社中、ある尊敬する先輩が、「聖餐のない礼拝なんて、、」と、ポロっとこぼした。私は聞き逃さなかった。で、私もそうなった。
事物についてはいずれでも、秀でた誰かがどのようにかいえば、ヒトはそちらへとコロッと傾いては転じる可能性がある。
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そして、くだんの彼は統一教会の信徒になった。一念発起して。まぁ、でも彼の自由だ。すすんで奇妙な異端者(”少数者”とはちがう。当然のことながら)になってしまうことへの制止、説得も及ばず効かず(苦笑)
聖公会の牧者は、祈祷書の朗読には韻を踏む。統一教会の先生ではどうか。毎週の聖餐式では、正規の聖書、祈祷書、讃美歌集がセットで供されるが、統一教会ではどうか。まったく不明。
だが、本流の本旨を拝借し、それを変革(曲解も含む)しては悪事を耕すのが彼ら、異端だ。はっきり言っておく。
汝、とって食しなさい これは私のパン 私の体である
汝、とって飲みなさい これは私のワイン 私の血である
盃を交わしているともいえなくもない解釈も可能(笑)