<大光寺>
[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第6回);(2)神保原から神流川へ
(五十三次洛遊会)
2010年4月10日(土)
※本稿の初出は2010年5月10日である.
初稿の地図の差し替え,本文の加除修正を行った.
※お断り
時々,当ブログの記事について,誤字・脱字・転換ミスが多すぎるというお叱りを受けることがあります(コメント参照).気がついたときはできるだけ訂正するようにしていますが,所詮,当ブログは管理者の道楽.無責任な内容です.正確さは全く保証しません.また学術的な価値はゼロの雑文です.
企業のブログや市販本と同じレベルの手間暇を掛けているわけでもありません.あくまで仲間内だけの忘備録です.ご覧になってご不快に思われる方は,どうぞ,当ブログへアクセスはご遠慮下さい.
なお,引用箇所に誤字があったり,内容が異なることがある場合も無視して下さい.
<ルート地図>
<神保原駅から歩き出す>
■出発地点の神保原へ
中山道中の旅も,もう6回目になった.そろそろ私もこの旅にも馴れてきた.
春も4月10日ともなると,天気さえ良ければ,正にうららの旅日和になる.今日は待望の中山道中旅の日である.早朝,私は気持ちよく起床する.そして,朝日を浴びながら,心地よい朝の一時を過ごす.今日は,大船駅7時39分発湘南新宿ラインの電車に乗るつもりである.
塔ノ岳に登る日には,毎回,5時10分には家を出ている.だから,何時もより1時間以上遅い時間だと,正直なところ,時間を持て余してしまう.随分とユックリしたつもりだが,それでも早すぎる.そして,ついに堪らなくなって,6時25分に家を出る.そして近くのバス停からバスに乗ったら,6時40分に大船駅に着いてしまう.まだ,電車の時間まで小1時間ある.仕方なく,暇つぶしに,大船駅前のマクドナルドに入って,120円也のホットコーヒーを賞味しながら時間潰しをする.
湘南新宿ラインの電車は随分と混雑している.特段,座席に座りたいとも思わないが,私の前に座っていた人が戸塚で下車したので,戸塚からは運良く座ることができた.席に座った途端に,ついつい眠くなる.
8時42分,赤羽駅に到着する.ここで,8時48分発快速アーバン号に乗り換える.乗換ホームで同行者のお一人とバッタリ会うが,私がその辺りをのそのそと歩き回っている内に見失う.
9時58分,予定通り神保原駅に到着する.
■神保原駅から中山道へ
今日の参加者は合計11名.その内2名の到着が少し遅れたので,出発が予定より12分ほど遅れて,10時12分に神保原駅前を歩き出す.神保原駅前はゆったりと広く閑静である.駅前から道幅が広い素晴らしい道が伸びている.この道をほんの数分歩くと旧中山道と交差する.現在の国道17号線より100メートルほど手前である.ここで左折.前回の中山道の続きの道に入る.いよいよ第6回目の中山道歩きが開始である.
<神流川を目指して>
■薬師堂と庚申塔
市街地にしては比較的閑静な道である.道路の両側は住宅と商店が混在している.資料によると,進行方向左側,つまり南側に庚申塔があるはずだが,目を懲らして注意しているが見当たらない.仕方がないのでそのまま通過する.
直ぐに三叉路に突き当たる.三叉路を右折して北北西に進路を取る.10時29分,国道17号線との交差点にある薬師堂と庚申塔に到着する.広場の奥まったところに薬師堂が建っている.その両側に石塔がずらりと並んでいる.
<庚申塔群>
<庚申塔>
■金窪八幡神社
国道17号線を横切ると,旧中山道は西北西に方向が変わる.住宅が点在する真っ直ぐな道を歩き続ける.地図を見ると,この辺りは金久保という所らしい.
10時37分,金窪八幡神社(金窪神社)の前を通過する.進行方向右手,つまり北側に白い鳥居が立っている.鳥居からずっと奥の方に参道があり,突き当たりに社殿が見えている.
資料7によると,「この神社の総本社は宇佐八幡宮(宇佐市).御祭神は品陀和氣命(ほんだわけのみこと)([別称]誉田別命),[別名]応神天皇(おうじんてんのう),他10柱である.大永5年(1525年)創建.大永5年(1525年),金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮よりご分霊を勧請したことに始まるとされる.その後,天正10年(1582年)に,神流川の合戦で斎藤が敗戦してしまい,以後,村民によって祀られてきたという.その後,中山道の開通に伴い,現在地に潜在し,元々の鎮座地には,元八幡という名が継承されている.その後,明治以降,周辺11社を合祀し,八幡神社から金窪神社に改称された.」
この引用文でも明らかなように,この神社の正式名称は金窪神社のようだが,地図には金窪八幡神社になっているので,ここで両方の名称を併記しておくことにする.
<金窪八幡神社>
■金窪城跡入口
10時42分,進行方向右手の雑草の中に朽ち果てたコンクリート製(?)の柱が立っている.うっかりすると見落としそうである.この柱に金窪城趾入口と書いてある.
事前に調べていなかったので,金窪城の由来は全く分からない.
資料5の記事によると,以下の通りである(原文のまま).
「神流川に臨む崖上に位置し,平安末期の治承年間(1177-81)に武蔵七党の一党である丹党から出た加治家治が築城したと伝えられ,元弘年間(1331-34)新田義貞が修築して家臣の畑時能に守らせたという.室町中期の寛正年間(1460-66)には斎藤実盛の子孫といわれる斎藤盛光が居城した.天正10年(1582)6月,滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦で一族は討死し,城は焼失して斎藤氏は没落した.勝利した北条氏は金窪城を上州との境目の城として重要視し,鉢形城の支城としたが,天正18年,前田・上杉軍の前に鉢形城と共に落城した.徳川家康の関東入国後は武田信俊の所領となり陣屋が置かれたが,元禄11年(1698)孫信貞の時,丹波国へ転封となり陣屋も廃されたという.」
<金窪城趾入口> <陽雲寺>
■陽雲寺
10時47分,陽雲寺の前を通過する.参道の両側に大きな石柱が建っている.
入口の写真を撮って,そのまま通過する.陽雲寺の由来などは一切分からない.
資料6によると,以下の通りである(原文のまま).
「元久2(1205)年の創建と伝えられ、初めは唄樹山満願寺と称した。元弘3(1333)年新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立し、新田勝軍不動堂などと称された。天文9(1540)年金窪城主斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を崇栄寺と改めたが、天正10(1582)年の神流川合戦の兵火で焼失した。
天正10年の武田氏滅亡後、信玄の甥信俊は徳川氏に仕え、天正19年川窪与左衛門と名乗ってこの地に八千石を与えられ、養母である信玄の夫人を伴って入封した。
信玄夫人は当境内に居住したが、元和4(1618)年に没した。夫人の菩提を弔うため法号である陽雲院をとって寺号を崇栄山陽雲寺と改称した。」
■中山道案内板
10時52分,中山道案内板に到着する.
この案内板の説明によると,金窪村(現上里町大字金久保)には,1818年頃(文政期),162軒の建物があったようである.また,森町宿への直路ができるまでは,陽雲寺の東で北に向きを変えて角淵(現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていたという.そして,この道を三国街道あるいは伊香保街道と呼ばれていたらしい.
■庚申塔と一里塚跡
さらに単調な道を西へ向かう.やがて,右手,つまり北側に加美小学校の校庭が見え出す.小学校の敷地を過ぎて十字路を越えると,道路は緩やかに左に曲がり西南西に進路が変わる.
10時58分,右手に真っ平らな広場と畑が広がっている.私が住んでいる鎌倉付近では味わえないほど解放感のある広さである.その広場へ少し入ったところに立派な庚申塔が立っている.
<庚申塔群>
■一里塚跡
庚申塔の直ぐ近くに一里塚跡がある.小さなお社の脇に,一里塚跡と刻字された石柱が立っている. 江戸日本橋から23番目の一里塚があった場所である.
<一里塚跡>
■大光寺
一里塚から少し過ぎたところで,現中山道である国道17号線に合流する.その先に三叉路がある.この三叉路を左折して南へ向かう.高崎線を横切って,なだらかな下り坂を進む.天気が良いせいもあるが,辺りには何となく明るくて開放的な雰囲気が漂っている.
暫く進んで,11時07分に勅使山大光寺に到着する.真新しい建物の寺である.広々とした境内である.山門はなさそうだが,境内入り口に立派な石柱の門がある.参道の左手に立派な鐘楼がある.参道の奥に大きな瓦屋根の本堂が建っている.
広い境内には,全く人気がない.
境内に掲示されている説明文によると,この寺は臨済宗円覚寺派.1215年(健保3年),武蔵七党の一党である丹党,勅使河原権三郎有直が創建.勧請開山は栄西禅師である.
<大光寺の灯籠> <大光寺の境内>
<大光寺の鐘楼と本堂>
<神流川古戦場>
■神流川橋
大光寺から往路を引き返して,中山道に戻る.道幅の広い国道を,大きなトラックが次から次へと通過していく.激しい騒音.たちまちのうちに,騒々しさと慌ただしさにイライラしてくる.
11時19分,神流川橋(かんなかがわばし)に到着する.歩道が橋の北側,つまり私たちが歩いている側の反対側にしかない.近くに横断歩道もない.危険は承知で,車の切れ目を縫って,大急ぎで道を横切る.“みんなで渡れば怖くない”どころの話ではない.11人がまとまって渡っても怖い.
神流川は群馬県と埼玉県の県境を流れている利根川水系の河川のようである.川幅は結構広い.長い橋を渡りきるのに5分ほど要する.
橋の上から河原を見下ろすと,黄色い花が絨毯のように広がっている.私は花オンチ.うっかり花の名前を書いて,間違えるとハズカシイので,黄色い花とだけ書くことにするが,実に綺麗で見事である.
<神流川を渡る>
■常夜灯
橋の袂に石造りの立派な常夜灯のモチーフがある.
常夜灯の傍らに設置されている説明板によると,神流川は昔から暴れ川で,出水ごとに川瀬道筋を変えてしまうので,旅人や伝馬,人足にとって悩みの種だったという.
1815年(文化12年),本庄宿に戸谷半兵衛が,川の両側に燈籠を建立し,夜になると火を灯して夜道を往来する旅人の照準とした.もともとの常夜灯は,先ほど見学した大光寺の境内に移築されているとのことである.
<常夜灯> <神流川古戦場跡碑>
■神流川古戦場跡碑
橋を渡りきったところに,神流川古戦場跡碑が立っている.
傍らにある案内板によるとこうである.
「1582年(天正10年)6月19日,織田信長が本能寺で倒れた直後,関東管領滝川一益は信長の仇を討つために京に向かう.これに対して,好機到来と北条氏は5万の大軍を神流川に進めた.滝川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍1万6千人を率いて,死闘を展開する.滝川軍の戦死者3760人に及ぶ大激戦となった.」
(つづく)
[加除修正]
2013/2/21 ルート地図の追加と本文の加除修正を行った.
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://www.geocities.jp/ikomaihigasi/saitama/kanakubo.html
資料6;http://www5.big.or.jp/~ejiri/nakasen/exp/vk04/10younin.htm
資料7;http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=4403
「中山道中六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d07a6d75e3b121bf37c6d9c3f955e08d
「中山道中六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/76a7ec968b11287cb83600eb85cbbc45
「「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
※記事の正確さは全く保証しません.
この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.ご不快に感じられましたら,以後,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
最新の画像[もっと見る]
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
誤字・脱字・転換ミスがが多いことは,自分でも承知しています.失礼しました.
できるだけ直すようにしますが,所詮,ブログはブログ.正式な出版物ではなく,仲間内の連絡を目的に,個人が勝手に道楽でやっているもの.
公式ブログや書店の出版物と同じレベルの正確さは到底無理です.タダで多少でも情報が得られたら,それで良しとしていただけるのでしたら,どうぞ引き続きご覧下さい.
お気に召さないようでしたら,当ブログにアクセスしないようにお願いします.
ひどいのになると、引用文まで誤字で載せている。
これでは、原文が誤字を使っているように思われてしまい、失礼なことこの上ない。
例
「神流橋(かんなかばし)」「神流川橋(かんながわばし)」「
「1582年(転生10年)」「天正」
「滝川一蓋」「一益」
「議を重んじ」「義を」
「上武二州の国教を」「国境」
「常夜灯の傍らに接地されている」「設置」
「川瀬道筋を代えて」「変えて」
「本庄宿に戸谷半兵衛が」「本庄宿の」
「旅人の標準とした」「照準」
ほか多数。
ちなみに、わたしは神保原町の出身。
横浜市戸塚区に15年住んでいた。