そのⅩⅦ 敦盛
夜の帳が降りた頃、芳一の琵琶と平家語りが始まった。祇園精舎の鐘の聲
琵琶の音を合図に、本能寺は無数の篝火に照らされて夜の闇の中に浮かび上
がった。
♪ 沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
笙の調べが、まるで天から降ってきたように境内と舞台と、鑑賞する人々に注
いだ。
舞台中央の芳一の後ろに、笙を吹く尼御前が姿を現した。
篳篥の音が地上に降り立ち、平家の公達が現れ、竜笛が天地の境を流離うよ
うに漂っている。
若武者平敦盛が吹く青葉の音色に促された芳一の琵琶が激情のままに、荒々
しくかき鳴らされた。
♪ 驕れる人も久しからず 唯春の夜の夢の如し
舞台下手に二人の白拍子が現れ、扇子を開いて、ヒラヒラヒラと、盛りの花
弁を散らせるかの如く、揺らめかせた。
上手の白拍子も又、扇子をヒラヒラとさせながら芳一の側に寄って傅いた。
下手の二人もそれに習って傅き、三人声を合わせて芳一の謡を唱和した。
♪ 驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し
芳一は迸る激情のままに琵琶を掻き鳴らし、後方にズラリと並んだ、徳子を
始めとした平家の公達達はが管弦を協奏して琵琶の音色を包み込んだ。
芳一が見えぬ夜空、宇宙を見上げ、琵琶の音を止めた。
協奏していた管弦隊もまた、音を止め、境内には静寂だけが漂った。
三人の白拍子、祇王と祇女と仏が静かに立ち上がり、白鞘から剣を抜き、三
方に散った。
「猛き者もつひには滅びぬ」
今度は芳一、琵琶を弾かずに、能が如くに吟じた。
舞台前面の三方向に佇んだ三人の白拍子が剣舞を始めた。
祇王と祇女が床をトトンと踏み鳴らすと、仏がトンと応えた。
芳一の琵琶と協奏する管弦が静かに哀調の調べを奏で始めた。
さらに、芳一の琵琶が悲しくも静かに境内を漂った。
♪ 偏に風の前の塵に同じ
白拍子達は、風に舞い散る花の如くにクルクルと舞いながら舞台に蹲った。
近習を従えた信長は眼を皿のようにして見惚れていた。
実は信長、平家語りを聞いたことが無かった。
敦盛の段だけが好きで、自らも舞い謡ったのだ。
信長が小姓の一人に耳を寄せ、口を扇子で隠して囁いた。
「敦盛はいかがしたのじゃ」
「上様、しばしの辛抱を。この後壇ノ浦へと続き、敦盛の段になる手はず」
「であるか」
信長は満足そうに、二度三度と頷いた。
♪ 思へば、此世は常の住処にあらず
芳一の平家語りが続いている。
♪(仏)草葉に置く白露
♪(祇王と祇女)水に宿る月より猶あやし
信長が身を乗り出し、声を立てずに嬌声を上げた。
♪(芳一)金谷に花を詠じ
♪(祇王と祇女)栄花は先立て
♪(仏)無常の風に誘はるゝ
たたみ掛けるように芳一が謡った。
♪ 南楼の月をもてあそぶ輩も
芳一、仏、祇王、祇女が声を揃えて謡った。
♪ 月に先立つて、有為の雲に隠れり
信長が膝を立てて扇子を開いた。
♪(芳一)人間五十年
信長は堪らずに立ち上がって舞い、唱和し始めた。
♪ 化天の内を比ぶれば
信長も信長の家臣も、芳一も、白拍子も平氏の公達も声を合わせて唱和して
いる。
♪ 夢幻のごとくなり
信長がトトンと床を二度踏みならした。
舞台の三人の白拍子がそれぞれ信長に応えた。
ドンと大きく踏みならす仏。
トンと祇王、トトンと祇女。
♪ 一度生を受け 滅せぬ物のあるべきか
明智軍は、久御山(くみやま)の木津川畔で夜食を取っていた。、
休憩していた分けで無く、黒鍬部隊が木津川に浮き橋を築くのを待っていた
のだ。
「まだか。早くしろ。夜が明けるぞ」
火が急かした。
「大将、こんな川騎馬なら渡れましょう」
「うむ。渡るか」
その頃、明智軍は隊毎に集められていた。
「者ども良く聞け。敵は本能寺に有り」
利三が大音声で呼ばわった。
「我が殿が、仏敵、平氏の信長を討って、土岐源氏の光秀様が征夷大将軍に成
るのだ。この戦を命の限りに励め、子々孫々にまで語り継がせよ」
と、眼光鋭く一同を見回す。
「怖じけるな、臆病風を吹かした輩はこの利三の槍の錆にしてくれん。よい
か、此より鬨の声を上げる。ウオーッ!」
将兵は皆利三に応えて雄叫びを上げた。
鬨の声は明智全軍に伝番していった。
木津川堤の火が騎馬に一鞭呉れた。
「我に続け!」
ザンブと木津川に馬を乗り入れる火、三百騎も我先にと続いた。
赤揃いの騎馬隊が川の中頃に差し掛かった頃、浮き橋が完成した。
勇んだ明智軍将兵が橋に殺到した。
火と武田残党が岸に勢揃いした時、また殿軍に成っていた。
「おのれ、者ども遅れを取るな」
気を取り直した火が、馬に激しく鞭を飛ばした。
丑三つ時、芳一の寝所に林が忍んで来た。
芳一に躙りよる林が思わず膝を止めた。芳一が見ていたからだ。
芳一は眠れずにいたため、林の気配を悟っていた。
「法師様、ここは直に戦場に成りまする、巻き込まれぬ内にお逃がし致しま
す」
林は芳一を抱えるようにして本能寺の外に連れ出し、待たせてあった籠に乗
せ、丹波屋に送り届けた。
芳一をヨシとヨシコに託した林は、本能寺にとって返した。
「法師様、よくぞご無事で」
居間で親子の対面が果たされていた。
「お兄様、優しいお兄様、わたくしに眼を下さったお兄様」
「それでは矢張り」
「妹のヨシコで御座います。これからはお兄様の眼となって、ご恩に報いて生
きて参ります」
妹の言葉で全てを悟る芳一、見えぬ眼乍ら、両の腕で母と妹をしっかりと抱
きしめた。
本能寺は蟻の出る隙間も無い程、明智の軍勢で取り囲まれていた。
だが、物音を立てる者は一人としていなかった。
本能寺は三姉妹によって丸裸に為れており、雑兵の一人一人に至るまで頭に
たたき込まれていた。
皆、光秀の采配が振られるのを固唾を飲んで待っていた。
「ソレッ」
光秀が遂に采配を振った。
一斉に鬨の声を上げて、塀に梯子を掛け、よじ登った将兵が境内に雪崩れ込
んだ。
時ならぬ鬨の声に、織田の侍は跳ね起き、雨戸を蹴破って面に走り出た。
なんと、水色桔梗の光秀の旗印で取り囲まれているではないか。
鉄砲隊の一斉射撃にバタバタと倒れる織田侍。
一人が信長に報告する為に寝所に走った。
唯ならぬ気配に、信長は寝具の上に跳ね起きた。
十人程の近習達が駆け寄ってきた。
「上様、謀反に御座います」
「であるか、して・・・?」
おっとり刀で駆けつけた侍が叫んだ。
「水色に桔梗の紋」
「であるか。是非も無い」
信長は単衣の上から永楽銭の柄矢筒を襷に掛け、弓を抱えて寝所を駆け出
た。
廊下で蒼が控えていた。
「蒼、何をしておる。早く逃げよ、光秀奴が謀反を起こした。明智の兵ならば
女子供に害は及ばさぬ。いいか、達者で暮らせ、生き抜くのじゃぞ」
「承知仕りました」
左の衽(おくみ)を上に出して単衣を羽織っていた風は、不思議な事が有ると
思っていた。謙信公と同じ言葉を信長が残したからだ。
蒼は右の掌で懐の小判が縫い付けられた守袋を確りと掴んで、左手で腹を押
さえた。
蒼は立ち上がり様に単衣を一気に引き裂いた。
蒼揃いの忍び衣装の風が現れた。
風は長い髪を結い上げ、額に蒼い鉢金の鉢巻きをキリリと締めた。
萌葱の林が駆け込んで、風の左に並んだ。
騎馬の火が襖を蹴破って登場した。
騎馬から飛び降りた火が、くるりと回転をして、これまた林の左にすっくと
立ち並んだ。
蒼の風、萌葱の林、真紅の火が勢揃いした。
信長と近習達は獅子奮迅の活躍をしていた。
信長の矢は確実に明智の将兵を貫いていたが、多勢に無勢、次第に近習達が
倒されていった。
「上様、最早これまでで御座います」
「であるか」
信長と四人の近習が寝所に駆け戻った。自害をする為だ。
寝所に駆け込むと、光秀と光晴が次の間に控えていた。
「日向、でかした。じゃが後が大変じゃぞ」
「お後の事はこの光秀にお任せあれ」
光秀と光晴は片膝をついて死に行く信長に礼を捧げた。
矢筒と弓をかなぐり捨てた信長が太刀を手に取った。
「裏切り者」
四人の近習が一斉に光秀に斬りかかった。が、忽ちの内に光秀と光晴の刀の
錆と成り果てた。
見届けた信長が太刀を抜いて鞘を捨て、柄を逆手に持った。
天井から真紅の蝙蝠が飛び降り、信長の足を抱え込んだ。
堪えきれずにつんのめる信長に、火が罵声を浴びせた。
「自害などさせぬぞ、魔王奴」
又一羽の萌葱蝙蝠が飛び降り、信長の隙を見付けて手槍で突っ込んだ。
槍を腹に突き立てられた信長、今度は仰向けに倒れて行った。
背後に舞い降りた林が、背後から信長の身体を支え、耳元で囁いた。
「上様、蒼に御座います。恐れながら、あなた様のお命は、この風が頂戴致し
ます」
風は逆手に持った忍刀で信長の喉を掻き切った。
その時、轟音と共に寝所の天井が落ちてきて、信長もろとも三姉妹を排煙の
中に掻き消した。
思わず駆け寄ろうとする光晴を光秀が止めた。
「光晴、無用じゃ」
「信長の御首級を掻き出しまする」
「首などどうでも良い」
光秀の言葉で、光晴は渋々後に続いた。
光晴とて信長の首など欲しく無かった。が、本音は火が心配だったのだ。
硝煙の本能寺の夜が明けた。
朝焼けに燃え、粗方燃え尽くされた本能寺で本堂だけが無事な姿を見せてい
た。
その本堂の屋根に、三本の旗印がはためいていた。
永楽銭の旗を確りと持って佇む風。
毘の一文字を染め抜いた旗を掲げる林。
火は、風林火山の旗を翳していた。
「風よ、我らは向後如何にせむや」
林と火が風に問うた。
「林よ、あなたは法師殿を支えて生きて行くが良い。火よ、お前は光晴殿をお
守りするが良い」
「姉上は如何いたす所存?」
林と火がまた姉に問うた。
「わたくしは、甲斐の山奥に隠れ住む積もりです」
林が謙信の旗印を、火が信玄の旗印を風に渡して屋根から消えた。
三本の旗を抱えて確りと佇む風、零れそうになる涙を堪える為か、大空を仰
いだ。
そこには、何処までも紺碧の青空が広がっていた。
三界の夢・完 作・Gorou
夜の帳が降りた頃、芳一の琵琶と平家語りが始まった。祇園精舎の鐘の聲
琵琶の音を合図に、本能寺は無数の篝火に照らされて夜の闇の中に浮かび上
がった。
♪ 沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
笙の調べが、まるで天から降ってきたように境内と舞台と、鑑賞する人々に注
いだ。
舞台中央の芳一の後ろに、笙を吹く尼御前が姿を現した。
篳篥の音が地上に降り立ち、平家の公達が現れ、竜笛が天地の境を流離うよ
うに漂っている。
若武者平敦盛が吹く青葉の音色に促された芳一の琵琶が激情のままに、荒々
しくかき鳴らされた。
♪ 驕れる人も久しからず 唯春の夜の夢の如し
舞台下手に二人の白拍子が現れ、扇子を開いて、ヒラヒラヒラと、盛りの花
弁を散らせるかの如く、揺らめかせた。
上手の白拍子も又、扇子をヒラヒラとさせながら芳一の側に寄って傅いた。
下手の二人もそれに習って傅き、三人声を合わせて芳一の謡を唱和した。
♪ 驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し
芳一は迸る激情のままに琵琶を掻き鳴らし、後方にズラリと並んだ、徳子を
始めとした平家の公達達はが管弦を協奏して琵琶の音色を包み込んだ。
芳一が見えぬ夜空、宇宙を見上げ、琵琶の音を止めた。
協奏していた管弦隊もまた、音を止め、境内には静寂だけが漂った。
三人の白拍子、祇王と祇女と仏が静かに立ち上がり、白鞘から剣を抜き、三
方に散った。
「猛き者もつひには滅びぬ」
今度は芳一、琵琶を弾かずに、能が如くに吟じた。
舞台前面の三方向に佇んだ三人の白拍子が剣舞を始めた。
祇王と祇女が床をトトンと踏み鳴らすと、仏がトンと応えた。
芳一の琵琶と協奏する管弦が静かに哀調の調べを奏で始めた。
さらに、芳一の琵琶が悲しくも静かに境内を漂った。
♪ 偏に風の前の塵に同じ
白拍子達は、風に舞い散る花の如くにクルクルと舞いながら舞台に蹲った。
近習を従えた信長は眼を皿のようにして見惚れていた。
実は信長、平家語りを聞いたことが無かった。
敦盛の段だけが好きで、自らも舞い謡ったのだ。
信長が小姓の一人に耳を寄せ、口を扇子で隠して囁いた。
「敦盛はいかがしたのじゃ」
「上様、しばしの辛抱を。この後壇ノ浦へと続き、敦盛の段になる手はず」
「であるか」
信長は満足そうに、二度三度と頷いた。
♪ 思へば、此世は常の住処にあらず
芳一の平家語りが続いている。
♪(仏)草葉に置く白露
♪(祇王と祇女)水に宿る月より猶あやし
信長が身を乗り出し、声を立てずに嬌声を上げた。
♪(芳一)金谷に花を詠じ
♪(祇王と祇女)栄花は先立て
♪(仏)無常の風に誘はるゝ
たたみ掛けるように芳一が謡った。
♪ 南楼の月をもてあそぶ輩も
芳一、仏、祇王、祇女が声を揃えて謡った。
♪ 月に先立つて、有為の雲に隠れり
信長が膝を立てて扇子を開いた。
♪(芳一)人間五十年
信長は堪らずに立ち上がって舞い、唱和し始めた。
♪ 化天の内を比ぶれば
信長も信長の家臣も、芳一も、白拍子も平氏の公達も声を合わせて唱和して
いる。
♪ 夢幻のごとくなり
信長がトトンと床を二度踏みならした。
舞台の三人の白拍子がそれぞれ信長に応えた。
ドンと大きく踏みならす仏。
トンと祇王、トトンと祇女。
♪ 一度生を受け 滅せぬ物のあるべきか
明智軍は、久御山(くみやま)の木津川畔で夜食を取っていた。、
休憩していた分けで無く、黒鍬部隊が木津川に浮き橋を築くのを待っていた
のだ。
「まだか。早くしろ。夜が明けるぞ」
火が急かした。
「大将、こんな川騎馬なら渡れましょう」
「うむ。渡るか」
その頃、明智軍は隊毎に集められていた。
「者ども良く聞け。敵は本能寺に有り」
利三が大音声で呼ばわった。
「我が殿が、仏敵、平氏の信長を討って、土岐源氏の光秀様が征夷大将軍に成
るのだ。この戦を命の限りに励め、子々孫々にまで語り継がせよ」
と、眼光鋭く一同を見回す。
「怖じけるな、臆病風を吹かした輩はこの利三の槍の錆にしてくれん。よい
か、此より鬨の声を上げる。ウオーッ!」
将兵は皆利三に応えて雄叫びを上げた。
鬨の声は明智全軍に伝番していった。
木津川堤の火が騎馬に一鞭呉れた。
「我に続け!」
ザンブと木津川に馬を乗り入れる火、三百騎も我先にと続いた。
赤揃いの騎馬隊が川の中頃に差し掛かった頃、浮き橋が完成した。
勇んだ明智軍将兵が橋に殺到した。
火と武田残党が岸に勢揃いした時、また殿軍に成っていた。
「おのれ、者ども遅れを取るな」
気を取り直した火が、馬に激しく鞭を飛ばした。
丑三つ時、芳一の寝所に林が忍んで来た。
芳一に躙りよる林が思わず膝を止めた。芳一が見ていたからだ。
芳一は眠れずにいたため、林の気配を悟っていた。
「法師様、ここは直に戦場に成りまする、巻き込まれぬ内にお逃がし致しま
す」
林は芳一を抱えるようにして本能寺の外に連れ出し、待たせてあった籠に乗
せ、丹波屋に送り届けた。
芳一をヨシとヨシコに託した林は、本能寺にとって返した。
「法師様、よくぞご無事で」
居間で親子の対面が果たされていた。
「お兄様、優しいお兄様、わたくしに眼を下さったお兄様」
「それでは矢張り」
「妹のヨシコで御座います。これからはお兄様の眼となって、ご恩に報いて生
きて参ります」
妹の言葉で全てを悟る芳一、見えぬ眼乍ら、両の腕で母と妹をしっかりと抱
きしめた。
本能寺は蟻の出る隙間も無い程、明智の軍勢で取り囲まれていた。
だが、物音を立てる者は一人としていなかった。
本能寺は三姉妹によって丸裸に為れており、雑兵の一人一人に至るまで頭に
たたき込まれていた。
皆、光秀の采配が振られるのを固唾を飲んで待っていた。
「ソレッ」
光秀が遂に采配を振った。
一斉に鬨の声を上げて、塀に梯子を掛け、よじ登った将兵が境内に雪崩れ込
んだ。
時ならぬ鬨の声に、織田の侍は跳ね起き、雨戸を蹴破って面に走り出た。
なんと、水色桔梗の光秀の旗印で取り囲まれているではないか。
鉄砲隊の一斉射撃にバタバタと倒れる織田侍。
一人が信長に報告する為に寝所に走った。
唯ならぬ気配に、信長は寝具の上に跳ね起きた。
十人程の近習達が駆け寄ってきた。
「上様、謀反に御座います」
「であるか、して・・・?」
おっとり刀で駆けつけた侍が叫んだ。
「水色に桔梗の紋」
「であるか。是非も無い」
信長は単衣の上から永楽銭の柄矢筒を襷に掛け、弓を抱えて寝所を駆け出
た。
廊下で蒼が控えていた。
「蒼、何をしておる。早く逃げよ、光秀奴が謀反を起こした。明智の兵ならば
女子供に害は及ばさぬ。いいか、達者で暮らせ、生き抜くのじゃぞ」
「承知仕りました」
左の衽(おくみ)を上に出して単衣を羽織っていた風は、不思議な事が有ると
思っていた。謙信公と同じ言葉を信長が残したからだ。
蒼は右の掌で懐の小判が縫い付けられた守袋を確りと掴んで、左手で腹を押
さえた。
蒼は立ち上がり様に単衣を一気に引き裂いた。
蒼揃いの忍び衣装の風が現れた。
風は長い髪を結い上げ、額に蒼い鉢金の鉢巻きをキリリと締めた。
萌葱の林が駆け込んで、風の左に並んだ。
騎馬の火が襖を蹴破って登場した。
騎馬から飛び降りた火が、くるりと回転をして、これまた林の左にすっくと
立ち並んだ。
蒼の風、萌葱の林、真紅の火が勢揃いした。
信長と近習達は獅子奮迅の活躍をしていた。
信長の矢は確実に明智の将兵を貫いていたが、多勢に無勢、次第に近習達が
倒されていった。
「上様、最早これまでで御座います」
「であるか」
信長と四人の近習が寝所に駆け戻った。自害をする為だ。
寝所に駆け込むと、光秀と光晴が次の間に控えていた。
「日向、でかした。じゃが後が大変じゃぞ」
「お後の事はこの光秀にお任せあれ」
光秀と光晴は片膝をついて死に行く信長に礼を捧げた。
矢筒と弓をかなぐり捨てた信長が太刀を手に取った。
「裏切り者」
四人の近習が一斉に光秀に斬りかかった。が、忽ちの内に光秀と光晴の刀の
錆と成り果てた。
見届けた信長が太刀を抜いて鞘を捨て、柄を逆手に持った。
天井から真紅の蝙蝠が飛び降り、信長の足を抱え込んだ。
堪えきれずにつんのめる信長に、火が罵声を浴びせた。
「自害などさせぬぞ、魔王奴」
又一羽の萌葱蝙蝠が飛び降り、信長の隙を見付けて手槍で突っ込んだ。
槍を腹に突き立てられた信長、今度は仰向けに倒れて行った。
背後に舞い降りた林が、背後から信長の身体を支え、耳元で囁いた。
「上様、蒼に御座います。恐れながら、あなた様のお命は、この風が頂戴致し
ます」
風は逆手に持った忍刀で信長の喉を掻き切った。
その時、轟音と共に寝所の天井が落ちてきて、信長もろとも三姉妹を排煙の
中に掻き消した。
思わず駆け寄ろうとする光晴を光秀が止めた。
「光晴、無用じゃ」
「信長の御首級を掻き出しまする」
「首などどうでも良い」
光秀の言葉で、光晴は渋々後に続いた。
光晴とて信長の首など欲しく無かった。が、本音は火が心配だったのだ。
硝煙の本能寺の夜が明けた。
朝焼けに燃え、粗方燃え尽くされた本能寺で本堂だけが無事な姿を見せてい
た。
その本堂の屋根に、三本の旗印がはためいていた。
永楽銭の旗を確りと持って佇む風。
毘の一文字を染め抜いた旗を掲げる林。
火は、風林火山の旗を翳していた。
「風よ、我らは向後如何にせむや」
林と火が風に問うた。
「林よ、あなたは法師殿を支えて生きて行くが良い。火よ、お前は光晴殿をお
守りするが良い」
「姉上は如何いたす所存?」
林と火がまた姉に問うた。
「わたくしは、甲斐の山奥に隠れ住む積もりです」
林が謙信の旗印を、火が信玄の旗印を風に渡して屋根から消えた。
三本の旗を抱えて確りと佇む風、零れそうになる涙を堪える為か、大空を仰
いだ。
そこには、何処までも紺碧の青空が広がっていた。
三界の夢・完 作・Gorou