イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Giostraーメリーゴーラウンドと馬上槍試合とBotticelli(ボッティチェッリ)と

2021年01月31日 17時26分10秒 | イタリア・美術

シャンティイ城のコンデ美術館所蔵のある作品について調べていて、途中まで書いていたところで脱線。
脱線したネタからさらに脱線の兆しが見えたので、このネタを独立させて先に書くことにした。


シャンティ城。
2016年3月に訪れた時の写真。
この時期は雨ばかりで寒かった…
シャンティイと言えばやっぱりこれ!

シャンティクリーム。
ここが発祥…というので美術館の前に食べた。
しかしこの「シャンティイクリーム」、今調べたらも元祖はイタリアみたい。
まぁそれ知ってても食べたけどね。
イタリアでは16世紀の末には生クリーム(panna)を泡立て、砂糖と香料を入れたものを"neve di latte(ミルクの雪)"と呼んでいた。
Cristoforo di Messisbugo(Ferrara, 1549)、Bartolomeo Scappi (Roma, 1570)などの記録が残っている。
また英語では、1545年卵白を泡立てたレシピが残っている。
そしてフランス。
17世紀シャンティイ城でコンデ公に仕えていた料理人フランソワ・ヴァテル(François Vatel)が発明したと言われていて、1784年、ある男爵夫人がシャンティイ城内にあるレストランで催された宴で出されたクリームを「クレーム・シャンティイ」と名付けたという記録が残っている。
上の写真はまさにそのレストランHAMEAUで食べたもの。
イチゴにクリーム載せだだけだが、美味しかった。
勿論、気分もプラス要因。
これを食べる為に行ったわけではないけど、わざわざ行ったんだからね。
フランスで ”Crème Chantilly(クレーム・シャンティイ)”と表記してある場合、それは脂肪分30%以上の無調整乳を使用し、加えるものは砂糖とバニラなどの香料のみを使い決められた製法を守ったもののみ。
それ以外は「クレーム・フエテ(ホイップクリーム)」と呼ばねばならないと決められている。
だからシャンティイ・クリーム=ホイップクリームの説明は間違いということになるわけだ。

ちなみにこのレストラン、いやレストランというより山小屋みたいな感じ。

城の敷地内にある。確か10組も入れない感じだった。

クリーム食べる前にこちらも名物だったと思うんだけど、フォアグラとシードルでランチ。
いや~これもおいしかったよ。

シャンティイにはフランス最古の競馬場シャンティイ競馬場もある。



馬の博物館も併設していて、庭園+美術館(城)に日本語オーディオガイドがついて16€(だったかな?)
とにかく広くて1日ゆっくりかけて行ったはずなのに、と言っても写真見たらパリを出たのは10時過ぎてたけど、結構最後駆け足になってしまった。
オフシーズンは観光客が少ないのはいいけど、どの美術館・博物館も開館時間が比較的短いのがつらい。

こちらはMusée du Cheval(馬の博物館)確かこの左の建物(入口)入ったところに生馬が数頭いた。
死んだら馬に生まれ変わると信じていた7代目コンデ公のルイ・アンリが作らせた世界一美しいと言われる厩舎はHermèsのスカーフのモチーフにもなっているとか。
確か1日数回ショーが見られたはずだけど、私は時間が合わなかったし、メインはコンデ美術館だったので仕方がないね。
中には色々あったけど、写真が残っていたのはこれだけ。

メリーゴーラウンドの動物。アンティークですごく素敵だった。
随分でかいウサギだが…

こんなちょっと怖い顔の馬も。
後ろは確か動画が流れていたんだよね…こわいこわい。

そういえば1月15日のNHK「チコちゃんに叱られる」を見ていて目から鱗だったのだが、「メリーゴーラウンドではなぜ馬が回っているのか?」という疑問に対して、これ、17世紀のフランスで馬上槍試合の練習用に作られたものだという説明があった。
馬上槍試合?
そうかぁ、だからメリーゴーラウンドはイタリア語ではGoistra(ジョストラ)と言い、まさに馬上槍試合と同じ単語なんだぁと非常に納得してしまった。
Grazie チコちゃん!(笑)

馬上槍試合と言えばやっぱりあれだよね。(こうしてどんどん脱線していくわけです)
1474年12月フィレンツェは"lega italica(イタリア同盟)”と称してミラノ、ヴェネツィアと組んでいた同盟を延長した。
Lorenzo de’Medici(ロレンツォ)はそれを祝い、またメディチ家の繁栄と継続を祈念し、大きなGiostra(馬上槍試合)を開催することにした。(日本の資料は弟Giulianoジュリアーノのため、ということを強調しているのが多いけど…)。
ジュリアーノの先導で長い行列が、試合会場となるPiazza Santa Croce(サンタ・クローチェ広場)へと進んで行く。
会場にはロレンツォだけでなく、まだ3歳のPietro(ピエトロ)までジュリアーノの到着を待っていた。
ジュリアーノだけでなく、行列に参加している若者たちは皆豪華な衣装に身を包んでいた。。
当時の記録によると、「若者が身に着けた真珠や宝石の価値はおよそ60,000フィオリーニ!」
1970年代の資料で1フィオリーノは約7~8万リラだったよう。
10万リラがおよそ52€だったという記事を見つけたので(参考)、ざっくり計算して52×60,000で3,120,000€。
日本円で、え???39億!!!
ん?計算弱いので間違えていたらごめんなさい。
更にこの服に付いていた真珠は、試合中衣服から取れて地面で転がっているのが見られた。
って、拾いなよ~

このパレードのジュリアーノの為にBotticelli(ボッティチェッリ)はstendardoという旗を作っているが、残念ながら現存しない。
描かれていたのは純潔の象徴、女神Atena(アテーナ―もしくはMinerva(ミネルヴァ。アテーナ―と同一視されている。)で大きさは人間と同じくらい。
人文主義者Naldo Naldiによると、片手に長い槍を握り、もう一方にはMedusa(メドゥーサ)の頭が描かれた盾を持っていた。彼女はオリーブの枝を焼いている炎の上に足を置き、脇にはオリーブの小枝が揃えて置かれている。、神の愛を運ぶキューピッドがオリーブの切り株のところにいて、花の絨毯が敷かれている。武器は全部足元に横たえられている。オリーブの小枝は”La sans par”、「同じものはない」ということを象徴している。
これはこの女神のモデルと言われている、ジュリアーノの恋人と考えられていたSimonetta Cattaneo Vespucci(シモネッタ)の美しさが比類のないもので有ることを暗示している。
シモネッタはこの試合の勝者の「女王」に選ばれていた。

写真:https://www.marubeni.com/jp/insight/collection/art_overseas/
日本にある唯一のボッティチェッリ作品「美しきシモネッタの肖像」(丸紅所有)
2016年東京都美術館で行われた「ボッティチェリ展Botticelli e il suo tempo」に出展されていたよう…これ行ってないので。
既に人妻であったシモネッタとジュリアーノの恋はプラトニックだったと言われているが…

旗は残っていないものの、同じテーマで描いた絵は数種類残っている。

Palazzo Ducale di Urbinoの象嵌の下絵

Gabinetto dei Disegni e delle Stampe degli Uffizi di Firenze

Ashmolean Museum di Oxford
そしてボッティチェリのミネルヴァの影響を確実に受けていると思われるつづれ織り(arazzo)


Collezione dei Visconti di Baudreuil
どんな絵を旗に描いたのだろうか。
参考・写真:http://www.engramma.it/eOS/index.php?id_articolo=1468

またこの試合の為に当時ロレンツォの屋敷に逗留していたAgnolo Poliziano(ポリツィアーノ)は長編詩「Stanze per la giostra del Magnifico Giuliano di Pietro dei Madici(ジュリアーノ・デ・メディチの馬上槍試合のための八行連詩。通称「スタンツェ」)」を書いた。
これはジュリアーノとシモネッタの空想的なロマンスを神話的アレゴリーを織り込んで謳ったもので、この長編詩はボッティチェッリの「Primavera(プリマヴェーラ、春)」の着想源になったともされている。

試合の翌年、シモネッタは死亡。
ジュリアーノも1478年Congiura dei Pazzi(パッツィ家の陰謀)で殺されてしまう。

参考:https://www.abstrartfirenze.org/blog/simonetta-vespucci/

とここで終わろうと思ったら、違う!!メリーゴーラウンドの話途中だ!?
この木馬、17世紀にフランスで流行した馬に乗ったままコースを走り抜けて、柱につけられたリングを槍でひっかけてさらい取るというゲームの練習のために作られたもので、これを使って回転しながら繰り返しリングを狙う練習をしていたとか。
こんなんで練習になったのかなぁ???

最後は、FirenzeのGiostra、メリーゴーラウンドで閉めましょ。



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19 コメント

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ありがとうございます。 (fontana)
2021-09-19 14:23:46
むろさん
コメント&情報ありがとうございます。
知らないことばかりなので大変勉強になりました。
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ポリツィアーノのスタンツェとロレンツォ豪華王の謝肉祭の歌 (むろさん)
2021-09-13 23:33:52
「原典 イタリア・ルネサンス人文主義」、2ヵ月近くかかりましたが、他区からの取り寄せで先日借りることができました。早速ポリツィアーノのスタンツェとロレンツォ豪華王のアンブラ、謝肉祭の歌の部分について日本語訳をコピーしたので、今後は教えていただいたスタンツェの原語とも比べながら読んでいきたいと思います。

謝肉祭の歌の方はざっと全体を眺めてみたのですが、今までcanzona di baccoから抱いていた格調高いイメージとは異なり、なんと性的な比喩に満ちた詩なのかと驚きました。ロレンツォ豪華王に対するイメージもすっかり変わりましたが、カーニバルもバッカスも享楽的なものですから、これがルネサンスの市民の日常生活の実態なのでしょうね。なお、ロレンツォの作品としてアンブラも収録されていますが、こちらはギリシャ神話をテーマにした田園詩なので、ポリツィアーノのスタンツェと似たような感じであり、謝肉祭の歌とは好対照であるのが面白いと思いました。
なお、下記サイトにロレンツォの詩に関する日本語文献が出ています。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000198404
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araldoです (fontana)
2021-07-28 20:42:08
むろさん
コメントありがとうございます。
取り急ぎフィラレーテのことだけコメントします。

イタリア語では「araldo」と出ています。辞書を引くと1.(中世の武道試合における)試合規則の説明役、審判役、(国王の布告の)情報伝達官2。(広義)使者、伝令、先駆、先触れ
と出ているので、石鍋論文の「伝令」も、壺屋めりの「世渡り術」の「政府の使者」も間違いではないですが、違和感があったので、私はフィラレーテの人となりを調べました。
イタリアでも信用のおける百科事典で、ネットでも読めます。
https://www.treccani.jp/enciclopedia/francesco-filarete_(Dizionario-Biografico)/
※itをjpにしています。
これを読むと識者で非常に重要な人物だったことが分かったので「官房長官」と言いました。(実際官房長官が実際重要かどうかは分かりませんが…)この時代「伝令」が重要な役だとしたら、私の解釈違いですが。
「一等布告官」というのは良い訳だと思います。今回Wikipediaで調べたところ英語ではHeraldだそうです。日本語だとヘラルド・オブ・アームズになっていました。私はこの役職を知りませんでした。
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原典イタリア・ルネサンス人文主義・芸術論 追記 (むろさん)
2021-07-28 13:37:28
先日池袋へ行く用事があったので、再度「原典イタリア・ルネサンス芸術論」刊行記念フェアを確認してきました。前回は時間がなかったので、簡単にしか見なかったのですが、今回は関連書籍を少し詳しく調べてきました。
まず、「原典イタリア・ルネサンス人文主義」では、ポリツィアーノのスタンツェの前にロレンツォ豪華王の謝肉祭の歌の日本語訳を掲載していて、その中のcanzona di baccoの冒頭が前コメントで書いた例のQuànt’ è bèlla giovinèzza~の部分でした。有名な詩なので、今までに日本語訳が出ていたかもしれませんが、私は見たことがないので、これも全文を読むのが楽しみです。
「原典イタリア・ルネサンス芸術論 上」では、最後のパトロン論の部分が短いいくつかの文書の訳を扱っていますが、この中にピエロ・デラ・フランチェスカ、フィリッポ・リッピ、ドメニコ・ギルランダイオの関係文書がありました。リッピは老コジモとのやり取りの手紙、ギルランダイオはサンタ・マリア・ノヴェッラの主祭壇画に関するトルナブオニ家との契約文書関係です(これもコピーするのが楽しみ)。また、その前の章ではギベルティのコンメンターリについて、石鍋氏の訳が取り上げられていますが、これは成城短期大学紀要12号1981に掲載されたものの再録です。

これ以外の本では、「ルネサンス・バロックのブックガイド」ヒロ・ヒライ著 工作舎 2019という本が役に立ちそうです(地元の図書館の本館にあったので、取り寄せ依頼しました)。内外の各種美術史、美学論などを紹介していて、ワールブルグ、パノフスキーなどの基本文献(日本語訳のあるもの)はほとんど網羅していますが、知らないものもかなりたくさん出ていました。和書で目についたのは水野千依の「イメージの地層」ぐらいです。取り上げられている本で私が気になったのは、マルシリオ・フィチーノの「恋の形而上学―プラトーン饗宴注釈」、ピコ・デラ・ミランドラの「人間の尊厳について」(ともに1985年 国文社発行)です。過去にも別の出版社から日本語訳*が出ていたかもしれませんので、合わせてそのうち確認しようと思います(*イタリア・ルネサンスにおける人間の尊厳 有信堂1981、クリステラー著 ルネサンスの思想 東京大学出版会1977など。但し、抄訳かもしれない)。なお、フィチーノとピコの著書はポリツィアーノのスタンツェほど直接的にボッティチェリの絵の着想源とはなっていないので、関連する部分だけ確認できればいいと思っています。

ついでに、石鍋氏の成城大学美学美術史論集掲載、ダヴィデ像設置委員会論文を入手されたとのことですが、壺屋めり「ルネサンスの世渡り術」以外でもう一つ、この委員会に関する日本語で読める資料がありましたのでご紹介します。先日手持ち資料を調べていたら、以前に本の一部をコピーしたものが出てきて、その中に取り上げられていました(すっかり忘れていました)。「フィレンツェに抱かれて―歴史の中に生きる人々の生活と姿」R.W.Bルイス著 岸本完司訳 中央公論新社1999のP137~142に第3章アルノルフォ・ディ・カンビオの実在的な都市 という項目の一部で書かれていて、注に「Charles Seymour 1973の論文集に会議テキストが収録されている」とあるので、このジーモアの本の内容を要約したもののようです。この本は「芸術作品としてのフィレンツェ」といったようなテーマで都市や建築、その中にある美術品やパトロンについて論じたものです(研究書というよりもエッセー風の読み物)。既にお読みになっているかもしれませんが、ご参考まで。

なお、この本の中では、出席人数を「20何名」とし、市当局の発言については、ユディトが不吉であることは詳しく書かれていますが、ドナテッロのダヴィデのことは省略されているので、schiochaの部分は出てきません。また、市当局のフィラレーテについて、石鍋論文では「伝令」、壺屋めりの「世渡り術」では「政府の使者」ですが、この本では「一等布告官」となっています。(5/26の貴コメントでは「『官房長官』くらい重要な人物」とされていますが、イタリア語の原文の単語は何ですか? 5/27のコメントに書いたSaul LevinのArt Bulletin論文ではFrancesco, the first Herald of the Signoria です。)
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スタンツェの原語と木版 感謝です! (むろさん)
2021-07-24 23:19:22
早速のご回答ありがとうございます。昨日のコメント投稿の時はダメもとでもいいと思って、編集ロックのない文書と版画のサイトをお願いしたのですが、こんなに早く対応していただけるとは思っていませんでした。重ねて感謝申し上げます。

早速スタンツェの文字の一部をコピーして、翻訳ソフトにかけてみました。摩寿意善朗の1942年の本にイタリア語と日本語訳が出ている部分(原語では68)です。なお、この日本語訳はその後の摩寿意氏の著書(小学館 フィレンツェの美術4解説1972、集英社 世界美術全集4ボッティチェリ1976)にも収録されています。摩寿意氏の試訳(下記)は詩としての格調を保つように書かれていますが、翻訳ソフトで出てきたものは、話し言葉なので意味は分かりやすいが、訳語が適切かどうかという問題と日本語に訳されなかった単語をどうするか(現代イタリア語ではないため?)の問題があります。今後は「原典イタリア・ルネサンス人文主義」を借りてから、日本語訳を確認していきます。
「されど愛の神は美しき復讐をなしとげ、ジュリアーノをしてシモネッタを恋せしむるや、 心も軽く暗き空をば急ぎ飛び翔け、幼きはらからむれ集いて彼を待つ国、彼の母(ヴィーナス)の治むる国へと行き着けり。その国に美の女神は楽しげに舞い踊り、麗しの花々は冠のごと髪を飾る、心たわけし風の神は花の女神の背を掠め、若草はその国に花咲きて茂りたり。」

また、木版の方ですが、これも全体像を見たのは初めてです。文字としてはこちらが15世紀当時のものだと思うので、上記の日本語訳版のコピーを手に入れてから、この木版も参照しながらチェックします。矢代・摩寿意版掲載の原語が「現代イタリア語訳」だろうというご説明もなるほどと思いました。

ジュリアーノとシモネッタのジョストラについての事やボッティチェリのプリマヴェーラ、ヴィーナスの誕生の着想源として「ポリツィアーノのスタンツェ」があることを知ってから、今回その原文と日本語訳の全文を読むことができるようになるまで40数年、やっとここまで来たという感じがします。

岡田温司氏の件、アガンベンとかルイ・マランとか、私もこの手の本は難解過ぎてあまり読む気がしません(ルイ・マランの「絵画を破壊する」はカラヴァッジョのメデューサの関係で読んだのですが、さっぱり理解できず。)岡田温司の本も苦手なものが多いですね。「ミメーシスを越えて」なんて、これもカラヴァッジョの聖トマスの不信の関係で読んだのですが、理解できずに何度も読み返しました。2001年の「カラヴァッジョ鑑」の頃から難解な著書が多くなってきたような気がします(2009年ボルゲーゼ美術館展図録掲載「作者を捜せ!ボルゲーゼ美術館とふたりの目利き」のように分かりやすいものもありますが)。

なお、岡田温司氏については、5年ぐらい前にカトリック系の大学で開催された講演会を聴講して、初めてご尊顔を拝見しましたが、尖った茶髪に独特の眼鏡の小柄な方という感じで、印象としては昔テレビドラマの主題歌「ロマンチックが止まらない」を歌っていたCCBのドラム&ボーカル(笠浩二)に似ていると思いました。講演会の内容はそれほど難解ではありませんでした(一般聴講者対象なので当然ですが)。
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ポリツィアーノ (fontana)
2021-07-24 10:42:04
むろさん
コメント&情報ありがとうございます。
私もようやく連休で落ち着いてブログに向かえる状況なので気にしないで下さい。

失礼しました、一番簡単なサイトを見落としていました。
こちらにフルテキスト出ていました。
https://it.wikisource.org/wiki/Stanze_de_messer_Angelo_Politiano_cominciate_per_la_giostra_del_magnifico_Giuliano_di_Pietro_de_Medici

挿絵の入ったものはこちらで見られます。
https://archive.org/details/
ita-bnc-in2-00002258-001/page/n12/mode/2up

Xilografiaなので木版画ですね。

文字の違いに関しては、一応原本も口語で書かれていますが、15世紀当時の、ということで私たちにとっては古文ですね。矢代・摩寿意版は現代イタリア語に”訳した”のでしょう。

アガンベンの「スタンツェ」積読したままです。個人的にはアガンベン自体が難しいですが、更に岡田氏の本も苦手です。(このブログ昔時々読んでいました)
岡田氏は大学院の学生を得意言語に分け翻訳ばかりさせ、なかなか研究の指導はしてくれないと実際彼の講座に所属していた人がぼやいていました。
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Stanze di Angelo Poliziano (むろさん)
2021-07-23 16:53:36
「ポリツィアーノのスタンツェ、原語版」ご紹介ありがとうございます。
この1週間は日本美術の展覧会に行くための準備(資料さがし等)をしていて、お礼のコメントがすっかり遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。

さて、教えていただいた原語版ですが、いくつか確認したいことがあります。
まず、このPDF文書、編集不可のロックがかかっていて、紙への印刷と文書コピーができません。印刷の方はSnipping toolで切り取り、JPG形式にして印刷できますので、大きな問題はありませんが、文書認識のコピーができないのは翻訳ソフトにかけられないので問題です。JPG形式に変換したものを文字認識ソフトで再度変換するという手もあると思いますが、文字認識ソフトも誤認識が結構多いので、手間を考えるとやる気にはなりません。他のサイトがないか探しましたが見つかりませんでした。もし、ロックがかかっていない他のサイトをご存じなら教えてください。なお、この件については、2ヵ月ぐらい待って「原典イタリア・ルネサンス人文主義」を借りることができたら、日本語訳で気になる部分だけをイタリア語の手入力で翻訳ソフトにかけることになると思います。

次にこのポリツィアーノのスタンツェ、私が昔入手した矢代幸雄のBotticelli(1929発行の英語版2nd ed.のコピー)と摩寿意善朗のボッティチェリ(1942発行、邦語、コピー)にジュリアーノとシモネッタの関連部分(イタリア語)が掲載されていますが、ご紹介の文章と比較すると文字に多少の違いがあります。例えば、47の1行目「Ell’era assisa sovra~」のsovraが矢代・摩寿意版ではsopraとなっていたり、68の6行目「ove Bilta di fiori al~」のBiltaが矢代・摩寿意版ではbeltaとなっています。これはどういうことなのでしょうか(ご紹介の文書は1988年となっているので、矢代・摩寿意版の時代よりも研究レベルが進歩して、戦前に出ていた活字版と多少変化したということ?)。日本の古文書(日本書紀や吾妻鏡等)でも昔は手書きで写していたので、伝来した版により文字が異なるということはよくあり、大元は何であったのかを調べるのが、研究者のテーマとなっていますが、これもそういうことなのでしょうか。(矢代の本の邦訳版、岩波1977では日本語訳のみで原語は掲載なし)

また、これに関連して、若桑みどり著「世界の都市の物語13 フィレンツェ」文藝春秋1994のP219にこのスタンツェの版画(木版?石版?銅版?)の1ページが出ていて、挿絵と文章があり、36~38の一部が読めます。36の5行目「qual fino al labro sta~」から38の4行目「e lo raffrena sovra alla verdura」までですが、これも多少違うようです。こちらの方は版画なので、1475年当時の出版か、後の時代に作られたものかは分かりませんが、かなり古いもののように見えるので、この版画版の方も全体を見たいと思っています。そして、こちらの方は何と言っても挿絵が魅力的に思えます(インターネットで調べて出てきたものでは下記URL。itなので途中で分割したのですが、うまく投稿できないのでjpに置き換えました。)
https://the-borgias.forumfree.jp/?t=73216465

何枚か掲載されている挿絵のうち、2枚目と3枚目のミネルヴァ?がまさにボッティチェリを思わせる絵です(3枚目が上記若桑氏の著書の掲載図)。ジュリアーノと思われる騎士も堂々としていて素晴らしいと思います。
この版画版スタンツェの全体が読めるサイトをご存じなら教えてください。

その他、ご回答いただいた件については以下にまとめて書きます。

ご存じと思いますが、名古屋大学出版会の下記サイトに「原典イタリア・ルネサンス人文主義」が詳しく紹介されています。
https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0625-5.html
また、私が先日ジュンク堂でもらった小冊子がネット上に出ていましたので、ご参考まで。
https://www.kinokuniya.co.jp/03f/book/21-06-10-11-26.pdf

「部屋が転じて恋愛詩を保管する場」の件は、アガンベン著、岡田温司訳の「スタンツェ」を検索していたら、下記の個人のブログが出てきたので、これを読んで思いついたことです。何となく分かったような感じですが、岡田氏の本は翻訳であっても難解なので読む気はしません。
http://blog.livedoor.jp/rsketch/archives/51309861.html
https://1000ya.isis.ne.jp/1324.html

ご紹介の「イタリア語の詩作法について」の中に「Quànt’ è bèlla giovinèzza che si fùgge tuttavìa !」の詩が出ていますね。私はYoutubeを見る時にはこの歌(下記URL)から入るようにしています。ゴッツォリの描くパラッツォ・メディチ・リカルディのロレンツォ豪華王が画面に出て、この曲が流れます。
https://www.youtube.com/watch?v=HdzXdtNIVfk&list=RDMM&start_radio=1
返信する
気になっていました (fontana)
2021-07-17 12:08:05
むろさん
コメントありがとうございます。
こちらこそ、何もかも中途半端で放置したまま、投稿もすっかりご無沙汰しています。国会図書館から取り寄せた石鍋氏の論文もまだ読めていません。フルタイムで仕事をするとこうも時間も気力もないものかと思っています。

実は私も数週間前新聞の広告で「原典 イタリア・ルネサンス芸術論」をみつけて気になっていました。(今朝も朝日新聞に出ていたので、非常にタイムリーでした。)値段が値段なので、図書館に入るまで待とうと思っていたところです。

「部屋が転じて恋愛詩を保管する場のことでしょうか?」そういう語源があるかどうかわかりませんが(ロマンチックでいいですが)、stanzaは”部屋”という意味以外に、通常8行が一連の詩節を表します。これはstanzaの室内を壁で”区切られた”、”限定された”スペースという意味から転じて、規則正しい詩節のことをstanzaというようになったそうです。翻訳のタイトルにスタンツァを敢えて残したのは(辞書にも「スタンツァ」で出ています)、日本語にすると「詩」になるので、日本人がイメージする「詩」との相違を明らかにさせるためではないでしょうか?ちなみに音楽用語でもstanzaは使われ、歌詞の一節を指します。
私は詩は全く分からないので、ちょっと検索してみたらこちらに詳しく出ていました。(Google ブックスで関連のある個所だけ拾い読みしました)
新装版 イタリアの詩歌: 音楽的な詩、詩的な音楽、著者: 天野 恵、 鈴木信吾、 森田 学
またこちらの論文も参考になるかと。
https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/750

「アンジェロ・ポリツィアーノのスタンツェで原語」これだと思います。
http://www.letteraturaitaliana.net

/pdf/Volume_3/t321.pdf
(続けていれるとエラーになるので切りました)
来週は連休なので、少し落ち着いた時間が取れそうです。
返信する
アンジェロ・ポリツィアーノのスタンツェ日本語訳 (むろさん)
2021-07-13 23:59:13
半年も前の記事に関することですが、関連する内容があったので投稿します。
シモネッタ・ヴェスプッチの絵に関してのコメント投稿は、シュテーデルで開催されたボッティチェリ展の図録の論考をよく読んでからにしたいと、2/4のコメントに書きましたが、その後ミケランジェロのダヴィデ像設置に関することや、その他のテーマでいろいろ調べていたこともあり、そのまま放置した状態です。4月以降は日本美術の展覧会(東博の鳥獣戯画展出品の明恵上人像、聖林寺十一面観音展、本日から始まった法隆寺と聖徳太子展、また、福富太郎展など)で次から次と調べることが出てきて、過去の宿題は手がついていないという状態です。(ドナテッロのダヴィデ像のschiochaの件は近いうちに追加コメントします。)

そのような中で本日、シモネッタ・ヴェスプッチに関係することで興味深い本を見つけました。
久しぶりに池袋のジュンク堂へ行ったら、「池上俊一『原典 イタリア・ルネサンス芸術論』刊行記念フェア」という展示を歴史書・哲学書のコーナーでやっていて、同書の他、ヴァザーリの芸術家列伝(中公美版と白水社版)その他ルネサンスの芸術論に関する本が並んでいたのですが、この中で同じ池上俊一氏の「原典 イタリア・ルネサンス人文主義」という本に目が止まりました。この本の中にアンジェロ・ポリツィアーノ著「ジュリアーノ・デ・メディチ殿の馬上槍試合に捧げるスタンツェ」という書の日本語訳が掲載されていました。このスタンツェ(部屋が転じて恋愛詩を保管する場のことでしょうか?)については、高階秀爾、若桑みどり、石鍋真澄各氏の本などで簡単に紹介されていましたが、まさか全文の日本語訳が出ているとは知りませんでした。2010年の発行とのことなので、早速都内の図書館を調べたら、複数の区にあることが分かったので、地元の図書館に取り寄せ依頼を出すことにしました。1~2ヵ月待てば手に入ると思います。なお、この池上俊一氏のシリーズは芸術論上下、自然学上下、人文主義の計5冊で、今回6月の芸術論上下の2冊同時発行により完結です。芸術論もチェリーニ、ギベルティなどの著作を含んでいるので、いずれ図書館に入ったら借りてみたいと思います。

私はイタリア語は理解できませんが、schiochaの件やaria virile、aria dolceのことで、日本語訳がある文書であっても原語でどのように表記されているのかを知ることは大切だと思っています。もし、このアンジェロ・ポリツィアーノのスタンツェで原語をインターネットで読めるサイトをご存じなら教えてください。日本語訳が手に入るまで時間がかかりますので、急ぎませんから、お時間がある時にでもお願いします。
返信する
間違えます。 (fontana)
2021-02-21 09:38:56
むろさん
お返事が遅くなり申し訳ありません。
私もFelicitaとFeliceは混乱します。

修復したてのGiottoの磔刑図を間近で見られたのは、貴重な経験でした。
https://blog.goo.ne.jp/fontana24/e/181d6fc8d3626db9c0b3102af3525979
しかし、その後購入した本は、全く読めていません。
リミニはピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画が良かったですね。
ベッロズグアルドの別荘周辺には行ったことがありますが、この辺りからの遠景が描かれたことは知りませんでした。
本当に再訪出来る日が早く来て欲しいですね。昨年から色々教えて頂いたので、行きたい場所がいっぱいあります。
返信する
ジョットの板絵十字架像 (むろさん)
2021-02-10 23:26:47
初めてオニサンティへ行ったのは今から40年ぐらい前で、ジョットの板絵十字架像については、その時点でRizzoliのあのシリーズ(Abramsの英語版)を持っていたので、当然見るべき作品の一つとしてリストアップしていました。Rizzoliの本では、ジョットの板絵十字架像として、SMノヴェッラ、リミニのテンピオ・マラテスティアーノ、パドゥヴァのエレミターニ(以上は真筆かそれに近いもの)、工房作としてフィレンツェのサン・フェリチェ、オニサンティ、サン・マルコ(教会側)の6点が挙げられています。このうち見ていないのは(少し記憶が曖昧ですが)多分リミニの絵だけで、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画やジョヴァンニ・ベリーニのピエタと合わせ、将来の課題です。オニサンティの絵の修復のことは、芸術新潮2018年1月号に鮮やかな色の写真(ラピスラズリの青が綺麗!)が出ていたので、これも将来フィレンツェに行った時に是非見たいと思っています。同誌の解説では2002年から9年間に及ぶ修復とあり、2010年秋の公開直後にご覧になられたのですね。昔見た時の記憶はほとんどありませんが、綺麗な色でなかったことは確かです。

オニサンティへはその後も1~2度行っていますが、この近くにあるヴェスプッチ家やボッティチェリの家があった位置もほぼ特定しているので、これらの確認と合わせ、オニサンティへ行きたいと思っています(シモネッタとボッティチェリは同じ町内の顔見知り?!)。このようなボッティチェリゆかりの場所巡りとして、ベッロズグアルドの別荘(ハーバード・フォッグ美術館の「神秘の十字架像」に描かれたフィレンツェの遠景がこの地から見た景色。別荘位置はS.Vito教会付近。ベッロズグアルドについては下記URL)とか、絵が元あった場所の探訪(例えばウフィツィ受胎告知フレスコ画はサン・マルティーノ・アラ・スカラ病院から。今は刑事法研究所の建物)も考えているので、早くイタリア旅行ができることを願っています。
https://www.destinationflorence.com/en/details/6555-bellosguardo-itinerary-%2523slowflorence

なお、余談ですが、上記のSan FeliceとSanta Felicitaを間違える人が時々いるようです。ともにピッティ宮の近くにあり、名前も似ているので、我々日本人には仕方がないと思いますが、Felicitaの方はピッティの手前にある、ヴァザーリの回廊の上から内部を見下ろすことができる教会で、ポントルモの絵がある所。Feliceの方はピッティの先で、ボッティチェリ工房作の三聖人(聖アントニウス、聖ロクス、アレクサンドリアの聖カタリナ)の板絵と上記ジョット工房の十字架像板絵がある教会。フィレンツェに10年住んでおられたfontanaさんは当然よくご存じと思いますが、私自身どっちだったかと一瞬迷うことがありますので、念のために。

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ありがとうございます。 (fontana)
2021-02-06 11:34:08
むろさん
ありがとうございます。
またご丁寧に訂正を加えて頂き、重ね重ね感謝いたします。
「ルネサンスに生きた女性たち」確認しました。
そうですね、墓は礼拝堂です。
オンニサンティは、教会の前はよく通っていましたが、Giottoの「キリスト磔刑」の修復を終えた時から行ってないので(既に10年前でした)、次回はじっくり再訪しようと思っています。

シモネッタ考は楽しみにしております。
何卒よろしくお願いいたします。
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シモネッタ・ヴェスプッチ(その2) (むろさん)
2021-02-04 01:26:04
上記コメントで書いたふくろうの本「ルネサンスに生きた女性たち」によれば、「1474~75年の冬は近年にない寒波で、シモネッタは1月の馬上槍試合の翌日から高熱を出して寝込んだ。そして二度と人々の前に現れることはなかった」とあります。翌年4月に23歳で結核で亡くなるので、ジュリアーノに勝利の兜を渡す女神役のシモネッタの姿は、フィレンツェ中の人々の記憶に焼き付いたと思われます。上記本文記載と同様、ふくろうの本でも「ロレンツォ豪華王が企画し、弟ジュリアーノを正式に諸外国に紹介するとともに、フィレンツェの主権はロレンツォにあることを内外に印象付けるため」とされ、また、若桑みどり著フィレンツェ(文芸春秋社1994年)でも「1469年のジョストラはロレンツォのジョストラ、1475年のそれはジュリアーノのジョストラと言われ、ともにメディチ家の大宣伝の一環だった」とあります。16歳で同い年のマルコ・ヴェスプッチに嫁いでフィレンツェにやって来たシモネッタと、これも同い年であるジュリアーノ・デ・メディチの関係が恋人であるのかどうか、昔からいろいろ説があるようですが、ふくろうの本ではマルコは「虚栄心が強く、金遣いも荒く、凡庸な人物で、フィレンツェ共和国のあまり重要でない官職もいくつか務めた」とあり、一方でジュリアーノは兄ロレンツォが醜男だったのに対し、容貌も性格も申し分のない貴公子で女性からの人気も高かったようなので、夫より強く魅かれても当然という気がします。ヴェスプッチ家は一族のアメリゴ・ヴェスプッチが航海士として有名であるように、海運業、特に明礬の貿易でメディチ家と協力関係にあり、はるかに裕福なメディチ家の当主ロレンツォに対して忠誠を誓うことは利益にかなうので、夫マルコにとっても妻シモネッタをロレンツォが企画したジョストラの女神役として出演させることは、マルコにもメリットがあったはずです。しかし、これがシモネッタの死につながったのなら皮肉な運命ですね。(メディチ家の主要産業である毛織物業で明礬を使い、シモネッタの実家カッターネオ家とヴェスプッチ家のつながりも明礬貿易。ヴォルテッラの悲劇の原因の一つも明礬の採掘関連であり、1478年のパッツィ家の陰謀もこれが関係。)

春の戴冠で辻邦生はシモネッタがヴェスプッチ家を出て、ジュリアーノと暮らしていたことがあったように書いています。小説なので事実が不明な部分をどのように書いても自由ですが、実際にはその可能性は低いと思います。また、1475年のジョストラや翌年のシモネッタの死がランドウッチの日記に何か書かれているかと思って確認しましたが、残念ながらこの件は記載されていませんでした(1478年のパッツィ家の陰謀のことは詳しく書かれています)。

私が初めてフィレンツェに行った時は、ローマからの日帰りであまり時間がなかったため、ウフィツィ美術館、シニョリーア広場(サヴォナローラ処刑跡)、ボッティチェリゆかりのオニサンティ教会の3か所だけは必ず行く予定でした(アカデミア&ピッティ美術館、サン・マルコ、サンタ・クローチェ、SMノヴェッラなどよりもオニサンティを優先)。そしてオニサンティでは絵を見る他にボッティチェリの墓も大きな目的でしたが、今思うとヴェスプッチ家礼拝堂ではギルランダイオのフレスコ画にばかり気を取られ、ここがシモネッタを含む一族の墓であるということはあまり意識していなかったようです。(オニサンティの主祭壇にもヴェスプッチ家の紋章があるそうですが、墓は礼拝堂の方ですよね?)次回また行く機会があったら、シモネッタもここに葬られているという意識で礼拝堂を見ようと思っています。(ギルランダイオのフレスコ画「ミゼリコルディアの聖母」の聖母マリアや右下の胸に手を当てる女性の顔をシモネッタとする説もあるようです。それが事実なら18歳か19歳の頃の若妻ということになります。)

ボッティチェリ(工房)作シモネッタ像の別バージョンについてですが、丸紅シモネッタについて書かれた本や何冊かのカタログレゾネの記載をただ要約するだけでは、「数点存在するどの作品も工房作かコピー作」という通り一遍のコメントにしかならないので、私にとってもあまり面白くありません。フランクフルトのシュテーデルで開催されたボッティチェリ展の図録(英語)に、同館所蔵のシモネッタの絵に関連して、シモネッタ・ヴェスプッチについての総合的な論考が掲載され、また、素描家ボッティチェリとしての論考の一部にオックスフォード・アシュモレアン所蔵のシモネッタの素描と丸紅やシュテーデルのシモネッタの絵との関連などが書かれています。私にとってもいい機会なので、これらを読んでからコメントしようと思いますので、しばらくお待ちください。シャンティイ・コンデ美術館のボッティチェリ工房作ポモーナ(果実の寓意)とバチカン・システィーナ礼拝堂のボッティチェリ壁画との関連などもその時に書きます。

次に、前コメントの訂正です。①丸紅シモネッタの古い写真との違いで書いた右目の下のまつげが「古い写真では描かれているが、購入した絵にはない」の記述は逆で、「購入した絵には描かれているが、古い写真にはない」が正です。この部分がよく分るのは、森田義之著朝日グラフ別冊ボッティチェリ 1988年掲載図版で、全体図と頭部の拡大図が載っています。物指しを当てて寸法を測ったら、この拡大図は実際の絵のほぼ原寸大のサイズであり、目の下のまつげがよく分ります。②摩寿意善朗の本「ボッティチェリ」は1941年ではなく戦時中の1942年発行でした。太平洋戦争開始の約1年後の出版で、時代を反映して非常に質の悪い紙を使っていますが、この時期に世の中の動きと関係のない、こんな大きくて優雅な本をよく出版できたものだと思います。③印象派の絵の貸し出しを例に、海外からの貸し出し要請のことを書いた部分で、「このシモネッタの絵は会社の所収」と書いたのは「~会社の所有」の誤りです。

最後に「春の戴冠」のことを付け加えると、この小説の主役はサンドロ・ボッティチェリ、語り手はサンドロの友人として著者が創作した古典学者フェデリゴ(モデルはルカ・ランドウッチ。新潮社「波」辻―高階対談より)ですが、前半の話の中心はシモネッタ、後半はサヴォナローラだと思います。1977年発行の単行本上下巻のうち、上巻の最後の場面は1476年のシモネッタの死、下巻最後の場面は1498年のサヴォナローラの処刑です。

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感謝、感謝!! (fontana)
2021-02-02 18:17:28
むろさん
長文のコメントありがとうございます。
非常に面白いですね。急ぎませんので、是非別のバージョンやピエロ・ディ・コジモの件も教えて下さい。
また、お願いついでで申し訳ないのですが、シャンティイ城のボッティチェリ工房作に付いてもご存知のことが有ればご教示ください。

「ルネサンスに生きた女性たち」は多分持っていると思うので、再読してみようと思っています。
いつも有益な情報をありがとうございます。引き続きよろしくお願いいたします。
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ありがとうございます。 (fontana)
2021-02-02 18:12:41
カンサンさん
ブログ拝見しました。
私が行った時も、駅から城まで人はいなかった気がしますが、あんな森みたいなところを抜けて行ったんですねぇ…私の写真にはないところも有ったので、非常に参考になりました。
オペラ座にも行かれたんですね。私もシャンティイに行ったときと同じ2016年3月に行きました。シャガールの天井画が最高でした。
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丸紅のシモネッタ (むろさん)
2021-02-01 23:33:10
上記コメントで、オークションの96億円の方に書くと言いましたが、他の作品の取り引き金額のことも書いていると時間がかかりそうで、「丸紅のシモネッタがどういう経緯で日本に来たのか」というご質問なので、この絵のことだけをこちらにコメントします。

この丸紅の絵の件は、芸術新潮1969年12月号に詳細に書かれています。読売新聞1969年10月6日朝刊に「1億5,000万円 名画にナゾ 美術書と違う部分」の見出しで、「9月末の英国フェア関連でこの絵は日本に持ち込まれ、1億5,000万円で山種美術館が買い取ることになったが、過去の美術専門書の写真との違いが指摘され、本物に修正が加えられたのか、模写作品かが取沙汰されている。絵の輸入に当たった丸紅アートギャラリーはロンドンに来歴の再確認を依頼した。」とあります。そしてこれを受けて10月6日夕方に丸紅が説明と記者会見を行い、その内容が上記芸術新潮に詳細に記載されています。新聞の方は読売10月7日朝刊に「長い年月の修整で」「名画のナゾに当事者弁明」という簡単な紹介記事が出ています。

過去の美術専門書の写真との違いというのは、「首にかけられたネックレスの珠の左から3個目と4個目の間が古い写真では間隔が開いているが、購入した絵では間隔が開いていない」「右目の下のまつげが古い写真では描かれているが、購入した絵にはない」「頭部最上部の髪の毛を編んだ部分が古い写真の方がやや大きい」の3点です。私は戦前の古い本(矢代幸雄のボッティチェリ―但し1977年の岩波日本語訳版。写真は1929年の第2版当時のものを収録―とボーデのサンドロ・ボッティチェリ1921年独語版)を持っていますが、両方とも掲載写真は上記3点が違う古い写真が出ています。

芸術新潮の記事では、調査の結果、古い写真との違いは修復によるものとの説明があったことの他、「集まった記者たちは矢代幸雄やボーデなどの学者の権威付けを聞きにきたのではなく、絵が本物か、真筆かどうかを具体的に説明してほしい」といった意見で紛糾したことなども書かれています。来歴については、1809年以前にボローニャからパリに、1892年にロンドンに、さらにベルリンのカッペルのコレクションに移り、カッペルの死後、娘婿のノアーク博士(orノア博士)、ノアーク夫人、戦時中はナチスに接収されたが、戦後返還され、ノアーク夫人は1967年にサザビーズ社のオークションに出した。そして、ホースバラ画廊が9,500万円で落札。山種美術館が買うということで、丸紅アートギャラリー(及び弥生画廊、幸画廊の専門家)が仲介した、ということですが、私が想像するに、この騒ぎで山種美術館は購入を取りやめ、結局丸紅本社が引き取ったということだと思います。今我々はこの絵を「丸紅のシモネッタ」と呼んでいますが、戦前のボッティチェリの本(矢代1925&1929年や摩寿意善朗著1941年)では「ノアーク博士のシモネッタ」という通称で呼ばれているようです。なお、ライトボーンのボッティチェリ(1978年の2巻本のうちVolⅡカタログレゾネ)やPonsのカタログレゾネ(1989年Rizzoli)ではヤマザキアートギャラリーと書かれていますが、このヤマザキと山種、丸紅がどう関係しているのかは不明です(Ponsの方は所在不明とも書かれています)。また、芸術新潮の記事では、ロンドンNGも欲しかったが予算的に無理だったとあるので、ホースバラ画廊の落札時点では買い取り先は決まっていなかったようです。また、この騒動の後、東京芸大の寺田春弐氏が科学的調査を行い、絵は贋作でも模写でもなく15世紀頃のものであることは確認されています(シモネッタ・ヴェスプッチの肖像についての調査研究報告、1971年)。この本、芸大図書館にありますが、コロナ騒動で現在学外者は利用不可なので、今は見ることができません。私も以前芸大で見たことはあります。
http://opac.lib.geidai.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BN13176956?hit=1&caller=xc-search

この丸紅シモネッタ、一般公開として私の把握している範囲では過去に4回ほどあります。①1988年1月に新宿・安田火災東郷青児記念美術館でゴッホのひまわりと同時に公開(ひまわりは1987年に58億円で購入。ひまわりはシモネッタのついでに見たのですが、この時初めて見ました)。②1989年11月に東京駅大丸で岡村崔写真展「ボッティチェリ ヴィーナスの誕生・春」の特別出品として展示。(9月、10月には大阪・京都でも開催。)岡村氏はシスティーナ礼拝堂のミケランジェロ壁画の写真などで有名なイタリア美術の写真家。③2008年11月に新宿・損保ジャパン東郷青児美術館の丸紅コレクション展で展示。④2016年1月に都美ボッティチェリ展で展示。
この4回とも全て見に行きました。実は1976年頃に集英社Rizzoli版世界美術全集ボッティチェリでこの絵が丸紅所有であることを知り、その直後に出た摩寿意善朗著集英社世界美術全集ボッティチェリの大判カラー写真を見て、国内にある唯一のボッティチェリの絵なら一度見てみたいと思っていました。1980年代前半ぐらいだと思いますが、丸紅本社に直接電話をかけて、一般公開の予定があるかを聞いたことがあります。「公開予定はない」という返事でしたが、その後上記の1988年になって、やっと念願が叶いました。その当時の新聞記事(日経1988.1.5)には「18年間一般の目にふれることがなく、丸紅の会長応接室に飾ってあった。現在の時価は少なくとも18年前の1億5,000万円の10倍以上といわれている」とあります。丸紅は上記の1969年の出来事(真贋疑惑で話題になり山種美術館が購入をキャンセルし、丸紅が引き取ったこと)をきっかけに、当分一般公開はしないことにしたのだと思います。1976年出版の集英社世界美術全集ボッティチェリ以降、森田義之著朝日グラフ別冊ボッティチェリ、高階秀爾他著中央公論美術出版ボッティチェリ全作品など、この絵のカラー図版を大きく取り上げている本はいくつかありますが、どれも作者判定については否定的な見解ではなく、工房作としているようです。一方、海外の本では取り上げていても所在不明としていることが多く、この10数年前からやっと「丸紅、東京」という所蔵先が書かれるようになってきました。これは海外への情報発信や貸し出しをしていなくて、研究者の目に触れることが少ないためだと思われます。国内にある印象派の絵などでは、あまり有名でない美術館の所有でも、貸し出しのバーターとしての意味合いから海外からの貸し出し要請もあるようですが、このシモネッタの絵は会社の所収なので、そういう機会もあまりないということでしょうか。研究が進むためにも、積極的に海外に貸し出して広く知ってもらいたいという気がします。

この絵について、他に数点あるバージョンとの比較やジュリアーノの肖像との関係、パラティーナ美術館のボッティチェリ作シモネッタとされる絵や前コメントで書いたシャンティイ・コンデ美術館のピエロ・ディ・コジモ作シモネッタなど、絵自体の評価についてもいろいろ話題はありますが、長くなりましたのでご興味があれば別コメントで書きます。(もう十分ということならやめます。)

その他、シモネッタの関係でお勧めの本(一般書)を一つだけ挙げておきます。川出書房新社ふくろうの本 図説「ルネサンスに生きた女性たち」2000年 にシモネッタ・ヴェスプッチで一項目を取り上げ、出身地ポルトヴェーネレやジェノヴァのシモネッタゆかりの場所・建物の写真やジョストラのことなどを書いています。この本はフィリッポ・リッピの若い妻、尼僧ルクレツィアやイザベラ・デステなども扱っています。シモネッタにご興味があれば上記の芸術新潮とともに図書館でご確認ください。

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シャンティ城 (カンサン)
2021-02-01 19:03:34
fontanaさんへ、私もここに行ったことがあります。2018年12月30日です。(fc2のブログに詳しく書いています。お時間がある時、ご覧ください。)
電車で行きました。駅から競馬場を通ってふらふらと小1時間くらい歩いていきました。歩いている時、ほとんど誰もいなかったように記憶しています。
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お待ちしています。 (fontana)
2021-01-31 21:10:31
むろさん
コメントありがとうございます。
確かに遠かったですね。競馬場を見ながらまだかぁ…と思った記憶がありますが、帰りは街をブラブラ、お菓子屋さんに寄り道したりしたので、気にならなかったのですが、パリについてどっと疲れてしまって、和食で済ませてしまいました。
ベリー公は全てデジタル化されていて、全く本物は見られませんでした。(デジタルでも決まったページしか見られなかったはず…)

丸紅の件はお待ちしています。
というのも、記事を書きながら、一体どういう経緯で日本に来たのか疑問に思っていたからです。
急ぎません、よろしくお願いします。
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シャンティイのコンデ美術館、丸紅のシモネッタ (むろさん)
2021-01-31 20:43:48
シャンティイのコンデ美術館へ行ったのはもう30数年前、ボッティチェリ工房作のポモーナ(豊穣の寓意)を見るためですが、ついでに見たラファエロの聖母子2点や三美神、ピエロ・ディ・コジモのシモネッタもなかなか良かったことを覚えています。また、ベリー公のいとも豪華なる時祷書のコピー展示があったことも(実物はほとんど展示していないようです)。お城も小さいけれどいい雰囲気だったと思います。
ここへ行く時に駅で聞いたら徒歩で15分ぐらいと言われたのに、行ってみたら30分以上かかって、さすがに帰りはタクシーを呼んでもらいました。往きの徒歩の途中に馬の博物館があったこともよく覚えています(まだ道のりは半分かと思って、溜息が出たことも)。

実はボッティチェリの絵のオークション96億円落札の関連で、上記本文記載の丸紅所蔵シモネッタの絵を購入した時の価格を確認するために、古い雑誌や新聞記事を出して見ていたところです。この件については明日にでも他のルネサンス絵画の取り引き価格の例とともにオークション96億円の記事の方に投稿します。

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