前回の国立博物館 檜図屏風の他に観たかった作品
雪舟等楊 の「四季山水図」
中国の南宋の時代
水墨画がこれほどまでに高みに至った時代は他にはなかったとか
1279年 南宋は滅び 数々の作品が日本にも渡り
日本の画家達が盛んに模写しました
雪舟も南宋の絵に学びながら 最高峰の技を身につけていきました。
南宋の絵は「余白」「空間」を大事にしていたとか。
雪舟 1420年 現在の岡山県に産まれ 若くして都にのぼり相国寺で修行をする
将軍足利義満によって壮健された相国寺
幕府の御用絵師 著名な画僧を多数排出している
雪舟の師匠は 相国寺のトップ 周文
南宋の絵画にならいながら
「四季山水図」みやびな画風を作り上げ絶大な人気を誇りました
その細やかな筆が 都の人の心を捉えたのです。
一方 雪舟の若き日の作品「溌墨山水図」
周文とは対照的で 細やかさには程遠い筆・・・
雪舟の画風は都の好みに合わず 成功を望むように手に出来なかった
35歳で 周防の国(山口県)の大内氏から誘いを受け
都落ちを決意し そこで絵を描いて過ごした。
48歳で大内氏がおくる遣明使の一員に選ばれ
日本人の画家として初めて水墨画発祥の地 南宋へ渡航
南宋で実際に観た本場の水墨画は日本の画風とは違っていた
本場の水墨画に触れ 自分の画風は 本場に近いと感じた雪舟。
強い自信を感じた瞬間。
雪舟が中国で描いた「四季山水図」同窓とした力強さ 人々の暮らしと自然の息遣い。
宮廷の人達が その腕に驚き、役所に飾る大作を依頼したという。。。
今回は その四季山水図が観たかったのですが
「秋冬山水図」は展示されていず
今回は 「春」系 「夏」系しかなかったみたいでね・・・
雪舟が旅の行き帰りに滞在した天童寺
そこには 今でも 雪舟の自画像と「天童第1座」と言う称号が貼られている
北京で宮廷を訪れた雪舟は 側近たちから手厚いもてなしを受け
その返礼に 大きな山水画を贈り それを観た皇帝が感激され
そして 皇帝から「天童第1座」の称号を頂いたのです。
帰国後 十数年にわたり 各地を点々とする日々を送った後
山口に庵を構え80代で亡くなるまで絵を描き続けた
雪舟の作品中 6点も国宝に指定されていますが
それは他にはないこと。
機会があれば 山口県にある毛利博物館にある「国宝 四季山水図」(山水長巻)
16Mにわたり 四季の移り変わりが描かれてる壮大な絵巻
こちらも拝見したいものです。
雪舟等楊 の「四季山水図」
中国の南宋の時代
水墨画がこれほどまでに高みに至った時代は他にはなかったとか
1279年 南宋は滅び 数々の作品が日本にも渡り
日本の画家達が盛んに模写しました
雪舟も南宋の絵に学びながら 最高峰の技を身につけていきました。
南宋の絵は「余白」「空間」を大事にしていたとか。
雪舟 1420年 現在の岡山県に産まれ 若くして都にのぼり相国寺で修行をする
将軍足利義満によって壮健された相国寺
幕府の御用絵師 著名な画僧を多数排出している
雪舟の師匠は 相国寺のトップ 周文
南宋の絵画にならいながら
「四季山水図」みやびな画風を作り上げ絶大な人気を誇りました
その細やかな筆が 都の人の心を捉えたのです。
一方 雪舟の若き日の作品「溌墨山水図」
周文とは対照的で 細やかさには程遠い筆・・・
雪舟の画風は都の好みに合わず 成功を望むように手に出来なかった
35歳で 周防の国(山口県)の大内氏から誘いを受け
都落ちを決意し そこで絵を描いて過ごした。
48歳で大内氏がおくる遣明使の一員に選ばれ
日本人の画家として初めて水墨画発祥の地 南宋へ渡航
南宋で実際に観た本場の水墨画は日本の画風とは違っていた
本場の水墨画に触れ 自分の画風は 本場に近いと感じた雪舟。
強い自信を感じた瞬間。
雪舟が中国で描いた「四季山水図」同窓とした力強さ 人々の暮らしと自然の息遣い。
宮廷の人達が その腕に驚き、役所に飾る大作を依頼したという。。。
今回は その四季山水図が観たかったのですが
「秋冬山水図」は展示されていず
今回は 「春」系 「夏」系しかなかったみたいでね・・・
雪舟が旅の行き帰りに滞在した天童寺
そこには 今でも 雪舟の自画像と「天童第1座」と言う称号が貼られている
北京で宮廷を訪れた雪舟は 側近たちから手厚いもてなしを受け
その返礼に 大きな山水画を贈り それを観た皇帝が感激され
そして 皇帝から「天童第1座」の称号を頂いたのです。
帰国後 十数年にわたり 各地を点々とする日々を送った後
山口に庵を構え80代で亡くなるまで絵を描き続けた
雪舟の作品中 6点も国宝に指定されていますが
それは他にはないこと。
機会があれば 山口県にある毛利博物館にある「国宝 四季山水図」(山水長巻)
16Mにわたり 四季の移り変わりが描かれてる壮大な絵巻
こちらも拝見したいものです。