2011年の7月下旬のこと。
高校剣道界の3大大会(全国選抜・本大会・インターハイ(高校総体))の1つの玉竜旗高校女子剣道大会が福岡県福岡市のマリンメッセ福岡で開催されていました。そこに「仲間とともに新しい思い出を作りたい」と、支えてくれた部員や先生、両親への感謝を込め、試合に臨んだ一人の女子剣士がいました。
2011年3月11日、東日本大震災が日本を襲ったその日、震源から1500km以上離れた鹿児島県でのことです。
大会を控えて、鹿児島遠征で合同稽古を行っていた最中、男子生徒の振った竹刀が、近くにいた女子部員の後頭部を直撃してしまいました。倒れたのは当時福岡市立福翔高校二年の城千晶さん。周りの部員たちが練習を止め、監督の菊池忍先生が駆け寄ります。
「おい城、大丈夫か」
と菊池先生の言葉に反応した千晶さんは立ち上がろうとして、また崩れました。意識を失ったまま病院に運ばれ、ようやく病院で目覚めました。
「ずっと隣にいる人が母かな、と思った」
一時的な記憶喪失というのはよくあることですが、一日経っても二日経っても記憶は戻りません。自分の名前も両親の顔も何も分からなくなっていました。
診断は脳振とうや脳挫傷。精密検査の結果、脳波には異常なしと診断されますが、お父さんが医師から聞いた話では、脳の傷は回復しても、失った記憶を取り戻すのは難しく「記憶を積み重ねるしかない」と告げられたそうです。
今まで生きてきた18年間の記憶がすべてなくなってしまうと言うことは、私には想像もつきません。どんなに不安であり、怖いことなのか。自分自身が誰なのか。
菊池先生は千晶さんに「先生のこと判らんやろが、焦らんと、今から覚えてくれたらよか」と優しく言葉をかけることしかできませんでした。
3月下旬、体調が回復してきた千晶さんは母親に連れられて道場に顔を出します。
「これが竹刀っていうとよ」
すると千晶さんは部員の差し出した竹刀を懐かしそうに握りました。
「防具をつけてみるか?」
菊池先生の言葉に、千晶さんは無言でうなずき、見よう見まねで着けました。すると、身体が自然に剣道の動きとなります。身体が剣道を覚えていました。
その後、千晶さんの記憶を取り戻そうとお母さんはいろいろ試み、中学校の時の通学路を一緒に歩きました。しかし、なかなか記憶は戻りませんが、ある日同じように歩いていると千晶さんが立ち止まりお母さんに言いました。
「この焼鳥屋さん、覚えている」
千晶さんたちが部活帰り、お腹が空くと屋台の焼鳥を2~3本買って食べていたそうです。お母さんの目には涙と同時に希望が見えてきました。少しずつ思い出すのかもしれないと。
千晶さんは剣道日記を書いていました。毎日どんな稽古をしたか、誰と試合したか、どんな気持ちだったかなど、事細かく書いていた。
「私、いろんな人と試合してたんですね」
千晶さんが菊池先生に言います。
「そうだ。何てったっておまえたちは、九州選抜3位だったんだからな」
千晶さんは自分の剣道日記を何度も何度も読み返し、記憶を戻すことを試みました。
実際に千晶さんは福岡県平野中学校三年生時に全中ベスト8に入る強豪剣士です。その時のメンバーが筑紫台高と福翔高に分かれて進学し、高校に入ってからのライバルは中学時代の大将・久堀順子さん(筑紫台高校)でした。久堀さんとの対戦はいつも一進一退でお互いに絶対譲らない勝負でした。
2010年12月に行われた新人戦の福岡県中部ブロック大会決勝戦は、千晶さんが中堅の福翔高 vs. 久堀さんが中堅の筑紫台高となります。筑紫台の後ろ3人は平野中大将、全中チャンピオン、九州チャンピオンと続くため、勝つためには先行しなければなりません。
福翔高2-0で迎えた中堅戦は千晶さんと久堀さんの顔合わせとなり、どちらも一歩も引かず攻め合う試合でしたが、久堀さんが千晶さんに一本勝ちとなりましたが、福翔高の副将が筑紫台高の副将を下して劇的な優勝を決めました。
この時の喜びと悔しさを、千晶さんは剣道日記に綴っていました。
これを何度も読み返しているうちに、千晶さんはその時の久堀さんとの試合のことを思い出したような気になってきました。
2011年4月、新年度、高校三年の春。
まだ、記憶のほとんどが戻っていません。記憶が戻らないなら死にたいと思ったことも何度もあったそうですが、千晶さんは前に前に歩き出すことを決意しました。しかも、右手と右足には麻痺が残っていて、右足の感覚がほとんどありませんでした。
そんな中で、千晶さんの剣道が再開します。ある日、稽古中に千晶さんが震えていることがあるのを見ると(事故時のような大人数での稽古中)、菊池先生は隅っこに連れて行き、マンツーマンで稽古をつけました。同級生や後輩たちも気遣い、そして盛り立ててくれました。
千晶さんは稽古に励んでいましたが、やっぱり右手の痺れは残ったまま。しかし、菊池先生は千晶さんの構えと打突を見て、変化に気付きます。
「今まで力が入りすぎていた右手が柔らかくなっていたんです」
そのことによって、逆に打突のスピードが速くなり、また次の攻撃への体勢の変化がスムーズになったような気がするというのです。そして一つの変化が、非常に素直になったということだそうです。
「私の指示をそのとおりに一所懸命にやるんです」
千晶さんはその素直さと、もともと持っていた負けん気の強さで、稽古が終わってからも、素振りや走り込みを徹底的に行いました。
「城、おまえ大将ができるか」
菊池先生が聞くと、「はい、やります」
と答え、チームメイトも千晶さんを信じました。
そして迎えた高校剣道三大タイトルの一つ玉竜旗。
「大将の城に行く前に絶対に決着をつけるぞ! 絶対に昨年のベスト16を越えるぞ!」
チーム一丸となった福翔高は勝ち上がり、ついにベスト16に進出します。
ベスト8をかけた対戦相手は札幌第一高。福翔高は先鋒が3人抜きで、次鋒が相手大将を引っ張り出すも、2人抜き返されるものの、副将の勝利で過去最高記録を破るベスト8に進出します。準々決勝も札幌日大高を副将がしとめてベスト4を決めます。ここまで千晶さんの出番はありませんでした。
そして、準決勝の相手は強豪・桐蔭学園高。
桐蔭高の先鋒に3人抜きをされ、4人目の副将も引き分けとなり、福翔高は大将の千晶さんを残すのみ。会場は大きな拍手で包まれました。
千晶さんは桐蔭学園高次鋒、中堅に一本勝ち。さらに副将と3度の延長の結果一本勝ちで、起死回生の3連勝で大将戦へと縺れ込みます。そして大将戦。鍔迫り合いから、一瞬で面を捉えました。
会場からは悲鳴にも近い声が上がり、直後には割れんばかりの拍手が沸き起こりましたが、福翔高の戦い、千晶さんの戦いに幕が降りました。千晶さんもチームメイトも心から涙を流しました。
この玉竜旗大会の前に、昨年の大会で自分が大将を務め、ベスト16入りしたことを、当時の練習日誌で知った千晶さん。「今年の玉竜旗は、どんなことがあっても一生忘れない戦いをしたい」と気合を込めていました。
「一源三流」は「いちげんさんりゅう」と読みます。
一源とは、誠の心。この誠の心から三つの流れがほとばしる。
その一つは、国のために血を流す。
その二つは、家のために汗を流す。
その三つは、友のために涙を流す。