その昔「ダイバーシティ」なんて単語をよく目にしたモノだが、今頃になって「多様性」と今度は日本語で耳目にする機会が増えた。
でもなんか「多様性」を都合よく使ってるな、と感じるのだ、押しつけっつーか。
なので自分たちにとって不都合な「多様性」だと、あからさまに非難する。
賛があるところ必ず否があるし(陰陽、ボケツッコミ、高低、貧富、有無などなど)、それが「バランス」である、というのが自分のすべてにおける考えの基本になっている(もちろんそれでもどっちかに傾いてはいるのだが)。
自分が初めて勤めた会社の社長が対人関係のことで、「構えてモノいうな」「折り合いをつけろ」というていたのを二十数年経った今ならよく判る。
西岡常一の本で、ケンカはするけどいい仕事をするためのもの、というのを読んで成程と思うたものだった。
でもそれは皆んなができることではないし、面と向かわずインターネットで簡単に発信できる世界ならなお難しい。
ならば、「多様性」を押しつけの道具にするのではなく、違いを知るための言葉として捉え、棲み分けるしかないのではないか、と常々思うてるわけである。
しかしそれはそれで、ほっとけない連中が棲み分けの国境線で争うだろうし、「分断」という単語を使いたがる奴もいるんやな・・・