昨日の続きです(^^)
昨日の「二河白道の譬」のビデオ御法話の中で、高森顕徹先生から、「煩悩の林の中には、虎がいる」と聞かせて頂きました。
これは、何を意味しているのでしょう?
この時の御法話の後に、座談会で先生がお答えになったところでは、この虎は、「無明の闇(阿弥陀仏の本願を疑う心)」であるとお聞きしました。
私達にとっては、求道がなかなか進まないのは煩悩の為であり、煩悩を恐れています。
しかし、もっとも恐ろしいのは、その煩悩の奥深くに隠れている「無明の闇(本願疑惑心)」であると、教えて頂きます。
本当に、恐れるべきものが知らされるまで、煩悩と闘い、自己の心を凝視してゆかなければなりませんね(><)
昨日の「二河白道の譬」のビデオ御法話の中で、高森顕徹先生から、「煩悩の林の中には、虎がいる」と聞かせて頂きました。
これは、何を意味しているのでしょう?
この時の御法話の後に、座談会で先生がお答えになったところでは、この虎は、「無明の闇(阿弥陀仏の本願を疑う心)」であるとお聞きしました。
私達にとっては、求道がなかなか進まないのは煩悩の為であり、煩悩を恐れています。
しかし、もっとも恐ろしいのは、その煩悩の奥深くに隠れている「無明の闇(本願疑惑心)」であると、教えて頂きます。
弥陀の本願を疑う心は丁度ムカデの喙の針である。
ムカデは足がたくさんあるから恐ろしいと云うものはない。どんなに足が多くても恐るべきは唯一本の毒牙だけなのだ。
だから我々はムカデを発見した時、直に、その毒牙を持つ赤い頭をチョン切るのである。あとはいくら動いていても少しも恐ろしいとは思わない。事実害も与えない。たとえ掌の上にのせても少々の不快を我慢すれば何んでもないわけである。
若しムカデの足をとらねば危険だとすれば、それには大変な時間もかかるだろうが、毒牙を除くだけなら簡単に済むのである。
それと同じように、我々の百八の煩惱は恰もムカデの足のようにたくさんあっても救われる為には障りにはならぬ。
唯、恐ろしいのは本願疑惑の毒牙なのである。この疑心一つが昿劫流転の親玉なのだ。これさえ断除され晴れて大満足すれば
「三毒の煩悩はしばしば起きれども、真実の信心は、かれらにもさえられず、顛倒の妄念は絶えざれども更に未来の悪報を招かず」となる。
されば最も大事は、この毒牙のあり場所を確め、佛智の利剣で断除せられねばならない。ところがこの毒牙は容易にその姿を見せないので誠に厄介な存在なのである。
今日高い死亡率でおそれられているガンは早期発見が困難なところに、その怖ろしさがある。
自覚症状がある時分はすでに手おくれの状態である。
だからこそ我々もだまされ続け、手おくればかりを重ねて今日まで流転して来たのだろう。
ムカデは足がたくさんあるから恐ろしいと云うものはない。どんなに足が多くても恐るべきは唯一本の毒牙だけなのだ。
だから我々はムカデを発見した時、直に、その毒牙を持つ赤い頭をチョン切るのである。あとはいくら動いていても少しも恐ろしいとは思わない。事実害も与えない。たとえ掌の上にのせても少々の不快を我慢すれば何んでもないわけである。
若しムカデの足をとらねば危険だとすれば、それには大変な時間もかかるだろうが、毒牙を除くだけなら簡単に済むのである。
それと同じように、我々の百八の煩惱は恰もムカデの足のようにたくさんあっても救われる為には障りにはならぬ。
唯、恐ろしいのは本願疑惑の毒牙なのである。この疑心一つが昿劫流転の親玉なのだ。これさえ断除され晴れて大満足すれば
「三毒の煩悩はしばしば起きれども、真実の信心は、かれらにもさえられず、顛倒の妄念は絶えざれども更に未来の悪報を招かず」となる。
されば最も大事は、この毒牙のあり場所を確め、佛智の利剣で断除せられねばならない。ところがこの毒牙は容易にその姿を見せないので誠に厄介な存在なのである。
今日高い死亡率でおそれられているガンは早期発見が困難なところに、その怖ろしさがある。
自覚症状がある時分はすでに手おくれの状態である。
だからこそ我々もだまされ続け、手おくればかりを重ねて今日まで流転して来たのだろう。
本当に、恐れるべきものが知らされるまで、煩悩と闘い、自己の心を凝視してゆかなければなりませんね(><)