野球小僧

伝統の早慶戦

春の東京六大学野球の最終節といえば、伝統の「早慶戦」です。今では国語辞典にも収録されるほど一般的な言葉になっている、早慶戦は日本を代表するとも言える私立大学の早稲田大と慶應義塾大の対戦です。

第1回早慶戦は1903年(明治36年)11月21日に早稲田大が送った挑戦状に慶應大が応える形で実現しています。当時新興チームだった早稲田大に対して、慶應大は約20年の実績と当時最強チームだった旧制第一高等学校(一高、現:東京大)に次ぐ位置づけで、格の違いがありました。試合も11-9で慶應大が勝利しています。

ところで、どうして「早慶」という順番なのでしょうね。この時は、新聞で小さく伝えられた程度で、時事新報(現:産経新聞)が「慶応義塾対早稲田大学野球試合」、万朝報(廃刊)が「早稲田大学(改行)慶応義塾 対校野球試合」という見出しだったそうです。

翌1904年6月の第2回直前、一高に早稲田大、慶應大が勝利したことで注目を浴びます。それから試合を報じる新聞も増え、人気となっていきます。すると、「早稲田対慶応野球試合」では長すぎるため、1905年に都新聞(現:東京新聞)が11月9日付で「早慶野球仕合」という見出しを使用しました。

2文字に省略できるため使い勝手が良く、1906年4月28日付の東京朝日新聞(現:朝日新聞)で「早慶の庭球試合」と野球以外にも使われ、「早慶試合」「早慶対戦」「早慶野球」などの略語が生まれました。

その後、1910年11月24日付東京朝日に「准早慶戦」の見出しが出ました。これが、「早慶戦」の初出と言われています。次に変化するのに4年半もの時間が必要だったのは、試合の意味で「戦」を当てる用字法がそれまではなく、当時、新たに使われるようになったからだそうです。

ところが、実は、この1910年当時は早慶戦は行われていません。1906年秋の対戦が1勝1敗となった時点で応援合戦が過熱し、危険な状態になったため第3戦が中止になりました。以後1925年(大正14年)秋の東京六大学野球連盟創設とともに再開されるまで、19年間中止になっていました。この時代、娯楽としての大学野球、特に両校の対校戦へのニーズは根強いものがあり、代わりにOB主体のチームなどによる「准早慶戦」が行われていました。

そして、以降、早慶戦という表現が一般的になりました。「早稲田大が慶應大に挑んだ」ということもあるでしょうけど、一番の強力な理由と考えられるのが新聞記者の数と言われています。当時の新聞記者は明らかに早稲田大出身者が多かったという事情が手伝ったのではないかということです。

それを裏付けるように、慶應義塾大の創設者である福沢諭吉さんが創刊した時事新報は、中止になるまで「慶應対早稲田」の順でした。それだけライバル意識が高かったということでしょうか。

早慶戦が復活した1925年以降は新聞のみならず世間一般でも早慶の順番を動かし難いほどに早慶戦という表記が定着していたそうで、時事新報も早慶戦を認めなければならなくなったようです。そして、現在まで早慶戦という言い方が続いてきています。

ところで、「山陰の早慶戦」と呼ばれる一戦が、甲子園に近い県、鳥取県にもあります。今でも地味な鳥取県ですが、歴史と伝統では高校野球をけん引してきた県なのです。

鳥取県東部に位置する鳥取西高と西部に位置する米子東高は、鳥取県の高校野球をけん引してきた名門校です。創部は鳥取西高が1896年(明治29年)、米子東高は1900年(明治33年)と、100年以上の歴史があります。

鳥取西高は1915年(大正4年)の第1回選手権大会に出場し、開幕戦で勝利しています。甲子園には鳥取西高が夏23回、春4回出場しています。
米子東高は夏13回、春8回出場しており、1960年の選抜大会では、米子東高が鳥取県勢で唯一、決勝進出を果たし、準優勝しています。

この両校のライバル意識は相当なものだそうです。鳥取西高で3度の野球部監督を務め、甲子園にも導いた美田康彦さん(現:岩美高)は「他には負けても、米子東にだけは負けるな、と先輩たちにも言われたものです」と言います。米子東高の選手時代に甲子園に出場し、監督でも3度出場している井畑浩次さん(現:米子工高野球部監督)も「駅伝にかり出されたときも、前を鳥取西の選手が走っていれば、絶対に抜け、と。競技が違っても負けられなかった」と話すほどです。

さらに、この2校の野球での対戦は「山陰の早慶戦」とも呼ばれているそうです。
鳥取西高は早稲田大の流れをくんでおり、同校OBが早稲田大に進み、地元に戻り教えることが多かったようで、いつの間にか早稲田大イズムが浸透しているそうです。ユニフォームも早稲田似で、応援も早稲田スタイルなのだそうです。

一方の米子東高は慶應大流で、ユニフォームや応援スタイルは慶應風だそうです。
そんな経緯もあって、鳥取西高と米子東高の対戦は、いつしか「山陰の早慶戦」と呼ばれるようになったとのことです。

鳥取県の高校野球界を引っ張ってきた両校ですが、選手権大会は鳥取西高が2008年、米子東高は1991年以来、出場がありません。県大会で両校が勝ち進むことは少なくなり、県大会では2013年以来、対戦はないそうです。

甲子園100年となる今年。この両校が対戦し、その勝者が甲子園へ出場することを期待します。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
自称、「鳥取県を日本全国に認知させよう会」の会長ですから、広報活動は怠りません。

聴けば、鳥西高 vs. 米東高の定期戦は5月に行われているとか。本家に負けずに盛り上がっているでしょうね。

今日の早慶戦をTVでちらっと見ましたが、外野席までぎっしり。伝統の一戦、盛り上がっていましたね。
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

早慶戦の歴史から始まって山陰の早慶戦まで披瀝いただきましたこと、鳥取県高校野球連盟に並びに鳥取西高校と米子東高校に成り代わりまして御礼申し上げます。
美田さんとか懐かしい御仁の名前が出てきましたね。

中国大会出場の八頭高校も一回戦敗退してしまいました。
鳥西vs米東・・確かに決勝戦で観たいカードです。
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