宮城県の放射線技師さんの会報に載っていた文から抜粋です。
-----仙台で働く同級生の彼女は、
石巻でお父様の介護のために自宅に戻っていたあの金曜日に津波に襲われました。
連絡が取れないまま職場の同僚たちが捜索に出かけ、
瓦礫に埋まった1階の部屋の中で12日後の23日に彼女とお父様はやっと発見されました。
「3月としては厳しい寒さのせいか遺体の腐敗等は全くありませんでした。
警察に通報して遺体の収容をお願いしましたが、
いつになるか分からないと言われ自衛隊を見つけて遺体の収容をしていただきました」、と
捜索に当たった彼女の同僚が教えてくれました。
彼女のお父様は目と脚が不自由だったことを後から知りました。
あるいは彼女は、最後までお父様を守るために、その場を離れなかったのではないでしょうか。
1階部分は瓦礫に埋まっていたものの2階には津波の痕跡はなかったことを聞いて、
熱いものが込み上げてくるのを抑えられませんでした。-----
-----その従姉妹の実家は名取市閖上の手前にあり、私の母の実家でもあります。
あの家々を押しつぶし田畑をなめ尽くして進んだ津波はその家の1階部分も水没させました。
幸いなことに家が流されることはなかったのですが、
自宅の周りは一面が押しよせた瓦礫で埋もれてしまったとのことでした。
瓦礫とともに人も流されて来ていました。
納屋の前では瓦礫に埋もれて白髪の女性が、
屋敷の東側入口付近には小学生くらいの男の子が、
南側境界付近には別の成人男性が息絶えていたことを聞くにつれ、
あのテレビ映像の津波の中にいったい幾つの魂が必死にもがき苦しんでいたのかと思うとき、
言い知れぬ無力感と心が凍りつくほどの絶望感を覚えました。-----
-----仙台の自宅の隣家のご主人からは、
家族の中で一人だけ生き残った高校生の女の子の話を聞きました。
親戚のその女子高生は家族とともに流された時の様子を次のように語ってくれたそうです。
「海水はヘドロ混じりの黒々とした重たい水で、身動きができなかった。
自分も含め皆がその黒い海水面に頭だけを出していた。
家族だけではなく沢山の人々が顔だけを出した状態で流されていた。
顔だけが幾つも浮かんでいた。
海面に浮かんだその頭が、顔が、しだいに遠く散り散りに離れていって、
私だけが残された」と。
その子の心に重たくのしかかり、いつまでも消えることのない家族の最後の記憶。
その話を聞いて、私はあふれ出る涙を止めることが出来ませんでした。
私達はその子にどんな言葉をかけることができるでしょうか。
この先、一生涯にわたって、その記憶を胸の奥深くに抱えて生きていかなければならないその子に
安らぎの日はくるのでしょうか。
テレビ報道が映す被災地や避難所で暮らす人々は健気にも前向きに生きてゆこうとする姿を見せています。
でも、その笑顔の裏側には、言い表すことができない程の悲惨な記憶を密かに抱えているのだということを
忘れてはならないと私は思っています。-----
もうガブさん泣けて泣けてしょうがないです。
あの震災の日に、すぐ近くで起こっていた事実なんですね。
こちらの省略されていない全文はネットでも読めるみたいです。
-----仙台で働く同級生の彼女は、
石巻でお父様の介護のために自宅に戻っていたあの金曜日に津波に襲われました。
連絡が取れないまま職場の同僚たちが捜索に出かけ、
瓦礫に埋まった1階の部屋の中で12日後の23日に彼女とお父様はやっと発見されました。
「3月としては厳しい寒さのせいか遺体の腐敗等は全くありませんでした。
警察に通報して遺体の収容をお願いしましたが、
いつになるか分からないと言われ自衛隊を見つけて遺体の収容をしていただきました」、と
捜索に当たった彼女の同僚が教えてくれました。
彼女のお父様は目と脚が不自由だったことを後から知りました。
あるいは彼女は、最後までお父様を守るために、その場を離れなかったのではないでしょうか。
1階部分は瓦礫に埋まっていたものの2階には津波の痕跡はなかったことを聞いて、
熱いものが込み上げてくるのを抑えられませんでした。-----
-----その従姉妹の実家は名取市閖上の手前にあり、私の母の実家でもあります。
あの家々を押しつぶし田畑をなめ尽くして進んだ津波はその家の1階部分も水没させました。
幸いなことに家が流されることはなかったのですが、
自宅の周りは一面が押しよせた瓦礫で埋もれてしまったとのことでした。
瓦礫とともに人も流されて来ていました。
納屋の前では瓦礫に埋もれて白髪の女性が、
屋敷の東側入口付近には小学生くらいの男の子が、
南側境界付近には別の成人男性が息絶えていたことを聞くにつれ、
あのテレビ映像の津波の中にいったい幾つの魂が必死にもがき苦しんでいたのかと思うとき、
言い知れぬ無力感と心が凍りつくほどの絶望感を覚えました。-----
-----仙台の自宅の隣家のご主人からは、
家族の中で一人だけ生き残った高校生の女の子の話を聞きました。
親戚のその女子高生は家族とともに流された時の様子を次のように語ってくれたそうです。
「海水はヘドロ混じりの黒々とした重たい水で、身動きができなかった。
自分も含め皆がその黒い海水面に頭だけを出していた。
家族だけではなく沢山の人々が顔だけを出した状態で流されていた。
顔だけが幾つも浮かんでいた。
海面に浮かんだその頭が、顔が、しだいに遠く散り散りに離れていって、
私だけが残された」と。
その子の心に重たくのしかかり、いつまでも消えることのない家族の最後の記憶。
その話を聞いて、私はあふれ出る涙を止めることが出来ませんでした。
私達はその子にどんな言葉をかけることができるでしょうか。
この先、一生涯にわたって、その記憶を胸の奥深くに抱えて生きていかなければならないその子に
安らぎの日はくるのでしょうか。
テレビ報道が映す被災地や避難所で暮らす人々は健気にも前向きに生きてゆこうとする姿を見せています。
でも、その笑顔の裏側には、言い表すことができない程の悲惨な記憶を密かに抱えているのだということを
忘れてはならないと私は思っています。-----
もうガブさん泣けて泣けてしょうがないです。
あの震災の日に、すぐ近くで起こっていた事実なんですね。
こちらの省略されていない全文はネットでも読めるみたいです。