イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Giostraーメリーゴーラウンドと馬上槍試合とBotticelli(ボッティチェッリ)と

2021年01月31日 17時26分10秒 | イタリア・美術

シャンティイ城のコンデ美術館所蔵のある作品について調べていて、途中まで書いていたところで脱線。
脱線したネタからさらに脱線の兆しが見えたので、このネタを独立させて先に書くことにした。


シャンティ城。
2016年3月に訪れた時の写真。
この時期は雨ばかりで寒かった…
シャンティイと言えばやっぱりこれ!

シャンティクリーム。
ここが発祥…というので美術館の前に食べた。
しかしこの「シャンティイクリーム」、今調べたらも元祖はイタリアみたい。
まぁそれ知ってても食べたけどね。
イタリアでは16世紀の末には生クリーム(panna)を泡立て、砂糖と香料を入れたものを"neve di latte(ミルクの雪)"と呼んでいた。
Cristoforo di Messisbugo(Ferrara, 1549)、Bartolomeo Scappi (Roma, 1570)などの記録が残っている。
また英語では、1545年卵白を泡立てたレシピが残っている。
そしてフランス。
17世紀シャンティイ城でコンデ公に仕えていた料理人フランソワ・ヴァテル(François Vatel)が発明したと言われていて、1784年、ある男爵夫人がシャンティイ城内にあるレストランで催された宴で出されたクリームを「クレーム・シャンティイ」と名付けたという記録が残っている。
上の写真はまさにそのレストランHAMEAUで食べたもの。
イチゴにクリーム載せだだけだが、美味しかった。
勿論、気分もプラス要因。
これを食べる為に行ったわけではないけど、わざわざ行ったんだからね。
フランスで ”Crème Chantilly(クレーム・シャンティイ)”と表記してある場合、それは脂肪分30%以上の無調整乳を使用し、加えるものは砂糖とバニラなどの香料のみを使い決められた製法を守ったもののみ。
それ以外は「クレーム・フエテ(ホイップクリーム)」と呼ばねばならないと決められている。
だからシャンティイ・クリーム=ホイップクリームの説明は間違いということになるわけだ。

ちなみにこのレストラン、いやレストランというより山小屋みたいな感じ。

城の敷地内にある。確か10組も入れない感じだった。

クリーム食べる前にこちらも名物だったと思うんだけど、フォアグラとシードルでランチ。
いや~これもおいしかったよ。

シャンティイにはフランス最古の競馬場シャンティイ競馬場もある。



馬の博物館も併設していて、庭園+美術館(城)に日本語オーディオガイドがついて16€(だったかな?)
とにかく広くて1日ゆっくりかけて行ったはずなのに、と言っても写真見たらパリを出たのは10時過ぎてたけど、結構最後駆け足になってしまった。
オフシーズンは観光客が少ないのはいいけど、どの美術館・博物館も開館時間が比較的短いのがつらい。

こちらはMusée du Cheval(馬の博物館)確かこの左の建物(入口)入ったところに生馬が数頭いた。
死んだら馬に生まれ変わると信じていた7代目コンデ公のルイ・アンリが作らせた世界一美しいと言われる厩舎はHermèsのスカーフのモチーフにもなっているとか。
確か1日数回ショーが見られたはずだけど、私は時間が合わなかったし、メインはコンデ美術館だったので仕方がないね。
中には色々あったけど、写真が残っていたのはこれだけ。

メリーゴーラウンドの動物。アンティークですごく素敵だった。
随分でかいウサギだが…

こんなちょっと怖い顔の馬も。
後ろは確か動画が流れていたんだよね…こわいこわい。

そういえば1月15日のNHK「チコちゃんに叱られる」を見ていて目から鱗だったのだが、「メリーゴーラウンドではなぜ馬が回っているのか?」という疑問に対して、これ、17世紀のフランスで馬上槍試合の練習用に作られたものだという説明があった。
馬上槍試合?
そうかぁ、だからメリーゴーラウンドはイタリア語ではGoistra(ジョストラ)と言い、まさに馬上槍試合と同じ単語なんだぁと非常に納得してしまった。
Grazie チコちゃん!(笑)

馬上槍試合と言えばやっぱりあれだよね。(こうしてどんどん脱線していくわけです)
1474年12月フィレンツェは"lega italica(イタリア同盟)”と称してミラノ、ヴェネツィアと組んでいた同盟を延長した。
Lorenzo de’Medici(ロレンツォ)はそれを祝い、またメディチ家の繁栄と継続を祈念し、大きなGiostra(馬上槍試合)を開催することにした。(日本の資料は弟Giulianoジュリアーノのため、ということを強調しているのが多いけど…)。
ジュリアーノの先導で長い行列が、試合会場となるPiazza Santa Croce(サンタ・クローチェ広場)へと進んで行く。
会場にはロレンツォだけでなく、まだ3歳のPietro(ピエトロ)までジュリアーノの到着を待っていた。
ジュリアーノだけでなく、行列に参加している若者たちは皆豪華な衣装に身を包んでいた。。
当時の記録によると、「若者が身に着けた真珠や宝石の価値はおよそ60,000フィオリーニ!」
1970年代の資料で1フィオリーノは約7~8万リラだったよう。
10万リラがおよそ52€だったという記事を見つけたので(参考)、ざっくり計算して52×60,000で3,120,000€。
日本円で、え???39億!!!
ん?計算弱いので間違えていたらごめんなさい。
更にこの服に付いていた真珠は、試合中衣服から取れて地面で転がっているのが見られた。
って、拾いなよ~

このパレードのジュリアーノの為にBotticelli(ボッティチェッリ)はstendardoという旗を作っているが、残念ながら現存しない。
描かれていたのは純潔の象徴、女神Atena(アテーナ―もしくはMinerva(ミネルヴァ。アテーナ―と同一視されている。)で大きさは人間と同じくらい。
人文主義者Naldo Naldiによると、片手に長い槍を握り、もう一方にはMedusa(メドゥーサ)の頭が描かれた盾を持っていた。彼女はオリーブの枝を焼いている炎の上に足を置き、脇にはオリーブの小枝が揃えて置かれている。、神の愛を運ぶキューピッドがオリーブの切り株のところにいて、花の絨毯が敷かれている。武器は全部足元に横たえられている。オリーブの小枝は”La sans par”、「同じものはない」ということを象徴している。
これはこの女神のモデルと言われている、ジュリアーノの恋人と考えられていたSimonetta Cattaneo Vespucci(シモネッタ)の美しさが比類のないもので有ることを暗示している。
シモネッタはこの試合の勝者の「女王」に選ばれていた。

写真:https://www.marubeni.com/jp/insight/collection/art_overseas/
日本にある唯一のボッティチェッリ作品「美しきシモネッタの肖像」(丸紅所有)
2016年東京都美術館で行われた「ボッティチェリ展Botticelli e il suo tempo」に出展されていたよう…これ行ってないので。
既に人妻であったシモネッタとジュリアーノの恋はプラトニックだったと言われているが…

旗は残っていないものの、同じテーマで描いた絵は数種類残っている。

Palazzo Ducale di Urbinoの象嵌の下絵

Gabinetto dei Disegni e delle Stampe degli Uffizi di Firenze

Ashmolean Museum di Oxford
そしてボッティチェリのミネルヴァの影響を確実に受けていると思われるつづれ織り(arazzo)


Collezione dei Visconti di Baudreuil
どんな絵を旗に描いたのだろうか。
参考・写真:http://www.engramma.it/eOS/index.php?id_articolo=1468

またこの試合の為に当時ロレンツォの屋敷に逗留していたAgnolo Poliziano(ポリツィアーノ)は長編詩「Stanze per la giostra del Magnifico Giuliano di Pietro dei Madici(ジュリアーノ・デ・メディチの馬上槍試合のための八行連詩。通称「スタンツェ」)」を書いた。
これはジュリアーノとシモネッタの空想的なロマンスを神話的アレゴリーを織り込んで謳ったもので、この長編詩はボッティチェッリの「Primavera(プリマヴェーラ、春)」の着想源になったともされている。

試合の翌年、シモネッタは死亡。
ジュリアーノも1478年Congiura dei Pazzi(パッツィ家の陰謀)で殺されてしまう。

参考:https://www.abstrartfirenze.org/blog/simonetta-vespucci/

とここで終わろうと思ったら、違う!!メリーゴーラウンドの話途中だ!?
この木馬、17世紀にフランスで流行した馬に乗ったままコースを走り抜けて、柱につけられたリングを槍でひっかけてさらい取るというゲームの練習のために作られたもので、これを使って回転しながら繰り返しリングを狙う練習をしていたとか。
こんなんで練習になったのかなぁ???

最後は、FirenzeのGiostra、メリーゴーラウンドで閉めましょ。



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19 コメント

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シャンティイのコンデ美術館、丸紅のシモネッタ (むろさん)
2021-01-31 20:43:48
シャンティイのコンデ美術館へ行ったのはもう30数年前、ボッティチェリ工房作のポモーナ(豊穣の寓意)を見るためですが、ついでに見たラファエロの聖母子2点や三美神、ピエロ・ディ・コジモのシモネッタもなかなか良かったことを覚えています。また、ベリー公のいとも豪華なる時祷書のコピー展示があったことも(実物はほとんど展示していないようです)。お城も小さいけれどいい雰囲気だったと思います。
ここへ行く時に駅で聞いたら徒歩で15分ぐらいと言われたのに、行ってみたら30分以上かかって、さすがに帰りはタクシーを呼んでもらいました。往きの徒歩の途中に馬の博物館があったこともよく覚えています(まだ道のりは半分かと思って、溜息が出たことも)。

実はボッティチェリの絵のオークション96億円落札の関連で、上記本文記載の丸紅所蔵シモネッタの絵を購入した時の価格を確認するために、古い雑誌や新聞記事を出して見ていたところです。この件については明日にでも他のルネサンス絵画の取り引き価格の例とともにオークション96億円の記事の方に投稿します。

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お待ちしています。 (fontana)
2021-01-31 21:10:31
むろさん
コメントありがとうございます。
確かに遠かったですね。競馬場を見ながらまだかぁ…と思った記憶がありますが、帰りは街をブラブラ、お菓子屋さんに寄り道したりしたので、気にならなかったのですが、パリについてどっと疲れてしまって、和食で済ませてしまいました。
ベリー公は全てデジタル化されていて、全く本物は見られませんでした。(デジタルでも決まったページしか見られなかったはず…)

丸紅の件はお待ちしています。
というのも、記事を書きながら、一体どういう経緯で日本に来たのか疑問に思っていたからです。
急ぎません、よろしくお願いします。
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シャンティ城 (カンサン)
2021-02-01 19:03:34
fontanaさんへ、私もここに行ったことがあります。2018年12月30日です。(fc2のブログに詳しく書いています。お時間がある時、ご覧ください。)
電車で行きました。駅から競馬場を通ってふらふらと小1時間くらい歩いていきました。歩いている時、ほとんど誰もいなかったように記憶しています。
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丸紅のシモネッタ (むろさん)
2021-02-01 23:33:10
上記コメントで、オークションの96億円の方に書くと言いましたが、他の作品の取り引き金額のことも書いていると時間がかかりそうで、「丸紅のシモネッタがどういう経緯で日本に来たのか」というご質問なので、この絵のことだけをこちらにコメントします。

この丸紅の絵の件は、芸術新潮1969年12月号に詳細に書かれています。読売新聞1969年10月6日朝刊に「1億5,000万円 名画にナゾ 美術書と違う部分」の見出しで、「9月末の英国フェア関連でこの絵は日本に持ち込まれ、1億5,000万円で山種美術館が買い取ることになったが、過去の美術専門書の写真との違いが指摘され、本物に修正が加えられたのか、模写作品かが取沙汰されている。絵の輸入に当たった丸紅アートギャラリーはロンドンに来歴の再確認を依頼した。」とあります。そしてこれを受けて10月6日夕方に丸紅が説明と記者会見を行い、その内容が上記芸術新潮に詳細に記載されています。新聞の方は読売10月7日朝刊に「長い年月の修整で」「名画のナゾに当事者弁明」という簡単な紹介記事が出ています。

過去の美術専門書の写真との違いというのは、「首にかけられたネックレスの珠の左から3個目と4個目の間が古い写真では間隔が開いているが、購入した絵では間隔が開いていない」「右目の下のまつげが古い写真では描かれているが、購入した絵にはない」「頭部最上部の髪の毛を編んだ部分が古い写真の方がやや大きい」の3点です。私は戦前の古い本(矢代幸雄のボッティチェリ―但し1977年の岩波日本語訳版。写真は1929年の第2版当時のものを収録―とボーデのサンドロ・ボッティチェリ1921年独語版)を持っていますが、両方とも掲載写真は上記3点が違う古い写真が出ています。

芸術新潮の記事では、調査の結果、古い写真との違いは修復によるものとの説明があったことの他、「集まった記者たちは矢代幸雄やボーデなどの学者の権威付けを聞きにきたのではなく、絵が本物か、真筆かどうかを具体的に説明してほしい」といった意見で紛糾したことなども書かれています。来歴については、1809年以前にボローニャからパリに、1892年にロンドンに、さらにベルリンのカッペルのコレクションに移り、カッペルの死後、娘婿のノアーク博士(orノア博士)、ノアーク夫人、戦時中はナチスに接収されたが、戦後返還され、ノアーク夫人は1967年にサザビーズ社のオークションに出した。そして、ホースバラ画廊が9,500万円で落札。山種美術館が買うということで、丸紅アートギャラリー(及び弥生画廊、幸画廊の専門家)が仲介した、ということですが、私が想像するに、この騒ぎで山種美術館は購入を取りやめ、結局丸紅本社が引き取ったということだと思います。今我々はこの絵を「丸紅のシモネッタ」と呼んでいますが、戦前のボッティチェリの本(矢代1925&1929年や摩寿意善朗著1941年)では「ノアーク博士のシモネッタ」という通称で呼ばれているようです。なお、ライトボーンのボッティチェリ(1978年の2巻本のうちVolⅡカタログレゾネ)やPonsのカタログレゾネ(1989年Rizzoli)ではヤマザキアートギャラリーと書かれていますが、このヤマザキと山種、丸紅がどう関係しているのかは不明です(Ponsの方は所在不明とも書かれています)。また、芸術新潮の記事では、ロンドンNGも欲しかったが予算的に無理だったとあるので、ホースバラ画廊の落札時点では買い取り先は決まっていなかったようです。また、この騒動の後、東京芸大の寺田春弐氏が科学的調査を行い、絵は贋作でも模写でもなく15世紀頃のものであることは確認されています(シモネッタ・ヴェスプッチの肖像についての調査研究報告、1971年)。この本、芸大図書館にありますが、コロナ騒動で現在学外者は利用不可なので、今は見ることができません。私も以前芸大で見たことはあります。
http://opac.lib.geidai.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BN13176956?hit=1&caller=xc-search

この丸紅シモネッタ、一般公開として私の把握している範囲では過去に4回ほどあります。①1988年1月に新宿・安田火災東郷青児記念美術館でゴッホのひまわりと同時に公開(ひまわりは1987年に58億円で購入。ひまわりはシモネッタのついでに見たのですが、この時初めて見ました)。②1989年11月に東京駅大丸で岡村崔写真展「ボッティチェリ ヴィーナスの誕生・春」の特別出品として展示。(9月、10月には大阪・京都でも開催。)岡村氏はシスティーナ礼拝堂のミケランジェロ壁画の写真などで有名なイタリア美術の写真家。③2008年11月に新宿・損保ジャパン東郷青児美術館の丸紅コレクション展で展示。④2016年1月に都美ボッティチェリ展で展示。
この4回とも全て見に行きました。実は1976年頃に集英社Rizzoli版世界美術全集ボッティチェリでこの絵が丸紅所有であることを知り、その直後に出た摩寿意善朗著集英社世界美術全集ボッティチェリの大判カラー写真を見て、国内にある唯一のボッティチェリの絵なら一度見てみたいと思っていました。1980年代前半ぐらいだと思いますが、丸紅本社に直接電話をかけて、一般公開の予定があるかを聞いたことがあります。「公開予定はない」という返事でしたが、その後上記の1988年になって、やっと念願が叶いました。その当時の新聞記事(日経1988.1.5)には「18年間一般の目にふれることがなく、丸紅の会長応接室に飾ってあった。現在の時価は少なくとも18年前の1億5,000万円の10倍以上といわれている」とあります。丸紅は上記の1969年の出来事(真贋疑惑で話題になり山種美術館が購入をキャンセルし、丸紅が引き取ったこと)をきっかけに、当分一般公開はしないことにしたのだと思います。1976年出版の集英社世界美術全集ボッティチェリ以降、森田義之著朝日グラフ別冊ボッティチェリ、高階秀爾他著中央公論美術出版ボッティチェリ全作品など、この絵のカラー図版を大きく取り上げている本はいくつかありますが、どれも作者判定については否定的な見解ではなく、工房作としているようです。一方、海外の本では取り上げていても所在不明としていることが多く、この10数年前からやっと「丸紅、東京」という所蔵先が書かれるようになってきました。これは海外への情報発信や貸し出しをしていなくて、研究者の目に触れることが少ないためだと思われます。国内にある印象派の絵などでは、あまり有名でない美術館の所有でも、貸し出しのバーターとしての意味合いから海外からの貸し出し要請もあるようですが、このシモネッタの絵は会社の所収なので、そういう機会もあまりないということでしょうか。研究が進むためにも、積極的に海外に貸し出して広く知ってもらいたいという気がします。

この絵について、他に数点あるバージョンとの比較やジュリアーノの肖像との関係、パラティーナ美術館のボッティチェリ作シモネッタとされる絵や前コメントで書いたシャンティイ・コンデ美術館のピエロ・ディ・コジモ作シモネッタなど、絵自体の評価についてもいろいろ話題はありますが、長くなりましたのでご興味があれば別コメントで書きます。(もう十分ということならやめます。)

その他、シモネッタの関係でお勧めの本(一般書)を一つだけ挙げておきます。川出書房新社ふくろうの本 図説「ルネサンスに生きた女性たち」2000年 にシモネッタ・ヴェスプッチで一項目を取り上げ、出身地ポルトヴェーネレやジェノヴァのシモネッタゆかりの場所・建物の写真やジョストラのことなどを書いています。この本はフィリッポ・リッピの若い妻、尼僧ルクレツィアやイザベラ・デステなども扱っています。シモネッタにご興味があれば上記の芸術新潮とともに図書館でご確認ください。

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ありがとうございます。 (fontana)
2021-02-02 18:12:41
カンサンさん
ブログ拝見しました。
私が行った時も、駅から城まで人はいなかった気がしますが、あんな森みたいなところを抜けて行ったんですねぇ…私の写真にはないところも有ったので、非常に参考になりました。
オペラ座にも行かれたんですね。私もシャンティイに行ったときと同じ2016年3月に行きました。シャガールの天井画が最高でした。
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感謝、感謝!! (fontana)
2021-02-02 18:17:28
むろさん
長文のコメントありがとうございます。
非常に面白いですね。急ぎませんので、是非別のバージョンやピエロ・ディ・コジモの件も教えて下さい。
また、お願いついでで申し訳ないのですが、シャンティイ城のボッティチェリ工房作に付いてもご存知のことが有ればご教示ください。

「ルネサンスに生きた女性たち」は多分持っていると思うので、再読してみようと思っています。
いつも有益な情報をありがとうございます。引き続きよろしくお願いいたします。
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シモネッタ・ヴェスプッチ(その2) (むろさん)
2021-02-04 01:26:04
上記コメントで書いたふくろうの本「ルネサンスに生きた女性たち」によれば、「1474~75年の冬は近年にない寒波で、シモネッタは1月の馬上槍試合の翌日から高熱を出して寝込んだ。そして二度と人々の前に現れることはなかった」とあります。翌年4月に23歳で結核で亡くなるので、ジュリアーノに勝利の兜を渡す女神役のシモネッタの姿は、フィレンツェ中の人々の記憶に焼き付いたと思われます。上記本文記載と同様、ふくろうの本でも「ロレンツォ豪華王が企画し、弟ジュリアーノを正式に諸外国に紹介するとともに、フィレンツェの主権はロレンツォにあることを内外に印象付けるため」とされ、また、若桑みどり著フィレンツェ(文芸春秋社1994年)でも「1469年のジョストラはロレンツォのジョストラ、1475年のそれはジュリアーノのジョストラと言われ、ともにメディチ家の大宣伝の一環だった」とあります。16歳で同い年のマルコ・ヴェスプッチに嫁いでフィレンツェにやって来たシモネッタと、これも同い年であるジュリアーノ・デ・メディチの関係が恋人であるのかどうか、昔からいろいろ説があるようですが、ふくろうの本ではマルコは「虚栄心が強く、金遣いも荒く、凡庸な人物で、フィレンツェ共和国のあまり重要でない官職もいくつか務めた」とあり、一方でジュリアーノは兄ロレンツォが醜男だったのに対し、容貌も性格も申し分のない貴公子で女性からの人気も高かったようなので、夫より強く魅かれても当然という気がします。ヴェスプッチ家は一族のアメリゴ・ヴェスプッチが航海士として有名であるように、海運業、特に明礬の貿易でメディチ家と協力関係にあり、はるかに裕福なメディチ家の当主ロレンツォに対して忠誠を誓うことは利益にかなうので、夫マルコにとっても妻シモネッタをロレンツォが企画したジョストラの女神役として出演させることは、マルコにもメリットがあったはずです。しかし、これがシモネッタの死につながったのなら皮肉な運命ですね。(メディチ家の主要産業である毛織物業で明礬を使い、シモネッタの実家カッターネオ家とヴェスプッチ家のつながりも明礬貿易。ヴォルテッラの悲劇の原因の一つも明礬の採掘関連であり、1478年のパッツィ家の陰謀もこれが関係。)

春の戴冠で辻邦生はシモネッタがヴェスプッチ家を出て、ジュリアーノと暮らしていたことがあったように書いています。小説なので事実が不明な部分をどのように書いても自由ですが、実際にはその可能性は低いと思います。また、1475年のジョストラや翌年のシモネッタの死がランドウッチの日記に何か書かれているかと思って確認しましたが、残念ながらこの件は記載されていませんでした(1478年のパッツィ家の陰謀のことは詳しく書かれています)。

私が初めてフィレンツェに行った時は、ローマからの日帰りであまり時間がなかったため、ウフィツィ美術館、シニョリーア広場(サヴォナローラ処刑跡)、ボッティチェリゆかりのオニサンティ教会の3か所だけは必ず行く予定でした(アカデミア&ピッティ美術館、サン・マルコ、サンタ・クローチェ、SMノヴェッラなどよりもオニサンティを優先)。そしてオニサンティでは絵を見る他にボッティチェリの墓も大きな目的でしたが、今思うとヴェスプッチ家礼拝堂ではギルランダイオのフレスコ画にばかり気を取られ、ここがシモネッタを含む一族の墓であるということはあまり意識していなかったようです。(オニサンティの主祭壇にもヴェスプッチ家の紋章があるそうですが、墓は礼拝堂の方ですよね?)次回また行く機会があったら、シモネッタもここに葬られているという意識で礼拝堂を見ようと思っています。(ギルランダイオのフレスコ画「ミゼリコルディアの聖母」の聖母マリアや右下の胸に手を当てる女性の顔をシモネッタとする説もあるようです。それが事実なら18歳か19歳の頃の若妻ということになります。)

ボッティチェリ(工房)作シモネッタ像の別バージョンについてですが、丸紅シモネッタについて書かれた本や何冊かのカタログレゾネの記載をただ要約するだけでは、「数点存在するどの作品も工房作かコピー作」という通り一遍のコメントにしかならないので、私にとってもあまり面白くありません。フランクフルトのシュテーデルで開催されたボッティチェリ展の図録(英語)に、同館所蔵のシモネッタの絵に関連して、シモネッタ・ヴェスプッチについての総合的な論考が掲載され、また、素描家ボッティチェリとしての論考の一部にオックスフォード・アシュモレアン所蔵のシモネッタの素描と丸紅やシュテーデルのシモネッタの絵との関連などが書かれています。私にとってもいい機会なので、これらを読んでからコメントしようと思いますので、しばらくお待ちください。シャンティイ・コンデ美術館のボッティチェリ工房作ポモーナ(果実の寓意)とバチカン・システィーナ礼拝堂のボッティチェリ壁画との関連などもその時に書きます。

次に、前コメントの訂正です。①丸紅シモネッタの古い写真との違いで書いた右目の下のまつげが「古い写真では描かれているが、購入した絵にはない」の記述は逆で、「購入した絵には描かれているが、古い写真にはない」が正です。この部分がよく分るのは、森田義之著朝日グラフ別冊ボッティチェリ 1988年掲載図版で、全体図と頭部の拡大図が載っています。物指しを当てて寸法を測ったら、この拡大図は実際の絵のほぼ原寸大のサイズであり、目の下のまつげがよく分ります。②摩寿意善朗の本「ボッティチェリ」は1941年ではなく戦時中の1942年発行でした。太平洋戦争開始の約1年後の出版で、時代を反映して非常に質の悪い紙を使っていますが、この時期に世の中の動きと関係のない、こんな大きくて優雅な本をよく出版できたものだと思います。③印象派の絵の貸し出しを例に、海外からの貸し出し要請のことを書いた部分で、「このシモネッタの絵は会社の所収」と書いたのは「~会社の所有」の誤りです。

最後に「春の戴冠」のことを付け加えると、この小説の主役はサンドロ・ボッティチェリ、語り手はサンドロの友人として著者が創作した古典学者フェデリゴ(モデルはルカ・ランドウッチ。新潮社「波」辻―高階対談より)ですが、前半の話の中心はシモネッタ、後半はサヴォナローラだと思います。1977年発行の単行本上下巻のうち、上巻の最後の場面は1476年のシモネッタの死、下巻最後の場面は1498年のサヴォナローラの処刑です。

返信する
ありがとうございます。 (fontana)
2021-02-06 11:34:08
むろさん
ありがとうございます。
またご丁寧に訂正を加えて頂き、重ね重ね感謝いたします。
「ルネサンスに生きた女性たち」確認しました。
そうですね、墓は礼拝堂です。
オンニサンティは、教会の前はよく通っていましたが、Giottoの「キリスト磔刑」の修復を終えた時から行ってないので(既に10年前でした)、次回はじっくり再訪しようと思っています。

シモネッタ考は楽しみにしております。
何卒よろしくお願いいたします。
返信する
ジョットの板絵十字架像 (むろさん)
2021-02-10 23:26:47
初めてオニサンティへ行ったのは今から40年ぐらい前で、ジョットの板絵十字架像については、その時点でRizzoliのあのシリーズ(Abramsの英語版)を持っていたので、当然見るべき作品の一つとしてリストアップしていました。Rizzoliの本では、ジョットの板絵十字架像として、SMノヴェッラ、リミニのテンピオ・マラテスティアーノ、パドゥヴァのエレミターニ(以上は真筆かそれに近いもの)、工房作としてフィレンツェのサン・フェリチェ、オニサンティ、サン・マルコ(教会側)の6点が挙げられています。このうち見ていないのは(少し記憶が曖昧ですが)多分リミニの絵だけで、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画やジョヴァンニ・ベリーニのピエタと合わせ、将来の課題です。オニサンティの絵の修復のことは、芸術新潮2018年1月号に鮮やかな色の写真(ラピスラズリの青が綺麗!)が出ていたので、これも将来フィレンツェに行った時に是非見たいと思っています。同誌の解説では2002年から9年間に及ぶ修復とあり、2010年秋の公開直後にご覧になられたのですね。昔見た時の記憶はほとんどありませんが、綺麗な色でなかったことは確かです。

オニサンティへはその後も1~2度行っていますが、この近くにあるヴェスプッチ家やボッティチェリの家があった位置もほぼ特定しているので、これらの確認と合わせ、オニサンティへ行きたいと思っています(シモネッタとボッティチェリは同じ町内の顔見知り?!)。このようなボッティチェリゆかりの場所巡りとして、ベッロズグアルドの別荘(ハーバード・フォッグ美術館の「神秘の十字架像」に描かれたフィレンツェの遠景がこの地から見た景色。別荘位置はS.Vito教会付近。ベッロズグアルドについては下記URL)とか、絵が元あった場所の探訪(例えばウフィツィ受胎告知フレスコ画はサン・マルティーノ・アラ・スカラ病院から。今は刑事法研究所の建物)も考えているので、早くイタリア旅行ができることを願っています。
https://www.destinationflorence.com/en/details/6555-bellosguardo-itinerary-%2523slowflorence

なお、余談ですが、上記のSan FeliceとSanta Felicitaを間違える人が時々いるようです。ともにピッティ宮の近くにあり、名前も似ているので、我々日本人には仕方がないと思いますが、Felicitaの方はピッティの手前にある、ヴァザーリの回廊の上から内部を見下ろすことができる教会で、ポントルモの絵がある所。Feliceの方はピッティの先で、ボッティチェリ工房作の三聖人(聖アントニウス、聖ロクス、アレクサンドリアの聖カタリナ)の板絵と上記ジョット工房の十字架像板絵がある教会。フィレンツェに10年住んでおられたfontanaさんは当然よくご存じと思いますが、私自身どっちだったかと一瞬迷うことがありますので、念のために。

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間違えます。 (fontana)
2021-02-21 09:38:56
むろさん
お返事が遅くなり申し訳ありません。
私もFelicitaとFeliceは混乱します。

修復したてのGiottoの磔刑図を間近で見られたのは、貴重な経験でした。
https://blog.goo.ne.jp/fontana24/e/181d6fc8d3626db9c0b3102af3525979
しかし、その後購入した本は、全く読めていません。
リミニはピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画が良かったですね。
ベッロズグアルドの別荘周辺には行ったことがありますが、この辺りからの遠景が描かれたことは知りませんでした。
本当に再訪出来る日が早く来て欲しいですね。昨年から色々教えて頂いたので、行きたい場所がいっぱいあります。
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