カラヴァッジョ展

2016-05-11 | 美術館
2016年4月   カラヴァッジョ展

私が今回 「観たい」と思った絵は
法悦のマグダラのマリア 
エマオの晩餐
バッカス
メドゥーサ



彼の人生は 画家として 金銭面では困ったことはなかったという恵まれた画家。
しかし 自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回もあったり、
二週間を絵画制作に費やすと、その後の1~2ケ月は
召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩き
喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていた。
作品以外にカラバッジョが残した品は(ローマ国立古文書館)
警察調書と裁判記録のみで 20件以上にも及んだという
投石による傷害  刀剣の不法所持(この時代 刀剣を持ち歩いてはいけなかった)
絵筆を持っているより 刀剣を手にしている方が長いと言われるほど
彼の日常は殺気立っていた
1606年5月28日 ローマで対立していたグループと かけテニスの果てに
決闘し 相手を殺してしまった。
死刑宣告をされ ローマから逃亡

この時 逃亡先で描いた作品 

「法悦のマグダラのマリア」1606年 (キリストの死と復活を見届けたと言われる聖女)
カトリックでは娼婦であったという伝承から
罪深い女性とされながらも魅力的な身体を持つ怪しげな美女としてあらわされている。
この絵は カラヴァッジョが最後まで持っていたと言われていますよね
発見されたのが 2014年 本当にごく最近という事実に驚くばかりです
長い年月を経て 手の部分が黒ずんでしまっていました
赤外線で撮った写真から 元々の手の柔らかな描写がわかりました
巧みな陰影で出したこの柔らかな描写こそ カラバッジョの証。
いやいや 本当に美しい・・・この表現でいいのだろうか
とにかく引き込まれてしまいます。

同じ時期に描かれたのは 「エマオの晩餐」
光と闇のコントラスト
その闇は殺人だけの精神的な影響を受けたのではなく
彼の故郷に伝わっていた闇のルーツの影響もある と言われているようです。

まだ初期のころに描かれた 「バッカス」1597~98年頃
フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿が 彼の才能をいち早く見抜き
自分の屋敷に住まわせ 絵に没頭されたと言われていますね
その中で生まれたのが バッカス 
ローマの神話に登場する酒の神
カラヴァッジョ自身が「モデル」と言われています
絵の中の右下のワインの中に 
この絵を描いているカラバッジョ自身の姿も写っています
実物では わかりませんでしたが 出口近くのショップのレプリカで
しつこいくらい見つめ・・・発見 うれしかったです はい!

バッカスは初期1597~98年  法悦の・・・1606年 後期
8年程しか間がないのだが描写の変化を遂げている
共通するものは 徹底した現実の描写。

ローマ→ナポリ→マルタ→シチリア 逃亡

恩赦を求めようと騎士団になることを望み たどり着いたマルタ島
ここでは生涯最大の作品に取り組んでいますね
洗礼者ヨハネの斬首(1608年)聖ウルスの殉教(1609)展示されてませんw
これは闇が主役。 初期のころのバッカスと比べると、どんどん闇が深まる。 
祈りの空間と深いかかわりがあるのではという説があるそうです
彼の時代 昼間でも暗い教会の中 闇を見つめることに救いがあるのではないか。。。

トカゲに噛まれる少年という絵があるのですが
絵の中にはちゃんとした「教え」があるのに 
なぜか クスッと笑ってしまいました。

彼の最期
ナポリを発ったカラヴァッジョはローマに向かいます。
目的は「死刑」に対する恩赦を法王に求めるため。
このときカラヴァッジョは自身の作品3点を持参していました。
法王の恩赦を得るために、その甥のシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に
作品を贈り助力を求めるためです。
手違いがあり カラヴァッジョを残したまま船は出航。
船を追いかけたカラヴァッジョは熱病にかかり、
トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオで38歳の若さで死去した。


しかし こういう説もあるそうです↓
2010年にポルト・エルコレの教会で人骨が発見され、
この骨はまずカラヴァッジョのものに間違いないだろうと考えられている
この発見から一年以上かけてDNA鑑定、放射性炭素年代測定など様々な科学的鑑定が行われた
発見された人骨からは高濃度の鉛が検出されており、
この人骨がカラヴァッジョのものであるならば鉛中毒で死去した可能性が高い
当時の顔料には多くの鉛が含まれ、鉛中毒はいわば画家の職業病だった。
さらにカラヴァッジョは非常に放埓な生活を送っており、
このことも鉛中毒に悪影響を及ぼしたと考えられる。


カラヴァッジョ展・・・・思ったより楽しめました (失礼 汗)

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