いてしまった。(笑)
おう・・・・長くなり過ぎたので、堤さんに関してはまた別の記事でねっちり書きたいと思います。
あ、最後になってしまったけど、村治佳織さんのギター、哀切としてすばらしく美しかったです。
もっとうまく生かしてほしかった。
(敬称略)
作・演出:岩松了
美術:伊藤雅子
衣装:山下和美
出演:坂本(堤真一)、ヤスコ(松雪泰子)、泊(小池徹平)、片目(荒川良々)、水野(風間社夫)、ギターの女(村治佳織) 等
上演:シアターコクーン
本当はこんな近い日程で観たかったわけではないのですが、さまざま事情が重なってこういうことに。
席は、23日は1階左右ど真ん中の前後真ん中前目あたり、25日は上手のかなりの前目だったので、23日は全景と物語を観て、25日は主に堤さんガン見、というかなり私的には都合のいい位置でした。(笑)
しかし・・・・先日、岡田(准)くんのGRで中井美穂さんが仰ってたけど、舞台ってほんと良い作品に出会う確率は宝くじ並みなのかな、と。・・・・個人的な好みの問題も大きいのでしょうけど。・・・・
まだ数えるほどしか観劇経験のない私の言うことではないかも知れませんが、映画もそういう面は多分にありますけど、舞台で傑作に出会う機会は映画以上のレアさ加減なのかも、と。・・・・
演劇というフィールドが、「実験的なことに挑戦できる場である」という要素を長所としているからかもしれませんが。
禁止事項や禁忌要素、スポンサーの都合や利益、教育委員会とかの縛りがほとんどない、という自由さが、演劇作品の可能性であり良さでもあるのでしょうね。
でもだからこそ、玉石混交率もとても高いし、完成度の面では、ほとんどの場合期待ができないことが多いみたいな。・・・・
中井さんが言うように、観る観ない、その場に足を運ぶも運ばないもすべてが自己責任だし。
結果ハズレであっても、それまでのドキドキ感をもらったと思えば損はないし、アタリの時はその分感動も大きい、と。・・・・
以下はあくまでも私個人の感慨です。不快に思われそうな方は読まないようにお願いします。
この『シダの群れ』に関しては、私は、いろいろな意味で完成度が低いと思ってしまいました。
設定、美術、人物造詣、物語、セリフ、それら要素すべてが中途半端というか。・・・・・
舞台独特ともいえる、無国籍的設定に私が付いていけない、という面もあると思いますが。
しかし、いわゆるヤクザもの、ギャングやマフィアものはどちらかと言えば好きな方です。
『ゴッドファーザー』は大好きな作品ですし、ジョニー・デップの『フェイク』や『パブリックエネミーズ』もおもしろかった。
スパイク・リー監督作品や『アメリカン・ギャングスター』とかのハーレムを舞台とする映画も良く観ます。
北野作品はやくざがよく出て来ますし、高倉健さんの任侠映画も見たことがあります。
だけど、それらの作品とこの『シダの群れ純情巡礼篇』を比べると、どうにも物足りないというかいまいち話が甘いというか・・・・・やりたいことは分かるけど、上っ面だけなぞった薄味という印象を受けてしまったんですよね。・・・・
たぶん、岩松さんは上に挙げたような作品の雰囲気を描きたかったんだろうけど、描き切れていないんじゃないかなー・・・・と。
その上、なぜかスペインが舞台、というのが、またどうにもこうにも。・・・・・
マフィアならばイタリアですが、なぜかスペインなんですよね。
村治さんのギターの音色を生かしたかったのかも知れませんが、このスペイン要素がまったくうまく嵌っていないというか、効果的に使われているとは思えなかったのが・・・・うーん・・・・。
ホアキン・コルテスの『ジターノ』という映画やペドロ・アルモドバル作品で、スペインは私も結構思い入れのある国なのですが、それらから見ると、まったくスペイン的なものをこの舞台には感じなかったというか。・・・・・
いかにも日本人的パブリックイメージの"スペイン風味"を入れただけ、というか。
完成度薄ーーーー・・・・・としか思えなかった。
それに、女性の描き方が画一的に感じるのも嵌れない要素。
女性は3人出て来ますが、赤の他人のはずの3人がまるで同じ家系の人間のように似通った性格なんですよね。
正直、「岩松さんの奥さまか周りのどなたかがこういう性格の人なんだろうなー・・・・」と思ってしまった。
でなければ、北野監督の『ソナチネ』の幸や『TAKESHIS'』で京野ことみさんが演じたような女性を、いただいて来ちゃったのかな、と。・・・・特に看護師のヨシエ(市川実和子さん)なんかすごくそれっぽい。
舎弟たちが暇を持て余して相撲に興じたりするシーンなんて、『ソナチネ』か『BROTHER』で観たような感じだし。
名前は「坂本」とか「矢縞」とかこってこての和名なんだし、日本の任侠の世界を描くんなら舞台も普通に日本にすればいいのになぜかスペインで、ならばスペイン独特の雰囲気や風土をもっと描き込めばいいのに、唐突な闘牛エピソードで適当にお茶を濁した程度でリアルな奥行きは感じられないし、だから観ている観客としても、背景のイメージが膨らまないというか、舞台装置以外の映像が目の前に浮かんでこないんですよね。
しかも、一応、主役は堤さん演じる坂本のようですが、心情として物語の主軸になっているのはどちらかというとヤスコ(松雪さん)と水野(風間さん)という感じで、この二人が前作の『シダの群れ』において造った因果が、どう展開されていくかが見どころというか。・・・・・
坂本は、この二人がその因果のためにどう動くかの駒でしかない感じ。おいしい役回りとはとても言えない。
で、じゃあヤスコは男性並みの策士だったり政治力があったり、でなければ、女性的な強さや無茶苦茶な大胆さがあるキャラクターなのかと言えば、わりとおもしろくない女というか。(苦笑)
岩松さんが描く女性像は、ひたすら「愛を請う人」って感じ?
でも、女性も男性も、実は愛が何かなんて本当は分かっちゃいない、てこともテーマなんでしょうけど・・・・・にしても、理屈っぽいだけで退屈な女性像、甘い人物造詣。愚かな魅力も憐れな愛らしさもないし。
それにたぶん、水野(風間さん)は岩松さん自身の自己投影でもあるんだろうなー・・・・と。
一種の自分の理想像というか。
だから、坂本を主役にしようにも、どうしても水野の比重が大きくなっちゃったんだろうなー・・・・と。
で、坂本に自分(水野)を殺させてカッコよさげに自己完結、というか。
・・・・ある意味、SPの井上に対する尾形の心境にも似た感じだけど。「こいつになら殺されてもいいや」みたいな。にしても自己満足に過ぎる感じ。
泊(小池さん)のポジションもなんだか中途半端だし。
別に分かりやすいエピソードや、理解しやすい人物や心情が描かれてればいいわけではないけど、それにしても人物の心境の変化を追いにくい。
男性のプライオリティーは、女性との恋愛が一番じゃない、というのもわかるけど、でもだからなんなの?今さら?・・・・というか。
北野映画のような虚無感や男性特有の児戯も感じないし。
や、これだけのキャストを集めて、御苦労さまでしたー・・・・、と正直思ってしまいました。・・・・
映画を観てると、どうしても完成度の高いものほど良いという感覚があるので、こういう演劇作品の細部の骨子の弱さ細さ、それを自分で補完するということには、どうにも私はまだ慣れていないといえるのかもしれません。・・・・
さて、脚本や作品全体としてはそんな感慨を抱きましたが、役者さん個人や周辺状況に関して・・・・。
演劇でおもしろいのは、やはり観客は毎回違う、という要素もあるでしょうか。
23日と25日を比べると、23日の方が年齢層が高めで男性も多く、最初はいわゆる「甘金」という印象がありました。
冒頭から小さな部分にも簡単に反応して頻繁に笑ったりして、さぞかし作品に満足しているのかと思いきや、実のところはワリとシビアで、カーテンコールの3回目には半分以上の人が席を立っていて、舞台上に出て来た役者さんたちの表情が凍りついていたように見えました。
3回目は既に客電が点いている状態なので、お客さんに罪はないのですが、空席や、背を向けて歩き去って行くお客さんに、舞台上で頭を下げている役者さんたちの姿には少し胸が痛みました。
『寿歌』の時にはそういうことはなかったんですが、上手側のバルコニー席に関係者が居るらしく、カーテンコールの拍手を煽る人たちがいる感じなんですよね。
だから、観客の本心からの評価と、その人たちの熱心な拍手の間には少しギャップがあったというか。・・・・
25日の方は、上演中の笑いはあまり起こらなかったけど、カーテンコールには皆さん熱心で、3回目のコールも全員着席で歓迎する雰囲気で役者さん達に拍手を贈っていましたけど。
堤さんも安心したような笑顔を浮かべられて、私も「ああ、今日は良かったな」と。・・・・・
ああいうのを見ると、演劇の怖さと言うか、生のお客さん相手の怖さって半端ないなと思います。
某事務所のファンの人たちなんかだと、甘金も甘金でカーテンコールも予定事項って感じで、役者はシビアな評価に直面せずに済むかもしれませんが、やっぱ普通はそうはいかないんだな、と。・・・・・・
男性年配客は特にそういう部分は厳しい、というか、ある意味フェアだから、役者さんとしては客に鍛えられるでしょうね。
確かに、25日の方が良かったと、私も思いました。
特に小池さんや倉科さんとか若手の方々が。
23日は中だるみ感というか、セリフに感情が籠らずただ滔々としゃべってるだけで、言葉が荒んでる感じがしました。魂が入ってないというか。
だから聞かされている方も言葉が頭に入ってこなくて、心に届かず、分かり難い話がますます分かり難くなってたというか・・・・。(苦笑)
惰性感や疲労感が演技に出てしまって、客にそれがバレてしまっているんでしょうね。
でも声を枯らしてる人や出にくそうにしてる人は一人もいなくて、初舞台の小池さんもその点はまったく問題はなかったですけど・・・・・。倉科さんも、いかにも若い女性らしい澄んだ通る声で(ちょっと宝塚の娘役っぽいけど)、舞台向きかも、とも思いました。
しかし長丁場でテンションを維持することの難しさは相当なものなのでしょうね。
堤さんや風間さんたちベテランさんたちは、さすがにそういうムラはなくて、「ああ、この人たちは常に一定レベル以下には絶対にならない人なんだろうなー・・・・」と。
プロの矜持というか、観た甲斐はあると思わせて貰えるパフォーマンスの安定感と申しますか。
25日は、特に役者さんの発する声がダイレクトに聞こえる距離だったので、尚のこと感心至極で。
堤さんの声の良さ、声量はやっぱり素晴らしいです。
音量はあるのに声張ってるうるささや、怒鳴ってるような印象は一切ありませんでした。むしろ心地良いぐらいで。(笑)
艶と温かみのある変幻自在な通る声で、間もいいので、委ねられる感じというか。・・・・・
でも役柄が役柄なだけに、常に眉間が険しくて、上から強いライトが当たってると眉毛が無いみたいに見えるし、目の下に影ができるから、なんかエンケンさんに似てるなー・・・・と思っちゃいましたけど。(笑)
それにもう一回り細身のスーツでも良かったかも。一度も上着を脱がないから細腰がなかなか見えなくて。屈むシーンは何度かあって、きゅっとした小ぶりのおしりは何度か見えたけど。(笑)
でも、綺麗な背中と脚のラインはよくわかりました。あの背中の饒舌さ、色気はやっぱ堪らないものがあります。
険しい表情でスーツ姿だけど、尾形のような峻厳で潔癖な香気ではなく、少し前屈み気味で獣っぽい、愚かな男の野卑な色気でした。
しかし役が抜けると憑きものが落ちたように別人になるのは相変わらずのようで・・・・。(笑)
カーテンコールで出てくる堤さんは、ちんぴらっぽい虚勢はまったくなくて、恥ずかしげに、また謙虚に感謝を込めた微笑みなんぞ浮かべられると、「かかかかかかわええーーーーー」みたいな?(笑)
白皙で透明感があって、照れたような顔をすると、ほんとただの綺麗なお兄さんって感じ。
坂本居ないじゃーーん、みたいな。
カーテンコールで出てくるたびに、「かわいい。つつみさんかわいい。」と呟いてしまった。(笑)
おう・・・・長くなり過ぎたので、堤さんに関してはまた別の記事でねっちり書きたいと思います。
あ、最後になってしまったけど、村治佳織さんのギター、哀切としてすばらしく美しかったです。
もっとうまく生かしてほしかった。
本当に映画以上に当たり外れが激しいですよね。
舞台って。
堤さんをはじめ風間さんは、やはり舞台慣れしていらっしゃるなって言うのが、印象でした。
舞台って役者さんにとっては鍛錬の場なのかとプログラムを読みながら、思いました。
だから観客が喜ぶかどうかは主軸にないのかもしれないですね。
私は生の舞台の空気感は、とても好きです。
舞台が生き物のように感じる気がして。。
でも、何より堤さんの背中、立ち姿は、カッコよかったです。
出来れば、劇団新感線の包さんが観てみたいと個人的には思っています。
長々と失礼しました。
サッカー観戦や落語や歌舞伎を楽しむためには、やっぱりある程度の鑑賞経験は必要かな・・・・といつも思うんです。それは舞台も同じかな、と。
観客とパフォーマーは、それぞれを育て合うのかも知れませんね。
もう少し経験を積めば、私ももっと見巧者になれるかしら?
堤さんの生声が直接身体に伝わってくる感じは、今までにない体験でした。
あんな姿とあんな声持ってる人、やっぱ身近にはそうそう居ませんよね。
殺陣をやってる堤さんを生で観てみたいーーーー!とすごく思いました。
新感線の古田さんとはとても仲が良いので、近いうちに再共演はあるのではないでしょうか?
期待したいです。