記忘庵日誌 2011・1・16 荻野源吾
アニメの世界
今、テレビ「アニメわしも」を見ている。音楽コンクールをテーマにしたアニメ番組を見ながらこれを記している。(2021・1・16・NHK・BS)
予てより今日の若者が「アニメ」にこれほど夢中になるのかがずーっと疑問であった。アニメ作品で有名な「千と千尋の神隠し」のイメージの一つ舞台となった台湾の仇品を尋ねた時も、また最近の京都のアニメの製作所が襲われた事件が世間に衝撃を与えたことを思いながら考え続けてきた。
いろいろ吟味した結果、アニメの流行り、魅力は「脱自然下の流れの中での現代言語」と言うことができるとの私の解釈である。その良し悪しは別である。
アニメの世界
昔人は印刷技術の進歩と共に「紙に書かれた本」に親しんできた。そして絵本にも。やがて挿絵や漫画、写真もそれらのBOOKに収められるようになった。
現在では、アニメやいろんな動画、3Dの世界立体映像の世界や5Gデジタル等その記録・伝達映像社会は日進月歩である。
しかし私はナマの自然ほど迫力ある現実はないと思っている。
そんな昔人間からすれば、今日の映像文化の世界の疑似映像はついていけないのは当然となる。
つまりアニメではもともとの自然素材を加工して、マンガを基にときにアンドロイドや人工物などの映像を用いて、人間の感性に訴えようとしている。
アニメの表現は、絵や音楽、人工映像、文章や語りなど多彩な素材で多角的に物語を構成して視聴者、読者に訴えている。
その点今の処、BOOKによる読書は単線的である。たとえ絵を立体的に付しても、写真でイメージ化してもその大部分は自己イメージで補うしかない。つまりその文章から受け取るメッセージを基に「イメージを最大化する」ことにある。
アニメは動画を見て、音楽を聞いて、その場で立体的に分かり易く自分の目と耳と心に響かせることが可能である。しかし如何にその感性を働かせても、その自己イメージの幅は限定的にならざるを得ない。
その直截な分かり易さ、つまり簡明さからいってアニメは素晴らしい。
しかしその感銘度は限定される。小説や長文の詳細な論や解説などの本の読書による感動には及ばないと考えられる。イメージの最大化こそ人間の想像力。
全て世の中は今、この省略とわかりやすさのもとの単純化に流れていく。完
アニメの世界
今、テレビ「アニメわしも」を見ている。音楽コンクールをテーマにしたアニメ番組を見ながらこれを記している。(2021・1・16・NHK・BS)
予てより今日の若者が「アニメ」にこれほど夢中になるのかがずーっと疑問であった。アニメ作品で有名な「千と千尋の神隠し」のイメージの一つ舞台となった台湾の仇品を尋ねた時も、また最近の京都のアニメの製作所が襲われた事件が世間に衝撃を与えたことを思いながら考え続けてきた。
いろいろ吟味した結果、アニメの流行り、魅力は「脱自然下の流れの中での現代言語」と言うことができるとの私の解釈である。その良し悪しは別である。
アニメの世界
昔人は印刷技術の進歩と共に「紙に書かれた本」に親しんできた。そして絵本にも。やがて挿絵や漫画、写真もそれらのBOOKに収められるようになった。
現在では、アニメやいろんな動画、3Dの世界立体映像の世界や5Gデジタル等その記録・伝達映像社会は日進月歩である。
しかし私はナマの自然ほど迫力ある現実はないと思っている。
そんな昔人間からすれば、今日の映像文化の世界の疑似映像はついていけないのは当然となる。
つまりアニメではもともとの自然素材を加工して、マンガを基にときにアンドロイドや人工物などの映像を用いて、人間の感性に訴えようとしている。
アニメの表現は、絵や音楽、人工映像、文章や語りなど多彩な素材で多角的に物語を構成して視聴者、読者に訴えている。
その点今の処、BOOKによる読書は単線的である。たとえ絵を立体的に付しても、写真でイメージ化してもその大部分は自己イメージで補うしかない。つまりその文章から受け取るメッセージを基に「イメージを最大化する」ことにある。
アニメは動画を見て、音楽を聞いて、その場で立体的に分かり易く自分の目と耳と心に響かせることが可能である。しかし如何にその感性を働かせても、その自己イメージの幅は限定的にならざるを得ない。
その直截な分かり易さ、つまり簡明さからいってアニメは素晴らしい。
しかしその感銘度は限定される。小説や長文の詳細な論や解説などの本の読書による感動には及ばないと考えられる。イメージの最大化こそ人間の想像力。
全て世の中は今、この省略とわかりやすさのもとの単純化に流れていく。完