♱ シャローム(主にある平安・平和)

シャローム:神様との和解 命溢れる真の平安 争いのない平和
十字架に秘められている死と罪からの解放・復活、そこに希望

今の暗いトンネルから明るいところへと一日も早く通り抜け出させてくださいますよう

2018-06-25 | 心の癒し


K様

信仰があっても私の信仰の弱さゆえ、時に人生の土台が揺らぐような感じに襲われて落ち込むことがあります(年に1~3回ぐらい)。人間は、本当に弱い存在だと思います。

 でも、なんだか知らないまに・・・、 聖霊の力によるのだと思いますが・・・、またスーッとその落ち込みが消え去るから不思議です。

 「死は天国の門」、これはキリスト教の教理です。

 それなら、「嫌なことばかりのこの世を離れて、早く死にたい」と思っても良さそうですが、信仰弱いので、やっぱり死は怖いしまだ死にたくないです。そう思うのは、神様が「まだ、この世にいなさい」と言われていることなんでしょうか。。。

「死がいよいよ間際に迫って来た時、私はどう思うだろう?うろたえるかもしれないな」と、そんな事を考えることがあります。でも、死をスーッと乗り越える力が与えられるに違いないと信じたいですし、「乗り越える力を与えてください 」というのが、私の祈りの一つです。

  子供の頃から21歳頃 (受洗前)までの私は、「どんな人も例外なく死ななければならない。死んですべてが終わりなら、目一杯人生を楽しまなきゃ損、損とばかりに面白おかしく生きたとしても、結局のところ虚しさに変わりない。だから、私は人生をはしゃいで生きられないな 。でも、もしかして死に対する答えが、どこかにあるかもしれない・・・きっとあるに違いない」と思うことがありました。

「人生は虚しい、虚しい」の厭世的な私でしたが、私を幸福感で満たしてくれたものもがありました。それは、恋愛でした。しかし、その幸福感は幻にすぎませんでした。 恋愛相手への偶像視。砂漠の中で見る蜃気楼のオアシスのようなものでした。すべての人間は罪を背負う存在であるのに偶像視し、自分の命、自分にとっての神的存在であるとの錯覚上の喜びは、露として消えるしかありませんでした。

神ならぬ者を神とする偶像崇拝の恐ろしさ。あとちょっとでてっぺんに登りつめ手に入れられると思えたその瞬間、一挙に奈落に突き落とされるようなもの・・・。

神仏の存在を全く信じていなかった私でしたが、キリスト教主義の学校に進学。聖書を買わなければならなかったので、売店にあった中で一番安い小型の聖書を買いました。「仏や神社の神は居ないと思うけれど、聖書の神なら存在するかもしれないな・・・。でも居ないかもしれない。どっちだろう?どっちだろう?」と思い巡らしていました。そうこうしている内に失恋の時がやって来ました。自分にとっての唯一の拠り所、神に代わる全存在だと思えていたものが儚い幻だったのですから苦しかったです。この苦しさを抱えて これから 延々と生きなければならないのは耐え切れないと思いました。

そんな時、ふっと「洗礼を受けよう!!今まで、神は居ないと思っていたけれど、これからは神は存在するという人生観を持って生きる方に賭けてみよう。人生観をガラッと変えたら、今の苦しさを紛らわせるかもしれない」という思いが、突然湧き起こって来ました。 誰か(聖霊だと思いますが)に背中をぐんぐん押されながら、「洗礼を受けるんだ!受けるんだ!」と繰り返し思いつつ教会に向かって歩いている私がいました。

 「洗礼を受けたい」と牧師夫人に告げた時、灰色の厚い雲空がどこまでも深く深く続いていると思われたのがわずかに裂けてそこから一条の光が差し込んで来るのが視えた、というよりそういう感覚がしました。その時「イエス・キリストの復活を信じていいんだ、いいんだ」という感激と嬉しさで涙が溢れて来ました。

そして、私は洗礼を受けたのですが、だからといって失恋の苦しさが紛らわされたわけでもなく特に何も変わりませんでした。むしろ、神様から愛されているからもう人の儚い愛は期待しない、けれど、復活の永遠の命が与えられていても、この地上で生涯を共にし愛す対象、パートナーが居ないまま生涯独身でいるような気がして辛かったです。しかし、その後、神様が夫Fuを与えて下さり、私の苦しみは、紛らわすという姑息的なものではない癒し、真実な癒しへと少しずつ少しずつ向かって行きました。

恋愛を通して、エロースの愛とアガペーの愛(神様の愛)とは何かを、神様から教えていただけたことは、私の人生で最も大きな出来事だったと言えると思います。

エロースの愛とは自分にとって価値あると思える者のみを・・・、自分を幸福にする者のみを愛し、そうでなくなった途端に終わる無常の愛。

アガペーの愛とは神様の愛。 キリストの十字架の愛。神様に背を向け裏切っている人間をも永遠に見捨てずどこまでも愛し続け罪と死から救おうとする命そのもの。

いずれにしても「愛」は、人の幸、不幸を大きく左右するもののようです。

受洗の動機が 「今の苦しさを紛らわせるかもしれない 」とは、いい加減で不純 なものでした。でも 振り返ってみるに、神様はその不純さをも良きに変えて用い、洗礼へと導いて下さったんだなあと思えます。私が、もし信仰に導かれなかったとしたら今の私は居なかった・・・、厭世観が強く虚無的だった私は精神を病んでどうにかなっていただろう、とそう思います。

 Kさんが、今の苦しさから一日も早く癒されることを願いつつ書いていましたら、こんなに長くなってしまいました。読んでいただくのが憚れる駄文、躊躇しつつ送信させていただきます。

 

神様、 あの時の苦しさがなければ今の私は居ませんでした。

Kさんにも、そういう日を早く来たらせてください。

Kさんを、どうぞ今の暗いトンネルから一日も早く通り抜けさせ、明るいところへと導いてくださいますよう、お願いいたします。

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