ふとしたこと

日々に気づいたことを書きます

坂田師逝く

2010年10月25日 05時26分08秒 | 囲碁
この写真は、呉先生でも、坂田先生でもありません。

殺し屋、加藤正夫先生の睨みの写真です。オイラが一番好きな写真の一枚です。

昭和の最強碁打ちといえば、呉清源先生か、坂田師か?

これは判りません。というのは、呉先生に対する日本の碁界の扱いようは異常だったといわ

ざるを得ないからです。

要するに、読売新聞だったかが、他の日本人棋士との間で設定した十番碁以外では呉先生

は殆ど碁を打つ機会が与えられていなかった!!からです。

なんという扱いなのか?

そのときこそ、反日デモをすべきだった。しかし、国と国との関係が今とは違っていた。

当時の呉先生と他の日本人棋士との力の差は余りに大きく、打ち込み制の十番碁では殆ど

の棋士は先番以下に打ち込まれてしまった。

十番碁というのは、10局打って、先に4勝したら、次の十番碁の対局からはハンディキャッ

プを変える仕組みである。

「先番」まで打ち込まれた棋士は、呉先生に対して、黒番でありコミ無しの対局になる。

これは棋士にとって屈辱以外の何物でもないだろう。

そのくらいの差があったのは事実。

坂田師と呉先生の十番碁は、確か、一度は坂田師が打ち込まれたと記憶している。

二度目の十番碁では、坂田師はが、かろうじて打ち込まれるのを防いだと思う。

もし、呉先生の全盛期に日本人棋士と同じような対局の環境が与えられていれば、おそらく

殆どのタイトルは呉先生の下に集められたのではないか。

当時の呉先生と日本人棋士との実力差は、現代の韓国・中国のトップ・プロと現代の日本人

トップ・プロの差と良く似たものだったのではないだろうか?

だからといって、坂田師の値打ちが下がるものではないと思う。

読みの深さ、鋭さの点で囲碁界随一だったし、もし坂田師の全盛時に現代の韓国・中国のト

ップ・プロとが激突したとしても、坂田師が引けを取るとは思えないのである。

その大坂田も遂に亡くなった。寂しさもひとしおである。

オイラが初めて囲碁を覚えて、さらに強くなろうと思って手にした本が坂田師の定石本だっ

たのを思い出す。

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日本の囲碁が弱くなったといわれ始めて久しい。

これは、何も囲碁だけの話ではないと思う。

昭和30年代に見られた日本人の民族としての集中力・向上心は今や失われている。

これだと思う。

産業界でも、学問の世界でも、芸術の分野でも、日本人の失われた集中力と向上心を

取り戻すのは容易なことではない。

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かつては、こんな鋭い視線で相手を睨んでいた棋士もいたのに。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/kato/0504/ka_504_05040701.htm

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