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浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介

富山県射水市を中心に、勉強会や講演会を開催している、浄土真宗親鸞会一支部の、日々の活動もようを紹介しています。

仏教の役割

2011年03月12日 | Weblog

 こんばんは、ふじたろうです。

 久々の更新となりました。

 

 昨日の大地震に、日本全国が騒然としています。

 

 被災された方々には、心よりお見舞い申し上げますm(_ _)m

 

 今回の大津波で、集落ごと波に押し流され、漂流している人が多くあるとのことです。

 

 私たちが生きる姿も、ちょうど空と水しか見えない大海原に放り出され、漂流しているようなものだと言えるでしょう。

 

 そんな私たちに、懸命に泳ぎ方のコーチをしているのが、政治、経済、科学、医学、芸術、文学、法律の役割と言えないでしょうか。

 

 より快適に、より長く泳ぐために、お金や財産、地位や名誉、家族や恋人といった丸太や板切れを手に入れようともがき、すがりついています。

 

 津波や火災によって家や財産、家族を失った人は、すがっていた丸太や板切れがクルリとひっくり返ってしまったということです。

 

 新聞やテレビの報道を見ていると、こういった丸太や板切れを失ったことばかりを大問題としています。

 

 しかし最も肝心なのは、

 

「何処に向かって泳ぐのか」

「なぜ、生きねばならぬのか」

 

 ではないでしょうか。

 

 必死で手に入れた丸太や板切れを失うことも、悲しく辛いことには違いありませんが、丸太や板切れは泳ぐ為の手段です。

 

 船や陸地のある方角が判らなければ、どれだけ懸命に泳いでも、沢山の丸太や板切れを手にしていても、最後は溺れ死ぬしかありません。

 

 救助の大船があることと、その方角を明らかに示すのが、仏教の役割であり、受け持ちなのです☆

 


チョコレートの悲劇

2011年02月12日 | Weblog
こんばんは、ふじたろうです(^^)

スーパーに行くと、山積みのチョコレートを見かけるようになりました。

チョコレートの原料となるのがカカオ。そのカカオ豆は、どのように生産されているかご存知でしょうか?

 

カカオ豆の主要な産地であるコートジボアールや東南アジアの農園では、多くの子供が奴隷として働かされ、食事も満足にとれない劣悪な環境で暮らしています。

 

その1人、マリからコートジボアール農園に連れられたアリという11歳の少年の例を挙げます。

 

”カカオ農園で働けば、真新しい自転車ももらえるし、$150稼げる”この上手い話に乗せられ、家族から離れてその農園に連れてこられました。

他の子供たちと朝の6時半から12時間、少量の食べ物(数本の焦げたバナナ)が与えられ、ただで働かされます。

アリは11歳、140cmの小柄、ココア豆の袋は彼以上の大きさです。これを移動させるのに、アリの頭上にこれを乗せるのですが、小さな彼は上手くいかず何度も転びます。その度に”ちゃんと働け”と怒鳴られまっすぐ立ちあがるまで自転車の鎖とカカオの木の枝の鞭で打たれます。それが毎日18ヶ月間繰り返されました。今でもその傷跡とアザが残っています。

夜は畳12畳ほどの窓のない掘っ立て小屋に 19人の子供等が板切れの上に寝ます。息が出来るように小さな穴が一つだけ開いています。雇い主に鍵をかけられているので子供たちは缶でおしっこや用を足さねばなりません。

今まで何人もの子供が逃げようとしましたが捕まるとひどい拷問にかけられるのでアリは逃げるのも恐れていました。

しかし、あるとき1人の少年が脱出に成功し、この農園の奴隷のひどさを訴え、事が漸く発覚したのです。アリはそのおかげで両親のもとに帰国でき、$180支払われました。しかしながら体と心のアザは消えず、戻ってきても毎晩打たれる悪夢を見るそうです。アリのように、発覚したケースは非常に稀で、通常ココア豆を購入する産業が農園に一度も訪れない事と農園が非常に小さな区域で観光者は訪れない場所にあるので事態が明白にならず捜査も難しい現状です。

 

カカオ豆の消費が増えれば、このようなカカオ農園が増える一方、自分たちが食べるための食料を自給できず、飢餓に苦しむようになります。

 

そして、カカオ農園を増やす為に、熱帯雨林が破壊され、カカオ栽培のために使われる農薬や化学肥料が、環境汚染をもたらしています。

 

私たちが好きなチョコレートが、多くのアフリカ人を不幸にしているのです。

 

多くの人は、このような実情も知らずに、周りの人たちがそうしているからといったような感覚で、チョコレートを安易に買って、プレゼントしているのではないでしょうか。

 

そして、知らず知らずに、奴隷産業で利益を上げている仲買人や商社に、金を払っているのです。

 

このような現実を知ると、チョコレートを受け取る方も、手放しでは喜べないでしょう。

 

仏教を聞くようになってから、バレンタインチョコレートとは無縁になりましたが、悲惨な事実を知れば尚更、このような慣習とは決別すべきと思うのです☆

 

参考URL

 

http://www.fair-t.info/ft-cocoa/child-slave.html

 

http://www.peopletree.co.jp/choco/04/index.html

 


往き易い、けれども往っている人が少ない

2011年02月04日 | Weblog
こんばんは、ふじたろうです(^^)

トイレを掃除するときにはシャンプーを使うといいそうです。

香りも良いですし、もちろん汚れも落ちますよ☆

 

さて、先回の内容を続けます。

 

「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」(歎異抄第2章)

 

のお言葉を、

 

「念仏さえ称えていれば、他に何もしなくても助かるのだ」

 

という誤解が多くあります。

 

それが誤りであることは、仏教を説かれた釈尊が、唯一の真実経『大無量寿経』の中に、

「易往而無人」

(往き易くして人無し)

と教えられていることだけでも、それは明らかです。

 

釈尊は出世本懐として阿弥陀仏の浄土往生を説かれてから、

「弥陀の浄土へは往き易いけれども、往っている人が無い」

と、おかしなことを仰言っておられます。

なぜおかしいかと言いますと、弥陀の浄土へ往くことが本当に易しいのならば、往

っている人が無いというのはおかしいし、浄土へ往っている人が無いというのが真実

なら、往き易い浄土だと言われるのは適当ではないことになります。

 

お釈迦様のこの一見矛盾とも思えるお言葉の意味について、蓮如上人が分かり易く解説されています。

 

「この文の意は、安心を取りて弥陀を一向にたのめば、浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば、浄土へは往き易くして人なし、と言えるは、この経文の意なり」

(御文章二帖七通)

 

ここで蓮如上人は、浄土へ参り易い(往き易い)のは、安心をとった人(弥陀に救われている人)であり、浄土へ往く人が少ないのは、信心をとる人が少ないからだ、と解説されています。

 

念仏さえ称えていれば、誰でも彼でも死んだら極楽ではないことが、判りますね☆

 


「ただ」の甚だしい誤解

2011年01月30日 | Weblog
こんばんは、ふじたろうです(^^)

 

 

カーペットやラグの上に、重たいソファやベッドを置いていると、自然と凹みができてしまい、移動すると凹みが目立ってしまいます。

 

そんなカーペットの凹みを消したい時には、スチームをあてて水分を与えるのが良いそうです。

 

中には、氷を上にしばらく置いておくだけで、凹みが消えてしまうという話も、ありますよ☆

 

さて、今日は有名な『歎異抄』を高森顕徹先生が解説された『歎異抄をひらく』を通して、親鸞聖人の教えを学ぶテレビ座談会が勤められました。

 

親鸞聖人の教えを聞いている人にとって、

 

「親鸞聖人は、どのようにして阿弥陀仏に救われたのでしょうか?」

 

という質問は、最も知りたいことでしょう。

 

それについて 歎異抄2章には、親鸞聖人が簡潔に答えられています。

 

「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」

 

これを聞いて、

 

「他に何もしなくても、念仏さえ称えていれば助かるのか」

 

と、「ただ」の意味を誤解する人が多いといいます。

 

ここで親鸞聖人が仰る「ただ」には、一切経がおさまる大変深い意味があることを、テレビ座談会で聞かせて頂きました。

 

長くなりますので、次回に続きます☆

 


聖人の魅力の秘密

2011年01月29日 | Weblog

こんばんは、ふじたろうです(^^)

ブログの更新が1週間ぶりとなりました(><)

 

美味しいカレーやオニオングラタンスープに欠かせないのが、あめ色の玉ねぎ。

 

玉ねぎ独特の甘みや旨みを引き出すには、根気よく取り組むのが基本ですが、調理時間を半減させる方法があるそうです。

 

1:玉ねぎを炒める前に砂糖を入れる

玉ねぎを炒め始める前に、砂糖をフライパンに入れ、キャラメル色になるまで火を通す。

調理時間の短縮には直接関係ありませんが、甘みを高める効果があります。

 

2: 玉ねぎと一緒に重曹を入れる

水分がなくなり、メイラード反応が始まると、玉ねぎがより甘くやわらかくなります。

一般的に、pHが高くなると、この反応は早く始まります。そこで、pHを高くするために粉状の重曹を加えると効果的。

ただし、重曹を入れすぎると焦げる可能性が高くなるので、気をつけましょう。

 

3: 高めの温度で調理する

フライパンの中を煮溶かすように、水を加えて、高めの温度で調理します。

 

さて、先日の水曜日は、高森顕徹先生によるテレビ座談会が勤められました。

 

親鸞聖人は、今日、「世界の光」と仰がれていますが、それは聖人が教えてゆかれたことが、全人類の光である、ということです。

 

親鸞聖人に魅了される人は、世の中に沢山います。

 

文学者や哲学者、社会運動家など、色々な立場から、評価されています。

 

なぜ、それほどまでに聖人に惹かれるのでしょう?

 

聖人の逞しさ、優しさ、平等観、信念の強さなど、様々に挙げられるでしょう。

 

もちろん、世界の歴史を見れば、聖人のように逞しく、信念を貫いた人は他にもあるでしょう。

 

それでも、聖人が「世界の光」と尊敬されるのは、全人類が知りたい、また知らなければならない「人生の目的」を明らかにされた方だからです☆

 


切れ味鋭い断言

2011年01月23日 | Weblog
こんばんは、ふじたろうです(^^)

風邪の原因となるウィルスは、気温15度以下の環境を好んで、活発に活動を始めるそうです。

 

また、湿度が高い状態だと、咳やクシャミをしても、すぐに地表に落ちて死滅してしまいますが、湿度40%以下になるとウィルスの水分が蒸発して軽くなる為、30分程度空気中を漂っているそうです。

 

帰宅後に、石けんで手や顔を洗うこと、そしてうがいをすることはもちろん、風邪やインフルエンザ予防に効果的ですから、励行したいものですね☆

 

さて、今日は富山県射水市内にある親鸞会館の二千畳で、高森顕徹先生の座談会が勤められました。

 

二千畳での座談会では、親鸞聖人の一念多念証文というお聖教の、

 

「凡そ八万四千の法門は皆これ浄土方便の善なり」

 

のお言葉について、続けて解説を聞かせて頂いています。今日で9回目です。

 

『八万四千の法門』とは、お釈迦様一代の教えのことです。お釈迦様が生涯教えられたことは、一切経として書き残されており、その数七千冊以上にのぼる膨大な数です。

 

釈迦一代の教えとは、一切経に書き残されていることは、仏教とは、何を教えられたものなのか。

 

親鸞聖人はズバリ一言で断言されています。

 

それは「浄土方便の善なり」

 

「浄土」とは、「阿弥陀仏」のことです。親鸞聖人は阿弥陀仏を、よく「浄土」とは「安養」と仰います。

 

仏教とは、弥陀の方便の善一つを教えられたものだ。

 

こんな短いお言葉で、七千余巻の一切経に教えられていることを喝破されています。

 

一切経を何度も読み破り、正確に理解した方でなければ、こんなに切れ味鋭く、断言できることではありませんね☆

 

 

 


「働くことが生き甲斐」と言う人は...

2011年01月20日 | Weblog
こんばんは、ふじたろうです(^^)

テレビ画面やコンピュータのモニターのほこり拭きに利用できるのが、コーヒーフィルター。

ほこりをキャッチし、静電気を防いでくれます。

 

また、ペーパータオルのように繊維が残ってしまうこともありませんよ☆

 

さて、先日のテレビ座談会で、聞かせて頂いた内容を続けます。

 

「働く(はたらく)」という言葉の語源は、「傍(はた)を楽(らく)にする」というところから生まれたそうです。

 

つまり、「働く」という行為は、周囲に人がいるという前提です。

 

極端な話、無人島に一人いたら、「働こう」という気持ちは起きるでしょうか?

 

高森顕徹先生は、次のように仰言っています。

 

“働くのが好きだ”という人がある。

永らく仕事を続けてきた人に、仕事がないのは苦痛らしい。

退屈しのぎになる上に僅かでもお金が貰える。“良くやった”“きれいになった”と評価もされる。

そんな利益欲や名誉欲を離れての無垢な発言とは思えない。

誰一人の評価もなく、一円の報酬も皆無と知って尚、好きだと労働する人があるだろうか。

好きなのは、働くことではなく、名利であることが知らされる。

 

「仕事が楽しい」という言葉は、オブラートに包んだ表現だと言えますね☆


『死』にぶち当たった全人類の姿

2011年01月18日 | Weblog
こんばんは、ふじたろうです(^^)

シカゴ大学の研究によると、人間は眠い時の方が明らかに間食が増えるのだそうです。

しかも、間食の内容は炭水化物や糖分中心の食べ物で、ほとんどが夜7時~朝7時の間という最悪の時間帯に摂取されていました。

 

この問題は睡眠不足だけが原因ではありません。その上に、脳に過度の負荷やストレスが掛かったことも原因です。

 

ですから、働き過ぎで睡眠が十分に取れないような状況では、無駄に太ってしまう人が多いのです。

 

痩せるために食生活を変えるのは難しいですが、「食事を制限する」のではなく「睡眠を多く取る」という風に意識を変えると、結果として間食が減り、体重も減るかもしれませんね☆

 

さて、前回の内容を続けます。

 

私たちが、もう間違いないと信じているものを、蓮如上人は「妻子や財宝」と例に挙げられています。

 

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」  『御文章』

(病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか。)

 

死ぬ時は、大切なものを一挙に失う時です。

 

財布を落としたくらいではありません。また、火事で家が焼けたくらいでもありません。

 

大事に大事にしているもの全てが、自分のものではなくなります。

 

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 難波のことも 夢のまた夢」

 

関白太閤となって、日本全国を我がものとした秀吉も、臨終には「夢のまた夢」と寂しく息を引き取っています。

 

秀吉のようになりたいという人は今日でも多いですが、秀吉ほどのことを成し遂げても「夢のまた夢」です。

 

これが、死というものにぶち当たった、全人類の姿なのです☆


「生きる」とは「何かを信じている」

2011年01月16日 | Weblog
こんにちは、ふじたろうです(^^)

このところ、ブログの更新が出来たり出来なかったりで、申し訳ありませんm(_ _)m

今、カゼの予防や、花粉症の軽減に効果があると話題になっているのが、「ぬれマスク」。

 

「ぬれマスク」とは、ぬらしたマスクのことで、「ぬれマスク」をすることによって鼻や口に水分を送り、鼻やのどの自浄力がアップするためだそうです。

 

特に寝ている時にするとさらに効果が上がるようです。

 

市販で「ぬれマスク」として売っているのもありますが、ガーゼ製のマスクを水にぬらすだけでもいいそうですよ☆

 

さて、前回の内容を続けます。

 

「生きる」ということは、「何かを信じている」ということです。

 

「信じる」とは、頼りにする、あて力にする、ということです。

 

夫は妻を、妻は夫をあて力にして生きています。親は子供を、子供は親を頼りに生きています。

 

また「これだけお金があるから大丈夫」「財産があるから安心だ」と、金や財産をあて力にして生きています。

 

オレは社長だ、ノーベル賞を取ったと、地位や名誉をあて力にしている人もあるでしょう。

 

人気商売と言われる芸能人は、ファンの数や視聴率に、一喜一憂します。自分を評価してくれる人を、頼りとしています。

よりしっかりと頼りになるものを求めて、大勢のファンを獲得しようと懸命になります。

 

また、生き甲斐や趣味もあります。

 

野球やサッカー、相撲などのスポーツ観戦を趣味にしている人もあれば、毎日の晩酌を愉しみにしている人もあります。

 

資格試験の勉強に打ち込む人は、試験に合格して、○○になるという目標を、生き甲斐にしています。

 

人それぞれ、何かそういうものがないと生きてはゆけません。

 

「私は、色々なものに裏切られてきたから、もう何も信じません」と言う人は、

 

「もうだまされない」という『自分』を信じています。

 

そういう自分も信じられなくなったら、もう自殺しか、ないでしょう。

 

生き甲斐が無くなったら、残るのは苦しみだけです。

 

「何を信じるか」は人それぞれ異なっても、「何かを信じている」ことだけは、全人類、共通しているのです。


生きる私たちの実態

2011年01月14日 | Weblog

こんばんは、ふじたろうです(^^)

電気ポットを長い間使用していると、水垢がたまってしまいます。

そんな時には、まず電気ポットに一旦お湯わかして沸騰させます。

そうしたらお酢大さじ1杯くらい入れて半日ほどおいておきます。

そして半日後、お湯を捨てればピッカピカになりますよ☆

私たちが直視できない、「死そのもの」を蓮如上人は、次のように教えておられます。

 

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」
『御文章』


(病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか。)

 

「かねてたのみおきつる」というのは、日頃、頼りとし、信じているもののことです。

 

私たちは、何も信じずには生きてゆけません。

 

家族や財産、地位や名声など、人それぞれ、あて力にしている対象は異なっても、「何かを信じて生きている」点は共通しています。

 

生きるには、何かを信じなければならない。これが生きる私たちの実態なのです。

 

明日に続きます☆