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難しい地名

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ポル・ポト政権とは何だったのか

2019-07-29 12:03:56 | 日記
記忘庵日誌2019・7・19荻野源吾
ポル・ポト政権とは何だったのか?!―人間の弱さを思う(人間理性の覚書)
ポル・ポトの本名はサロト・サルと言われる。しかしこれは定かでないとする説もある。それほど彼は表舞台に立たず秘密主義を貫いた。
「民主カンボジア」(クメール・ルージュ―赤いクメール=ポル・ポト派のこと。この政権はわずか4年―1976〜1979)はその政権前後数年間で150万人余の虐殺をしたと言われている。山岳でのゲリラ戦後首都プノンペン制圧、その後ヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)に追われて再び森のゲリラへ。ついに政権は倒れるも、そして多くの仲間の粛清や国民の虐殺にも関わらず、アジアのヒットラーとも形容された彼自身は1998年まで生き延びた。なんとも理解し難い数奇な運命。

その虐殺はどうして起きたのか。まことに考え得ない有り様である。
ポル・ポト派を構成する主要な閣僚はカンボジアの名門の出。フランス留学組も多く、当時シアヌーク国王とのつながりもあるエリート層である。
抗仏独立運動、共産主義運動が1930年ごろから始まり集団指導による革命を目指した。組織第一で知識層を排除し、都市から農村への国民大移動での農本主義の原始共産主義を徹底する中、王政から当初は純粋な祖国解放を目指し、「2000年の歴史で初めて人民が国家権力を手にした」と豪語した。しかしそこには悲惨な人民裁判、相互監視社会による制裁が待ち受けていた。首都南部にあった虐殺センター・ツールスレイン(S21と呼ばれた)の獄吏は多くは子どもであったという。哀れ。なお現在の政体は「カンボジア王国」で制憲議会がある。
古代からの戦争史は別にしても、このポル・ポト時代の悲劇、ソ連のヨシフ・スターリンの130万を超す人民大粛清、アドルフ・ヒットラーのホロコースト(大虐殺関連の犠牲者は900万人とも)、そして中国の毛沢東の大躍進や文化大革命で2000万人近い人命が失われたことは歴史的事実として近代四大残虐事件の悲劇と言えよう。
骸骨の地図―ツールスレイン(現在撤去)
これらの事実は人間かくも崇高にも残忍にも変わりうることを証明している。そして人間は考える葦であると同時にきわめて動物的でもある。思想や叡知は今のところすべからく人間理性でコントロールされていない。{信仰}の範囲に。
人間は極めて弱いといわねばならない。そしてまだ歴史に学んでいない。悲しい存在でもある。しかしその克服の可能性を探っている。(参考―山田寛「ポル・ポト<革命>史 選書メチエ) 完

わが国は何時頃「国家」になったか

2019-07-05 00:28:54 | 日記
記忘庵日誌 2019・6・25 荻野源吾
わが国は何時頃から「国家」になったか?―国家の形成と「国家論」についての覚書
国家2000年の歴史はあっという間の出来事なり
「七五三論争」という古代国家形成についての論争があるという。
先日の大阪府立弥生文化博物館での館長継承記念講演会で学んだ。(2019・6・22)黒崎直前館長は「我が国の国家としての成立は、律令制度―飛鳥・藤原宮」に始まると明快。禰宜田佳男新館長は弥生時代の考古学の知見から三世紀ごろの社会変動を重視するという立場を打ち出した。つまり弥生時代。さすが新館長、しっかりと弥生をアピール。国家が成立するためには「国家論」的に見て、血縁社会を超えて階級社会となり、首長制社会を超えての中央政府が存することなどが歴史的に証明されなければならないという。
その意味で弥生時代はH.クラッセンの言う初期国家に当たるのか。黒崎氏は地方首長を介して、中央政権が間接的に支配する5・6世紀を初期国家と規定し、3・4世紀、つまり弥生時代は、首長の支持・連立による中央政権が存在していたが「未熟国家」として規定した。やはり日本での国の始まりは弥生か。
七・五・三論争とはつまり、三世紀、倭国女王卑弥呼から壱与の時代、五世紀巨大古墳時代(履中・反正・充恭・安康・雄略の倭五王時代)、そして七世紀の律令国家への歩み。どの時代に日本の国家像が成立したかの論争なのである。黒崎氏は巨視的にみてそれぞれを未熟国家、初期国家、成熟国家と規定する。
国家成立のもろもろの条件、大王から天皇、条坊制などの都、瓦葺宮殿,居館の姿・形、墓のかたち、埋葬の副葬品などからみて三世紀に一つの大きな国家形成の社会的変化がみられるというのは禰宜田氏の論。
このことは例の邪馬台国論争とも重なる。邪馬台国九州説、大和奈良説。
両者とも圧倒的に大和説を支持しているという。しかし今のところ、特に考古学的に論証できるものが近畿では貧弱であり、この大和説を裏付けるには至っていないという。唯一纏向古墳が手がかりか。文献史料的には魏志倭人伝ではなく、随書倭国伝が大和説を実証しており、案外ことは簡単で倭国は大和であった可能性が高いと黒崎氏は主張する。今更論争の種にはならないと。
地球の歴史は137億年前のビッグバンから始まる。約46億年前地球が誕生。約2-5億年前の古生代を経て2500万年前人類の誕生、9万年前の旧石器時代から日本に人間が住み、そして縄文、弥生を経て国家の形成となる。今令和、皇紀2679年という。記紀神話の時代も併せての事である。ザクッとみて国家成立後わずか2000年の歴史。人生100年時代、これは短いのか長いのか。そして今や国際社会。「国家」越えの時代を迎えつつある。了

殄戮・揷鞋・葱華輦―読めますか?―ドナルド・キーン「明治天皇」

2019-06-16 17:18:29 | 日記
記忘庵日誌 2019・5・20 荻野源吾
殄戮・揷鞋・葱華輦―読めますか?―ドナルド・キーン「明治天皇」
私には全く読めません、書けません。こんな漢字がやたら出てくる。
ドナルド・キーン著で角地幸男訳の「明治天皇」2001新潮社。当時「そんな本を書いたら袋叩きにあうよ」と忠告されたが何の反応もなかったので拍子抜けしたとキーン氏が語ったとインターネットに書いてあった。
殄戮(てんりく)(殺し尽すの意)揷鞋(そうあい)(わらじ)葱華輦(そうかれん)(天皇の行幸の乗り物・乗輿)(ネットでは、てんろく・そうがい・そうかぐるま、とルビ打ちされて出てくる。念のため広辞苑に当たると前述のルビのごとくである。本著も当然そのようになっている。さすがのネットもこんな難解な字には手が出ない。不正確。)
昔の日本人が漢文調を難なくこなした時代から、当用漢字になって漢字の馴染みが無くなったので当然であるが、それにしてもニューヨーク生まれの外国人の著した日本文化の英語版が日本語に翻訳されている著作物から、漢字を紐解かれるとはいかにも不思議な気分になる。よく日本人以上に日本人らしいと言うが、まさにキーン氏はその代表。「キーン氏が新天地を見せたのは2001年、79歳で刊行した評伝『明治天皇』である。上下2冊合わせて1000ページを超える大著だ。」(河路 由佳) 読むのも大変なのにいかに「明治天皇紀」など下地があるにしても困難な漢字交じりの文献をこなすキーン氏に驚嘆。
新潮社版・上巻を読んでいてふと思い当たることがあった。「カラカウア王ご一行様」の章で、おしのびで漫遊中のハワイの王が天皇と極秘会談して、「アジア諸国の連盟」を呼びかけるため日本がイニシャティブを取ることを勧められたが、当時の状況では無理だと断ったことが書かれていた。この時明治天皇は青年期に達し、今までとは一段と成長していったとも。これがやがて日本が日清・日露の戦争、そして八紘一宇の精神の軍国日本に繫がる下地が描かれていったのではと推測される。当時から天皇は軍事訓練の閲兵にも熱心であったと。
キーン氏(鬼怒鳴門)は浄瑠璃三味線奏者のキーン誠己氏を養子に迎え、日本に帰化し
2019年2月24日朝、心不全のため東京都内の病院で死去されました。享年96歳でした。
キーン氏が、日本文化に卓越した知識を持ち古来からの日本の精神を理解する力を持った貴重な存在だけに、単に心酔するだけでなく主権在民と象徴天皇の矛盾を克服するため今一歩時を進めて、立憲君主制(議会制君主制)からどうして尊皇共和制(日本の歴史遺産としての天皇家の存続と議会制民主政治の峻別)への移行を唱えてくれなかったかと残念でならない。「象徴天皇」を時の権力者も国民の側からもご都合主義で利用しないために。かつ天皇家の自主独立と人権の尊重のためにも。今のままでは国民や議会の奴隷で「人形の家のノラ」か。完

注 尊皇共和制―憲法から象徴天皇規定を外し、新たな皇室範典を制定し
日本における歴史的遺産である皇室を維持する。よって皇室の自主
独立を図る。天皇家として自由に存在することとする。
国会は国民の主権による民主主義による議決権を持つ民主共和制と
し天皇制と分離する。

時の権力者や国民双方からの天皇制の政治的利用を阻止する統治制度。
よって天皇家の人権の確立。政治的自由の確立。




令和の時代予測

2019-04-02 10:33:45 | 日記
記忘庵日誌 2019・4・2 荻野源吾

「令和」の時代の未来予測
昨日4月1日、新天皇即位一カ月前、新しい元号が示された。「令和」
一瞬私の頭には「冷」や「命令」などのことばがよぎった。デープ・スペクター氏(放送プロデューサー)も「悪くないけど、響きが良くない。令は命令の令だし、冷めたい雰囲気がある」と同じようなことを指摘していた。(4月2日付 朝日新聞) 一方で瀬戸内寂聴氏(作家)は「響きがよく、綺麗に聞こえる」といい、内田樹氏(思想家)は「『落ち目』の局面で、政権がマスコミに露出して政治ショー化した。」(同紙)と指摘している。少なくとも磯田道史氏(歴史学者)の指摘する「和に令す」との読み方(日本に命令する)での上から目線の号令で有ってはならない。

「昭和」はまさに戦争の時代であった。「平成」は戦争こそなかったが災害の時代であった。阪神大震災に続き東日本大震災ほか自然災害の続発。天災によるものだけでなく原発事故は人災デアリ、戦争のような悲惨な人災は被けられたが、その一歩手前まで進んだ。集団的安保への改定、そして安倍首相の自衛隊明記という邪道での憲法改悪案の提示。つまり元号の暗示する意味はまさに逆説的意味合いがある。「平成」で有ろうとして「平静」ではなかった。

ならば「令和」はどうか。「気よく風和ぎ」の願いと別に何故か「突風」「攪乱」の風のにおいがする。悪い予感ばかりでなく、場合によっては突然の歴史的転換も予測しうる。
象徴天皇制についても「尊皇共和制」移行もあり得るかもしれないし、核戦争回避の方向もほぼ現実化するかも。かわってサイバーテロやAIの人間抑圧の強化による不安も増大するかも。

いずれにせよ瀬戸内氏の言うごとく「世界の平和」「人間の幸せ」考える時代であってほしい。そのためにも内田氏の言うごとく「五輪、万博、カジノといったプロジェクトで無理やり経済成長をめざす道を捨てて、この豊かな資源を大切にする穏やかな生き方にシフトするべきだ」という考えが国民に広くいきわたる時代になってほしいと願わずにおれない。以上

堺屋太一論

2019-02-19 09:39:12 | 日記
記忘庵日誌 2019・2・14 荻野源吾
世のなかを引っ張る人―そして引っ張られる人たち・堺屋太一論 
                                      朝日新聞 2・11夕刊
 堺屋太一(本名池口小太郎)さんが亡くなった。(2019・2・8 享年83歳) 
作家で経済評論家と言われるが政治にも関わり、また「万博人生」と言われるほど70年の大阪万博や75〜76年沖縄海洋博、90年の花の万博、そして2025年の大阪万博などに関わり続け、稀有な行動力で世のなかをけん引してきた先見性のあるマルチ人間であった。いわば社会のご意見番でもあった。こういう人を俗にオピニオンリーダーという。私が堺屋太一を一番意識したのは「団塊の世代」という言葉。そうだ「巨人・大鵬・卵焼き」も彼のことばであった。石油ショックの「油断」の作品も。

 奈良県御所市の図書館は私の家から車で15分の距離でよく通っている。なぜここに堺屋太一の常設展示があるのか、大阪生まれのはず。なるほどその縁は、父の実家で疎開先であったか。本の寄贈も。またすぐ近くの長柄の古い郵便局は記念館になっているが「ひとこと」(一言主祈願)の「郵便はがき」作品募集で最近脚光を浴びている。私も二回ほど応募した。堺屋さんも選者の一人。こんなことが何となく最近堺屋太一を身近に意識するきっかけとなった。そして考えてみると戦後世代はこのオピニオンリーダーに大きく依存してきたことが解る。

 47〜49年生まれのベビーブーム世代、少子高齢化を予測した「団塊の世代」や「平成三十年」も時代を先取りした小説であるが、私は「知価革命」という言葉に情報化社会を示唆した彼の素晴らしいセンスを称賛したい。「情報の価値」が如何に21世紀を席巻するかという時代の先取り感にゾクっとした。
 惜しい人がまた一人鬼籍入りしてしまった。彼は通産官僚でもあったせいか、世のなかを経済の面から眺め、如何に強い社会をつくるかに関心が高かったようだが、もう少し長生きして2025年の大阪万博やIR(統合リゾート)開発の結果や平成後のバブルははじけないかの予測が聞きたかった。

 一方で「団塊の世代」とひとくくりされた結果、この世代に生きる人達が何となく覇気を失くしたのではないかという気もする。失われた十年とか。
 いずれにせよ彼はまさに世の中を引っ張ってきた人である。われわれは彼の言葉に引っ張られてきたとも言える。完 (福祉analyst)