中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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秋の信濃路:北国街道・浅間山.海野宿を巡る(2):在来線で横川へ

2009年10月15日 21時15分36秒 | 関東・伊豆箱根・上信越

              <特急「あさま」の運転席:「碓氷鉄道文化むら」にて>

   秋の信濃路:北国街道・浅間山・海野宿を巡る(2):在来線で横川へ
             (単独および家族旅行)
        2009年10月9日(金)~12日(月)

第1日目 2009年10月9日(金)

<湘南新宿ラインと信越本線>

■懐かしい車窓

 長野新幹線を利用しないで,在来線に乗って生まれ故郷の信州へ行くことにした私は,大船11時34分発湘南新宿ライン高崎行の電車に乗った.車窓を長めながらの長旅になるので,大船駅前のコンビニで,一寸した食べ物,飲み物を買い求めた.
 電車はそれほど混雑していないので,ボックス席,進行方向窓際の席に座ることができた.私は膝の上にリュックを抱えたまま席に座る.座った途端に,何とも言えない安堵感と期待感で,心が満たされるのを感じる.我ながら本当の旅好きなんだなと再認識する.
 車窓から眺める初秋の風景は,何とも素晴らしい.
 私は仙台の大学で学生時代を過ごした.春休み,夏休みになると,今,私を乗せた電車が走っている高崎線と東北本線か常磐線を使って,故郷の小諸と仙台の間を往復していた.あの頃と比較すると,浦和や大宮辺りの風景は一変してしまった・・・あの頃,といってももう半世紀も前のことだが,この辺りには鋳物工場が軒を並べていた.もう正確な位置は忘れてしまったが,見る角度によって煙突が1本に見えたり,2本,3本,4本になったりする「お化け煙突」も,懐かしい思い出である.
 「たしか・・・『キューポラの見える街』っていう映画もあったな・・・」
 私は胸に刻み込んである昔懐かしい風景と重ね合わせながら,車窓からの風景を楽しむ. 勿論,出発前にコンビニで仕入れた飲み物や食べ物を味わいながらである.そして,
 「これが旅の醍醐味なんだ・・・」
と一人悦に入っている.

 電車は,広々とした関東平野の真っ直中を,北北西の方向に快走しつづける.車窓を森,田畑,集落が次々に後ろに流れていく.やがて,利根川の長い鉄橋を渡り,14時04分に高崎駅に到着する.

            <信越本線の車窓から:関東平野が狭まり横川が近くなる>

■回想の横川駅
 湘南新宿ラインの電車は,途中で4分ほど遅延して高崎駅に到着したようである.私は跨線橋を渡って,信越本線の電車に乗り換える.一瞬,どうせ急ぐ旅ではないので,高崎で途中下車して,高崎観音でもお参りしようかと迷った.でも,今回は横川にある「碓氷峠鉄道文化むら」を見学したかったので,高崎14時10分発の電車に乗り継ぐことにする.
 信越本線で使用されている電車は,だいぶ古いもののようである.あまり定かではないが,かれこれ10年ほど前に東海道本線を走っていた車両のように思える.懐かしい気持ちを抱きながら,電車に乗り込む.残念ながらボックス席の進行方向の座席ではないが,妙義山が良く見える窓際の席に座る.
 車窓からの風景は,昔とさほど変わっていないような気がする.ただ,昔は一面の麦畑だったところが住宅地になっているような気がする.
 横川に近づくと,妙義山が見え出す.午後の日射しが逆光になって,ギザギザとした山稜が黒いシルエットになって見えている.この辺りから,線路の勾配がきつくなる.1000分の25の登り勾配を,蒸気機関車が喘ぐようにして,ゆっくりとした速度で登っていたのを,つい昨日のことのように思い出す.あの頃,この急勾配の路線を牽引していたのは,動輪が片側に4輪あるD50,およびD51という機関車だったな・・・そんなことを回想している内に,14時43分,無事に横川駅に到着する.
 昔は,横川から軽井沢まで,アプト式の電気機関車が牽引していた.坂の下側,つまり横川側には電気機関車が3両,軽井沢側には1両繋がれていたと思う(間違っているかも知れない).発車するときには,最初に先頭の電気機関車が,
 「ピー・・ッ」
と鋭い汽笛を鳴らす.すると後部に繋がれた電気機関車が,順番に,
 「ピー・・ッ」,「ピー・・ッ」,「ピー・・ッ」
と汽笛を鳴らす.この汽笛を合図に,列車はゆっくりと動き出す.
 蒸気機関車から電気機関車に繋ぎ換えるのに,どうしても時間が掛かるので,横川と軽井沢での停車時間は長かった.その停車時間を利用して,ホームで立ち食いソバを食べたり,駅弁「峠の釜飯」を買ったりして時間を潰した.
 私は,終点の横川駅の改札口を出る間に,こんなことを回想していた.

             <ノスタルジックな湘南電車の車両:横川駅にて>

<碓氷峠鉄道文化村>

■横川駅前広場

 実は,湘南新宿ラインと信越本線を乗り継いで,横川まで来たのは,今回が初めてではない.これまでにも,暇な時を見計らって,数回,同じルートで軽井沢まで旅をしたことがある.もちろん,このルートは,昔のアプト式のレールに乗って26個のトンネルを潜るほどの旅情は感じられない.それでも,長いトンネルを数個潜って訳の分からない内に軽井沢に着いてしまう長野新幹線よりは,余程ましである.
 更に言えば,1日1往復だけ走っている旧道経由のバスの方が,通常ルートのバスよりも,道がくねくねしているだけ余計に楽しい.
 横川駅の小さな待合室を抜ける.そして,待合室から広場に沿って150メートルほど離れたところにあるバス乗り場へ行って,軽井沢行バスの発車時刻を確かめる.
 狭い谷間に沿って,昔の信越本線の敷地がそのまま広場になっている.
 駅舎から広場を回り込んで,駅舎の反対側に廻ってみる.昔は軽井沢まで伸びていた線路が,無惨にもホームの端で行き止まりになっている.ただ1本,引き込み線だけが,その先まで通じている.長野新幹線ができる前までは,今は無くなっているこの先の線路を何回も,何回も往復していた.そう思うと,仕方がないこととはいえ,無性に寂しくなる.
 駅前にソバ屋がある.ソバの看板を見ると,吸い込まれるように店に入りたくなるが,ぐっとこらえて,広場を奥に進む.

            <横川駅前広場:突き当たりに「碓氷鉄道文化むら」がある>

■先が無くなった信越本線のレール
 程なく,「碓氷峠鉄道文化むら」(以下,文化村と略す)に到着する.文化村までの広場には,今は使われなくなった信越本線の線路が埋め込まれている.私は,この線路の間に沿って歩きながら,
 「この線路の上を,何回となく随分往復したな・・・」
と感慨に耽る.
 大東亜戦争の末期,東京大空襲直後,窓ガラスが全部割れた列車に超満員の被災者が,命からがらに信州まで逃げてきたときも,この線路の上を走ってきた.そういえば東京大空襲の時は,東京から160キロメートルも離れている小諸からも,夜になると東京の方向の空が,炎で彩られたドス赤黒い色に染まっていた.そんなことを思い出しながら,文化村の入口に到着する.

■碓氷鉄道文化むら
 受付で,お一人様500円也の入場券を購入する.入場券は,昔の国鉄の切符そっくりである.入口に改札口のようなゲートがあって,受付係が切符に入鋏する.
 引き替えに『碓氷峠鉄道文化むら』のパンフレットを貰う.


■アプト式のレール
  ゲートから中に入ると,アプト式ラックレールと車輪が展示されている.おなじレールの先には,懐かしい特急「あさま号」の車両が展示されている.
 アプト式レールを,シゲシゲと眺めるのは初めてだが,なぜ,歯車の刃と,レールの刃の凸凹が,一致するのか,昔から不思議で仕方がない.歯車の凸と,レールの凹がピッタリ一致しないと列車は走れないはずである.凸と凸が重なったら動けないはずなのに,なぜ,何時もピッタリ凸と凹が同期するのかが,どうしても分からない.でも,まあ,いいや・・・

     <アプト式の車軸とレール:その向こうに特急「あさま」号が停車している>

■特急「あさま」号
 アプト式レールの先に停車している特急「あさま」号の車体をシゲシゲと見上げる.懐かしい.多分,私もこの車両に乗ったことがあるだろう.この列車が走っていた頃は,小諸も随分と賑やかな街だった・・・
 特急「あさま」号の脇は,子ども向けのプレイランドになっている.機関車トーマス,ポッポさんなど,子供用の乗り物が沢山並んでいる.

                      <特急「あさま」号>

■最新鋭の電気機関車EF62,EF63
 特急「あさま」号の脇を通り抜けて,鉄道展示館に入る.ここには沢山の電気機関車が並んでいる.EF62,EF63など,お馴染みの電気機関車が展示されている.これらの最新鋭の電気機関車は,東海道本線などの幹線でしか使われていなかったように思う.
 展示されている電気機関車の運転席が入場者に解放されている.私は,昔の鉄道マニアに戻って,電気機関車の運転席に座ってみる.なるほど! 運転席って,こんな感じなのだ.私は,暫くの間,何となくレトロな雰囲気が漂う運転席の感触を楽しむ.


■アプト式電気機関車ED42
 展示場の奥に,碓氷峠で使われていたアプト式電気機関車ED42が停まっている.この機関車が,「ピィ・・」という鋭い汽笛を鳴らしていたのだ.


■鉄道展示館
 鉄道展示館を一回りしてから,鉄道資料館に廻ってみる.
 資料館に入ると左手に売店がある.鉄道ゆかりの小物類,書籍などが販売されている.売店の奥には,大きな「碓氷峠ジオラマ」がある.
 建物の2回に上がってみる.そこには碓氷峠に関連する資料,松井田駅の時刻表,模型,地図,運転手の制服などが展示されている.

■憧れの蒸気機関車D50,D51
 鉄道展示館前のダラダラとした登り坂を少し登ると,屋外展示スペースに到着する.
 まず,目に付くのが,蒸気機関車D5196である.Dは言うまでもなく動輪の数が片側に4輪ある機関車を意味している.当時,信越線にはD50(デゴマル)とD51(デゴイチ)が使われていた.
 私は,小諸の自宅から,上田の中学(後に新制高校になる)まで,6年間,汽車通学をしていた.終戦前後には客車が無くて,貨物車が客車代わりに使われていたこともあったが,機関車だけは,終始,D50か,D51だった.ただ,ごくまれに96××とかいう聞き慣れない蒸気機関車が客車を引っ張っていたこともあった.
 それにしても,D50の煙突は優雅な形をしていたな.D51の煙突はスッキリしていたな.
 今でも鮮明に覚えているのはD5195という機関車である.今はどこに居るのだろう? あるいはとうに鉄くずになってしまったかも知れない.とにかく,この機関車は格好が良かった.子どもの頃,D51の絵ばかり描いていたので,今でもD51の絵はすらすらと書くことができる.
 戦争末期から戦後にかけて,列車は超満員だった.客車に乗りきれずに,機関車の先頭にへばりついて乗ったり,炭水車の上に乗ったりで,随分と苦労して通学した.客車の上に乗っていて,頭上の橋に頭をぶつけて死んだり,デッキにぶら下がっていて振り落とされて死んだりで,列車事故はとても多かった.
 何しろ,DDTを,身体中が真っ白になるほど,頭から振りかけられた時代である.蚤,虱(シラミ)ばかりではなく,巷では赤痢やトラホームが流行していた.ドロボー,置き引きなど日常茶飯事.モラルも極度に悪化していた.
 戦後暫くして世相が安定してきた頃,おなじ機関車が信越線の列車を引っ張っていた.あの頃,食べかすは車内に捨てるのが当たり前,やがて,町の人間が竹の子生活をしているのに,農家が金持ちになり,すててこ姿のまま,海外旅行に出掛けるようになる.そんな時代になっても,相変わらずD50,D51は活躍していた.
 今,私の前に,D5196が展示されている.信越線でお馴染みだったD5195の次に製造された機関車である.このD5196にも見覚えがある.多分,中学生の頃,お目に掛かっているに違いない.


■ミニSL乗り場から軽井沢行バス停へ
 私はもう少し機関車を眺めていたかったが,軽井沢行バスの時間が迫っている.このバスを逃すと,次のバスまで2時間も待たなければならない.
 私は,ミニSL乗り場の脇を通って,文化村のゲートに向かう.ミニSL乗り場の待合室には,地元の高校生らしい男性2人が,ミニSL乗車を待っている.
 今度,ここを訪れるときには,是非,「とうげのゆ」駅までの遊歩道を散策することにしよう.そんなことを考えながら,文化村ゲートから外へ出る.
 再び広場を横切って,軽井沢行バスの乗り場に向かう.乗り場には,先客が1人居る.私より大分年上のように見える男性である.
   
                     <ミニSL乗り場>

                           (つづく)
「関東・上信越の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f9c740beb9a8f34ef04ef60b43bdfc0e
「関東・上信越の山旅」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/825d06fcb8f943dc316f8747fc9a0e1a 



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