ちょうどそのとき、私は部下と人事評価の面談をしていました。
ゆらゆらっと来ましたが、いつものように大きなトラックでも通っていったのかと思い、そのまま面談を続けていました。
会社は6階にありますし、地盤の緩いところに立っているので、よく揺れるんですね。
しかし、揺れが長い。
さすがに「違う」と思い、立ち上がりました。
揺れはどんどん強くなります。
何かに掴まってないと立っていられないほどです。
ロッカーのドアがバタンと開いて中身が飛び出してきました。
上においてあるダンボールもぼんぼん落ちてきます。
いつまでもいつまでも揺れているような気がしました。
事務所の柱に掴まりながら、クライストチャーチのことを思い出していました。
「ここで死ぬかもしれない」
本気でそう思いました。心臓がバクバクしました。
ようやく揺れが収まり「助かった」「今のはなんだったんだ?」と思いました。
面談をしていたときに私が飲んでいたお茶がマグカップからこぼれ落ちています。
壁にかけてあった絵も傾いています。
事務所には私も含めて女性が3人、男性が5人ほどいました。
そして、現場のパートに応募されてきた女性が一人面接中でした。
その女性は揺れが収まると同時に「とにかく帰ります」と帰って行きました。
エレベータは当然止まっていたので、面接をしていた男性社員が駅まで送っていきました。
揺れが収まるとすぐにラジオを付け、携帯のテレビを付けました。
震源が三陸沖と知ったと同時に「仙台事務所はどうなったんだ?」と思い、そのときにまた揺れがきました。
揺れの中、仙台のスタッフに社内メールを送りました。
激しい揺れにマウスの操作もままなりません。
壁掛け時計や絵の額も「落ちたら危ない」と全て下ろしました。
何度も繰り返し余震がきます。
そのうち船酔いでもしているように気持ち悪くなってきました。
恐る恐る倉庫を覗くと、蛍光灯交換用の大きな脚立がばったりと倒れていました。
棚のものも床に落ちて散乱しています。
「どうせまた揺れて落ちるから、放っておこう」
片付けようとした部下を止めました。
そのうち、外がみるみるうちに暗くなってきました。
空が地震雲で覆われています。
下をみるとすでに多くの人たちが駅に向って歩いていました。
ビデオ再生専用として会議室に置いてあるアナログテレビにアンテナをつなぎました。
まだアナログ放送をみることが出来てよかったです。
そこからずっと、通常業務はせずに現場からの連絡待ちをしていました。
電車が完全に止まってしまったので、会社に泊まるつもりで食料を買いに行きました。
おにぎりは売り切れていて、お店のおばちゃんが「あと18分したらご飯炊けるから!」と叫んでいました。
「がんばって車で帰る」と帰っていった人がいます。
2時間後、まだ1キロしか進んでいませんでした。
千葉の現場から5時間かけて歩いて帰ってきた人がいます。
「いや、もう二度とこんなに歩きたくないっすよ」と笑っていましたが、奥さんが心配だったのか、地下鉄が動くと同時に「いけるとこまで行って後は歩く」と帰っていきました。
そんなこんなで気が付くとあっという間に地震発生から6時間が経っていました。
ダンナとも連絡がつき、家族の安否も確認できましたが、仙台とは連絡が取れません。
本社からも「現場の状況は早く把握しろ」とお達しが来ました。
都内や内陸部の現場からは電話やメールが入ってきますが、茨城や千葉の沿岸部にある現場とはなかなか電話がつながりません。
本社のほうはあまり揺れがなかったのか、どうでもいい用件でのんびりしたメールが来たので「それどころじゃないでしょう!」と一人でプリプリしてしまいました。
私は心臓バクバクが収まらず、通常業務はある意味手に付かなかったのです。
ただテレビをみて、仙台からメールが入っていないか確認し、友達に電話し、そんなことをただただ繰り返していました。
明日からまともに仕事できるかな・・・
ゆらゆらっと来ましたが、いつものように大きなトラックでも通っていったのかと思い、そのまま面談を続けていました。
会社は6階にありますし、地盤の緩いところに立っているので、よく揺れるんですね。
しかし、揺れが長い。
さすがに「違う」と思い、立ち上がりました。
揺れはどんどん強くなります。
何かに掴まってないと立っていられないほどです。
ロッカーのドアがバタンと開いて中身が飛び出してきました。
上においてあるダンボールもぼんぼん落ちてきます。
いつまでもいつまでも揺れているような気がしました。
事務所の柱に掴まりながら、クライストチャーチのことを思い出していました。
「ここで死ぬかもしれない」
本気でそう思いました。心臓がバクバクしました。
ようやく揺れが収まり「助かった」「今のはなんだったんだ?」と思いました。
面談をしていたときに私が飲んでいたお茶がマグカップからこぼれ落ちています。
壁にかけてあった絵も傾いています。
事務所には私も含めて女性が3人、男性が5人ほどいました。
そして、現場のパートに応募されてきた女性が一人面接中でした。
その女性は揺れが収まると同時に「とにかく帰ります」と帰って行きました。
エレベータは当然止まっていたので、面接をしていた男性社員が駅まで送っていきました。
揺れが収まるとすぐにラジオを付け、携帯のテレビを付けました。
震源が三陸沖と知ったと同時に「仙台事務所はどうなったんだ?」と思い、そのときにまた揺れがきました。
揺れの中、仙台のスタッフに社内メールを送りました。
激しい揺れにマウスの操作もままなりません。
壁掛け時計や絵の額も「落ちたら危ない」と全て下ろしました。
何度も繰り返し余震がきます。
そのうち船酔いでもしているように気持ち悪くなってきました。
恐る恐る倉庫を覗くと、蛍光灯交換用の大きな脚立がばったりと倒れていました。
棚のものも床に落ちて散乱しています。
「どうせまた揺れて落ちるから、放っておこう」
片付けようとした部下を止めました。
そのうち、外がみるみるうちに暗くなってきました。
空が地震雲で覆われています。
下をみるとすでに多くの人たちが駅に向って歩いていました。
ビデオ再生専用として会議室に置いてあるアナログテレビにアンテナをつなぎました。
まだアナログ放送をみることが出来てよかったです。
そこからずっと、通常業務はせずに現場からの連絡待ちをしていました。
電車が完全に止まってしまったので、会社に泊まるつもりで食料を買いに行きました。
おにぎりは売り切れていて、お店のおばちゃんが「あと18分したらご飯炊けるから!」と叫んでいました。
「がんばって車で帰る」と帰っていった人がいます。
2時間後、まだ1キロしか進んでいませんでした。
千葉の現場から5時間かけて歩いて帰ってきた人がいます。
「いや、もう二度とこんなに歩きたくないっすよ」と笑っていましたが、奥さんが心配だったのか、地下鉄が動くと同時に「いけるとこまで行って後は歩く」と帰っていきました。
そんなこんなで気が付くとあっという間に地震発生から6時間が経っていました。
ダンナとも連絡がつき、家族の安否も確認できましたが、仙台とは連絡が取れません。
本社からも「現場の状況は早く把握しろ」とお達しが来ました。
都内や内陸部の現場からは電話やメールが入ってきますが、茨城や千葉の沿岸部にある現場とはなかなか電話がつながりません。
本社のほうはあまり揺れがなかったのか、どうでもいい用件でのんびりしたメールが来たので「それどころじゃないでしょう!」と一人でプリプリしてしまいました。
私は心臓バクバクが収まらず、通常業務はある意味手に付かなかったのです。
ただテレビをみて、仙台からメールが入っていないか確認し、友達に電話し、そんなことをただただ繰り返していました。
明日からまともに仕事できるかな・・・