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難しい地名

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アニメの世界

2021-02-03 22:06:45 | 日記
記忘庵日誌 2011・1・16 荻野源吾
アニメの世界
 今、テレビ「アニメわしも」を見ている。音楽コンクールをテーマにしたアニメ番組を見ながらこれを記している。(2021・1・16・NHK・BS)
 予てより今日の若者が「アニメ」にこれほど夢中になるのかがずーっと疑問であった。アニメ作品で有名な「千と千尋の神隠し」のイメージの一つ舞台となった台湾の仇品を尋ねた時も、また最近の京都のアニメの製作所が襲われた事件が世間に衝撃を与えたことを思いながら考え続けてきた。

 いろいろ吟味した結果、アニメの流行り、魅力は「脱自然下の流れの中での現代言語」と言うことができるとの私の解釈である。その良し悪しは別である。
アニメの世界
 昔人は印刷技術の進歩と共に「紙に書かれた本」に親しんできた。そして絵本にも。やがて挿絵や漫画、写真もそれらのBOOKに収められるようになった。
 現在では、アニメやいろんな動画、3Dの世界立体映像の世界や5Gデジタル等その記録・伝達映像社会は日進月歩である。
 しかし私はナマの自然ほど迫力ある現実はないと思っている。 
 そんな昔人間からすれば、今日の映像文化の世界の疑似映像はついていけないのは当然となる。

 つまりアニメではもともとの自然素材を加工して、マンガを基にときにアンドロイドや人工物などの映像を用いて、人間の感性に訴えようとしている。
 アニメの表現は、絵や音楽、人工映像、文章や語りなど多彩な素材で多角的に物語を構成して視聴者、読者に訴えている。
 その点今の処、BOOKによる読書は単線的である。たとえ絵を立体的に付しても、写真でイメージ化してもその大部分は自己イメージで補うしかない。つまりその文章から受け取るメッセージを基に「イメージを最大化する」ことにある。
 アニメは動画を見て、音楽を聞いて、その場で立体的に分かり易く自分の目と耳と心に響かせることが可能である。しかし如何にその感性を働かせても、その自己イメージの幅は限定的にならざるを得ない。

 その直截な分かり易さ、つまり簡明さからいってアニメは素晴らしい。
 しかしその感銘度は限定される。小説や長文の詳細な論や解説などの本の読書による感動には及ばないと考えられる。イメージの最大化こそ人間の想像力。
 
 全て世の中は今、この省略とわかりやすさのもとの単純化に流れていく。完

パンデミックー新型コロナウィルスの教えるもの

2020-04-20 17:28:23 | 日記
記忘庵日誌 2020・4・1 荻野源吾
パンデミック―新型コロナウィルスの教えるもの
 東京都小池知事は「本日新たに74名の感染者がありました。今までの最大です」とテレビの前で語っていた。(2020・3・31) 確かにここ二、三日40人前後であったが、ここに至ってまた倍増した。所得倍増なら歓迎すべきだが。
密集、密閉空間、密接の「三蜜」がアウトブレイク(集団発生・突発的発生)の原因だと言われている。
それにしても世界的なこの新型ウィルスの蔓延は感染の拡大と共に、日々新たに耳慣れない「ことば」を世に送り出している。曰くパンデミック(世界的大流行)、クラスター(cluster・感染者集団)、オーバーシュート(感染爆発・爆発的増加)、ロックダウン(都市封鎖)、ソーシャルディスタンス、PDE(個人防護具)、N95マスク、サージカルマスクなどなど。 (フランスでは毎日四千万枚必要と言う。またパンデミックはエンデミック{地方病}、エビデミック{流行}を経てパンデミックへの三段階に到ると言う。) 新型コロナウィルスの正式名称は、SARS-COV-2と言う。(国際ウィルス分類委員会―ICTVであり、SARS-COV-2、つまりサーズの類縁疾患である。感染症名はCOVID-19。) 日本では1月25日、最初の患者が香港で下船したというクルーズ船が横浜港に回航して、2月1日その時感染患者がピークに達したことよりことは事大化した。(何と乗客・乗員3713人の内700人を超える人に蔓延した。五分の一の感染率で驚きであった。) そもそも武漢での感染がその発祥だとの説で、「武漢ウィルス」とアメリカでは非難している。
その症例はインデックス・ケース(index case・初期症例)からはじまり第四次に亘る。(感染率は、はしかで12-18、インフルで2-3、に比べると1.4-6.49と比較的低いといわれているが。) じわじわとしかも陰性と判断されたものも感染者になり得たりとこのウイルスは賢い。(人類はウィルスによって亡びるとの予言はまんざら嘘ではない。「清潔」を旨とする文明国の生活の落とし穴。文明の隙間を狙う。) 「ウィルスとは生物と無生物の間。そして自己複製だけをしている利己的なものでなく利他的存在である。宿主側が積極的に招き入れる。」(福岡伸一)とすると人間の地球破壊・自然破壊への警鐘と捉えることは決して的外れではない。
 人混みへの出歩きは気が引ける。昨日も散歩のとき或る外食店で食事した時、威勢のいい若者集団が来た。皆なマスクしており、京産大のことも話題にしていた。若者も注意しかけている。私はそそくさと早めに食事を済ませてその場を抜けた。今や元気な若者集団が脅威で、こちらは高齢で持病もあり感染には格好の餌食だ。まさかこの歳でこんな世界的なウィルス蔓延を体験したり、オリンピック延期に遭遇するとは思わなかった。今や感染者が40万人を超えた。了
追記 2020・4・7―7つの都市に緊急事態宣言が発出される。4・20現在 世界の感染者233万人

デジタル・ツゥー(通信革命の行き着くところ)

2020-04-13 17:48:06 | 日記
記忘庵日誌2020・4・13荻野源吾
デジタル・ツゥー (通信革命の行き着くところ)
「デジタル・ツウー」って何のこと。さっぱりわからん。
その通りですね。つい最近までバーチャルリアリティー(仮想現実)なんて言っていましたが。その「仮想現実」が現実的に浮かび上がってきました。
今やAIの通信技術の進化によってスマホなどの情報から個人の情報が集められいつの間にか本人そのものの姿が現実として映し出されるという。ここには個人のプライバシーはもはやない。そんな世界に世界の個々人は突入しつつある。
つまり本人と直接の接触はなくても、本人の姿が浮かび上がり、その人がいつどこで誰と逢ったとか、その人の好みとか将来の生活まで予測してみるという驚きの技術の革新である。もはや人間の普通の感覚では理解できかねる革新の実現。本人の記憶で忘れていたことまで正確な記録として再現されるのだから人間の記憶をも凌駕する。つまり「デジタルの世界でもう一人の自分が浮かび上がる」と言うのがデジタル・ツウーなのである。
スマホは便利。しかし引き換えに個人のプライバシーは無くなる。今や世界は、防犯カメラやマイナンバーやスマホの位置情報や、あらゆる通信、ネットで結ばれている。これが情報化社会での通信革命による今日の世界の姿である。思えばグーテンベルグの印刷術が開発されて以来、鉄筆からオフセット、コンピュータでの印刷へと、そしてパソコンなどのメールでのやりとりへと進化してきた。今や世界は一つ。しかしそれだけに個人は個人でなくなっている。と言うか個人を見失いつつあり、人類は生物の中で孤立しつつある。自然崩壊。それが今回の新型コロナウィルスの蔓延。技術革新は善にも悪にもつながる。そろそろ何が人類にとって必要な情報か、そして何を科学の悪弊から守るべきかの基準を設ける時が来た。
少なくとも個人を守る情報基準と世界の平安、防衛のためにだけ資する情報ネットの構築に向けて世界的なインターネット基準が早く設定されることを願いたい。
デジタル・ツウーで感激している場合ではない。しかし大方は便利さに押し流されそうだ。怒涛のごとき「便利さ」信仰から脱皮して、人間の「ホモサピエンスから、ホモエクセレンスへの革新」(桐山靖雄)が期待される。
それには、デジタルな技術とは別方向の人間の身体鍛錬、つまり生理・神経系の鍛錬による人間革命が要ると考えられています
。完

ヒノキの枝の粘りー二年余りも枯れ枝でもぶら下がり落ちない不思議 これに比べ人間のもろさは如何に。

肥った豚

2020-03-17 23:12:27 | 日記
記忘庵日誌 2020・3・4 荻野源吾
肥った豚
今日(2020・3・4)やっと九年ぶりに双葉町の一部地域での避難指示の解除がなされた。ようやく帰還可能となった。2011・3・11の東日本大震災と原発事故での最後の避難指示区域であった。
これで元の生活に戻れたとして今や時の流れは昔の倍で二十年ぶりの故郷への帰還との実感で、これがどれだけ歓迎され喜ぶべきか。イマウラシマである。ある意味で全くの新天地での再スタートとなろう。この間の苦労・苦悩は? 誰が償うのか。人生100年とはいえ、この分断は無常。地震や津波で家族の死にも直面した人も多い。そこに放射能と言う目に見えぬ敵である。
自分の意志とは関係なく強制移転。就労など突然に生活が激変し、往年の土地での生活の権利が奪われることは許されることであろうか。いくら生活保障されたとしても。これら突然の日常の破壊について私は愕然とすると同時にその人たちの苦難に身の毛のよだつ思いがする。

 作家の門田隆将氏は朝日新聞の「所長命令に違反 原発撤退」の記事は「意図的なねじ曲げの記事」で「スクープは従軍慰安婦虚報と同じ」とキャンペーンを はり、朝日に脅かされながらも真実でなかったことを明らかにした。
現場取材と粘り強い闘いで、「吉田調書」を読み解く中、当時の福島第一原発事故の吉田昌朗所長の名誉を守った。 朝日は、不都合な個所を隠し恣意的にさも吉田氏が言ったかの如く事実を曲げ、当時現場で苦悩していた関電の社員にあらぬ誤解を招くことになったと指摘した。記事は事実確認よりイデオロギーや思いこみによって導かれたと結論付けた。この門田氏の主張は認められた。朝日新聞社はまたしてもの失策。大マスコミ相手に、一人のjournalistとしての意気込みとその努力には圧倒される。
 また政府事故調の調書から当時の菅首相が現地に乗り込んでの狼狽ぶりや【全員撤退】との東電側の進言による混乱についても、「原発・東電・東電社員=悪」の構図があったと断罪している。

こうした門田氏の指摘は概ねうなずけるにしても、少し当時の東京電力の首脳陣を援護し過ぎではないかと思う。(門田隆将「吉田調書」を読み解くー朝日誤報事件と現場の真実 PHP 2014・11・28)
 吉田所長が免振棟近場の放射能の薄い付近に避難と言ったことが伝言ゲーム的になって結果福島第二原発(F2)に行ってしまったことが、一時避難でなく「所長命令違反」と捉えられたことの経緯や、菅首相の怒鳴り込み、政府が全員撤退と一部要員を残しての撤退との誤解は、当時の混乱した現場事情から容易に察せれる。問題はそれほど未曾有の体験で「東日本破壊」が予測されるほどの危機に瀕していた事実である。当時の東電清水社長以下本部対応こそ責められるべきか。そして安全神話の国策こそ問題。(このエッセーを認めた後、池澤夏樹氏の「フクシマ現場の奮闘―偶然の生還」の記事をまさに偶然発見した。2020・3・4朝日新聞「終わりと始まり」)

今や原子力発電は核開発の研究につなげる意味においてか日本政府の国策となっているが、それにしてもこの火山列島に30基も40基も超える原発が果たして必要なのか。
        
ブルーシートで覆われた野積みのままの汚染土 各地に大量あり 被災四年目

 「できるだけ早いうちの廃炉」にせよ(国民民主)、「すみやかに」(立憲民主)にせよ、いずれ2030年代には自然エネルギー、代替エネルギーに変換が可能となる事態に入る。火力発電などの脱炭素化の研究も進んでいる。他の野党も廃炉の方針は変わりない。やがて国策としての原子力産業・原子力村・「原子力は明るい未来のエネルギー」を掲げる町おこしはもはや過去のものとなろう。
ぶくぶくと不自然に化学肥料で肥った豚は誰も食べたくないはず。どんなに都会や企業の電力需要に応じるにしても、その人類の進歩は「科学」と言う迷信に汚染された人間生活の破壊につながることを意識しなければならない。そんな犠牲を払ってまで人間は進歩や便利さにあこがれてはいけない。もっとゆっくり歩もうではないか。
そのことを福島の震災と原発事故は教訓として示している。「人類よ 目覚めよ」である。こうなると池田大作氏(創価学会)の「人間革命と世界平和」、桐山靖雄氏(阿含宗)の説く「人類」(ホモサピエンス)から「叡知ある人」(ホモエクセレンス)への更なる「人間革命」が必要となってくる。まさに「ワイロはダメ。ハイロだ 廃炉だ」= 「ワハハで行こう」と言うべきである。完

阿含の星まつり

2020-02-18 12:38:55 | 日記
記忘庵日誌 2020・2・15 荻野源吾
阿含の星まつり
 阿含の大護摩は神仏両界護摩壇(仏界壇と神界壇)といわれ二つの巨大な護摩壇で供養が為されている。この日、冬の空に舞い散る小雪の花と柴燈護摩のどす黒い紫煙とその中から沸き立つ赤い炎。まさに心霊を揺さぶる荘厳さが京都東山にみなぎる。(2020年は2月9日、例年は2月11日に実施されている)

 世界平和や願い事を祈る「神界」と先祖供養の「仏界」、その人の運命の星と運気の星の幸運をいのることからこの火祭りは「星まつり」と言う。
 その舞台装置には東山の山科北花山(きたかざん)の全山が格好の場所を提供している。
護摩供養を見下ろす広場の回遊式通路から大黒天広場、ブータン広場や総本殿に通ずる徒歩10分の山頂周遊は、自然散策もかね見事な祈りの世界を構成している。西の叡山に負けるとも劣らない環境である。
     
京都駅からのピストン運転のバス、当日ゴマ木を求める人、護摩だきを補佐する二千人近い山伏姿の信徒の群れ、会場を訪れる各国の参観者など数万人が訪れており、商魂たくましくお山は終日の賑わい。 
 
 僧侶の読経、神官の祝詞、山伏の問答、祝い踊りと太鼓、次つぎ続く儀式。そして恵比寿大黒天もあり、何でもありのまさに神仏混淆である。それにしてもここでこんなに大勢の山伏に逢うとは想像していなかった。女性や御子達の山伏も多い。真言・密教系の山伏と言う。この人数は醍醐系や高野山系を凌駕している。

 しかし私がこの阿含の星まつりに惹かれたのは、このようないわば現世的なイベントによるものではない。
阿含宗開祖の桐山靖雄氏の密教論であった。意識と無意識(末那識・阿頼耶識)、霊的世界を説く彼の宗教論は一つの宗教、宗派を超えた人間科学論である。(なお阿含宗のもとになる阿含経は釈迦自らが説いた唯一の経典とされる。従って仏教の原理に直結している。)



 霊的な世界に目覚め、チャクラ(内分泌・生理・神経系統)の活性化など人間修行と鍛錬を重ねて個々人の人間性を改造しなければ、世界は真の平和に到達しないとの人間観。その通りである。ここにはキリストや仏陀、マルクスとフロイド、トインビーやガンジーなどが全て包摂される。
霊的世界に目覚めホモ・サピエンスからホモ・エクセレンスへと人間改造を目指す哲学。(社会観、歴史観ともあわせたスケールの大きな彼の人間性への追及は悟りへの達人の一人としての執念であった)これは身をきざんでの厳しい護摩供によって鍛錬されてはじめて到達した止観であった。(彼の密教論は空海、覚鑁に継ぐ第三の先哲阿闍梨の人とも言われている。残念ながら94歳ですでに四年前に他界される。― 参考 桐山靖雄 「密教」 平河出版 1972)