CIRCUS, CIRCUS & CIRCUS

FOR LONELY HEROINES & BROKEN HEROES……目指せ、甲斐バンド全曲解説!

「HERO」のCM起用についての疑問。

2013-06-17 | TEXTS
「HERO」のセイコーCMへの起用―というか、声がかかってから「HERO」が作られたようなので―甲斐バンドの起用は、誰の尽力によるものなのだろうか?
「ポップコーンをほおばって」にあるように、電通の人が気に入ってプッシュしたからなんだろうか?
シンコーミュージックのスタッフ(=営業)は何もしなかったのだろうか?
当時のマネージャーの佐藤剛は、起用に至るまでにおいて何も関わってないのだろうか?
 
という疑問。

この夜にさよなら/4 ブラッディ・マリー

2010-04-11 | album:この夜にさよなら
ブラッディ・マリー (Bloody Mary) とは、ウォッカをベースとする、トマト・ジュースを用いたカクテル。ウォッカベースで、アルコール度数の調整も容易なのだそうです 。飲むときにタバスコなどのスパイスを入れたりもするそうで、そうした香辛料の効果もあって食欲増進になるのか、食前酒として飲まれることが多いそうです。以上、Wikiをはじめとした生半可なメモ。私は一度も飲んだことがありません。

この曲が好きだと言う人は意外と多い。「意外と」というのは、個人的にはそれほど存在感のある曲に感じられないからだ。佳品ではあるかもしれないけれど、代表作にはなり得ないだろう、みたいな。もしかするとその奥ゆかしさみたいなものが、多くのファンに好まれる理由なのかもしれない。

12弦アコースティックギターのイントロの音が美しい。やさしく、歌詞に反して爽やかさすら感じる曲とサウンドである。そもそもはフェイセス(=ロッド・スチュアート)の「マギー・メイ」が元ネタなんだろうけど、随分と印象の異なる仕上がりになったと思う。Bメロの歌い出し(「夜はろうそくが~」のあたり)は、「東京の一夜」の「最後に送った手紙はつらすぎるから~」に共通する手法を感じたりもする。

歌詞の内容としては、別れてしまった女性のことをうだうだうだうだと思い出してる、「涙と一緒に君を飲み干した」などと言いつつ、ちっとも吹っ切れてない男の歌だ。注目するところは内容よりも歌詞のスタイルだろう。「夜はろうそくがそっと照らす部屋」「紅のあとのついた長いままの吸い止し」「花瓶にさしたままの忘れられた花」などの情景や、「透き通る花びらのような白いくちびる」「少女のような微笑み」といった女性についての描写に多くのフレーズをさいているのに大して、心理描写がほとんど見られない。そりゃ、そうしたあれこれを目にするたびに「今も僕にからみつく」という歌詞なんだから、いろんなモチーフをとりあげるのも当然なんだけど、ともかく、こうした描き方によってこの曲が繊細な印象になっているのは確かだと思う。

加えて、この歌詞、女性を思い返すことがつらいのか懐かしいのかといった感情についても、ぎりぎりのところで言い切っていない。
「些細な思いでさえ今も僕を苦しめる」とか「苦い昨日を忘れるために」とか「手の中にあるグラスを見つめたとき/僕の/涙が映ってた」といったフレーズはあるけれど、だから悲しいとか、もう一度会いたいとかの具体的ところを言い切らないで、聴き手に解釈をまかせてる感じがするのだ。
シンボリックなイメージを持つブラッディ・マリーというお酒。アコースティック・ギター主体の爽やかなサウンドに綺麗なメロディ、繊細な描写かつ思い入れしやすい歌詞。
うーむ、なんとなくこの曲が好かれる訳がわからなくも、ない。

誘惑/7 バランタインの日々

2010-04-09 | album:誘惑
松藤英男作曲による珠玉の小品。
コード進行、メロディライン、いずれも甲斐よしひろが逆立ちしても書けなさそうなお洒落な曲だ。ソロ・アルバム「Prime」(つくづく残念なアルバムだった)や、再々結成時のアルバム「夏の轍」に収められた「Jasmine again」なんかと共通するムードがある。そう言えば、「松藤×甲斐」収録の「きんぽうげ」も似た雰囲気に仕上げられて初めてあのテイクを聴いたときはちょっとびっくりした。これが松藤英男の世界なんだろう。

タイトルにも出てくるバランタイン(Ballantine's)というのはジョージ・バランタイン&サン社によって製造・販売されているスコッチ・のこと。数あるスコッチの中でも高い質と人気を誇り、スコッチの代名詞となっているそうです。別れた彼女の好きな酒だと思っていたけど、その彼女が惚れた男が好きな酒だったんだ、というアウトライン。曲に触発されたのだろうか、甲斐よしひろによるこの歌詞も、決して上手いとは言えないけど、捻りが効いててなかなか洒落ているじゃないか。

この曲、キーはEmなんだけど、歌い出しがAm7だったり、フレーズの終わりにEmが来てもいいところでCmaj7がきたり、BメロにFが来たりと、Emキーの曲に聴こえないようなコードの仕掛けがところどころにあって、それが甲斐バンドナンバーには珍しい独特の浮遊感を出している。そしてアコースティックギターの抑制されたアレンジと、甲斐よしひろと松藤英男のハーモニーが決まっている。

決して大きな声で自己主張をするわけではないし、甲斐バンドの方向性を決定づける重要曲というわけではないけれど、アルバムを通して聴いたときに心に残っている。ファンにとっても「重要」ではないけれど「大切」な曲、といったところだろうか。いずれにしろ「誘惑」においてなくてはならない曲と言いたい。あれ?これってまるで甲斐バンド内における松藤英男のポジションだな。
Gai Bandでも演ってましたね。この二人が並んだら、やっぱりこの曲なんだろうな。

この夜にさよなら/2 そばかすの天使

2010-04-08 | album:この夜にさよなら
そもそもは内藤やす子への提供曲として書かれたという、「日活無国籍映画もの(?)」。主人公の16歳ですでに水商売の世界にいた少女、という設定は北原ミレイの「アケミという名で18で」に対して、あえてもっと若い年齢を設定したそうだ。若い女の子がどんどん水商売とか風俗の世界に落ちて行く__それくらい、これからは状況がもっとヤバくなる、という甲斐よしひろの時代への目線、と解釈していいだろう。

と、ここまで書いてあらためて歌詞を見直してみると、意外なことに彼女が水商売の女だという描写が一切無いことに気づいた。「あれは16 新宿の名も知らない店で」という一節があるけど、自分の職場に対して「名も知らない」なんてありえないもんな。初めてこの曲を聴いたときから彼女は歳をごまかすかなんかして水商売をしている少女に違いないと思いこんでいただけに、これはホントに意外だった。
で、歌詞には全く書かれていないのになぜそう思ったのかをまたあらためて考えてみると、「音楽」がそうした周辺事情を語っていたのではなかろうかという考えにたどりつくことになる。曲全体にかかっているリバーブ、ホーンセクション、シャッフルビートとウォーキングベース、間奏のワウをかましたギターと、あらゆる音の要素がチープで猥雑な、当時で言うところの「スナック」みたいな雰囲気ムンムンである。

しかし甲斐よしひろという人はこうした三部構成でストーリーが進んで行く、というベタベタに歌謡曲的な曲づくりが上手い。「裏切りの街角」に始まり「かりそめのスウィング」本作収録の「8日目の朝」「地下室のメロディー」そして後期の「冷血」にいたるまで佳作ぞろいじゃないですか。その歌謡曲的上手さがいずれ時代に追い越されて行った要因の一つではないかというのも皮肉なものだが。

解散後のライブビデオ「Live at the Apollo」のストイックなアレンジのバージョンも秀逸。
 
追記
たまたま、なんの脈絡もなく山川ユキの「新宿ダダ」を聴いた。舞台が新宿だし、マイナーキーのシャッフルで曲調もちょっと共通した印象。加えて、山川ユキ、内藤やす子ともに演歌系ドス声歌唱(と言うか山川ユキに無理矢理やらせてる感じだが)、となると、「そばかすの天使」に「新宿ダダ」のコンセプトの上での影響を感じてしまう。いやー、わざわざこのB級路線を狙ってみようなんて考えないかな。でもこの頃の甲斐よしひろだったら、あえてやっちゃうような気もするしなあ。
ちなみにリリース時期を調べてみると、「新宿ダダ」が'77年6月、「そばかすの天使」のシングル発売が'77年9月5日。時系列で考えると、意図したものか偶然なのか、実に微妙なタイミングである。

甲斐バンド なんと解散5カ月で再結成

2009-07-22 | TEXTS
デイリースポーツより。

「 甲斐よしひろ(56)率いる甲斐バンドが21日、都内で会見し、5度目となる再結成&35周年記念ツアーの開催を発表した。

 昨秋から『解散ライブ』と銘打った22年ぶりの全国ツアーを展開し、2月7日には日本武道館で感動のラストライブ。わずか5カ月での“スピード再結成”になった。

 さすがに気まずかったのか、甲斐は「謝罪会見になるかもと思った。今後はお祝い事のたびに集まればいいし、もう解散とかそういうのはいいかな」と苦笑い。当初、ソロツアーのメンバーを探しており「昨年からの充実したライブを思い出し、節目にもう一度、バンドで集まろう」と甲斐の誕生日となる4月7日に3人で話し合い、再結成を決めたという。

 10月21日には5年ぶりのオリジナル・アルバムも発売する。」

で、発表されたツアースケジュール。
10月24日にはじまって、翌年の2月11日まで続くそうです。さすがに今回は、"聖地"武道館にもフラれちゃったかな。

ええと…

多分、こうなるともう、「常識」とか「良識」とかでもって突っ込んでも野暮なんだろうな。
やっぱりあのバンドは、1986年6月27日に終わったんだと考えるのが正しいんだろう。


追記
世間的には賛否両論というよりも、「賛否=1:4論」くらいの今回の再々々々結成(あってる?)ツアー、田中一郎氏のブログにて、御本人の思いが綴られている。

できうる限り客観的に読んだ。

大森さんをダシにした言い訳と解釈されても仕方ないような記述もあるし、全文を読んでも、納得できる説明とはお世辞にも言えないと思う。少なくとも、「これが最後」を売りにしたツアーが終わった余韻の冷めやらぬうちに、また活動をすることについて、筋の通った記述のある文章とは言えない(それを言ったら23年前に既に「完結します」と言っていたのだが)。
ところがブログに寄せられたコメントを見る限り、今の甲斐バンドのファンの方々にとっては、どうやら概ね歓迎されているようで、なんとも言えない気分になってしまった。

まあ、ファンの方々が喜んでいらっしゃるのなら、別にいいのかもしれない。ともかく、ライブ会場に出向いて拳振り上げることをいい歳こいて未だに「参戦」などと恥ずかしげも無く言える方々に対して、ライブに足を運ぶわけでもない人間がガタガタ言うのはやはり野暮なことなのだ。彼らにとっては、あれはあれでアーティストとファンとの幸せな関係なのだろう(違うと思うけど)。

けれども、今の甲斐バンドと甲斐よしひろのやっている仕事は、一般の人が興味を持つに値しない「屑」だと思う。
少なくともヴォーカルの人はもうちょっときちんと声を出すべきだし、周囲のメンバーやスタッフも、それについてはプロとしてきっちり駄目出ししないといけないでしょう。このバンド以外のそれぞれの活動におけるスキルやレベルまで疑われかねないよ。

それと、今後、もしもまた再々々々々結成とかやるにしても、いちいち呼ばれて記事にしなくちゃいけない記者の人たちにも迷惑だろうから、記者会見など行わずに、ファンクラブの会報だけに発表した方がいいんじゃないかな。下手に世間に公表して批判されるくらいなら、喜んでくれる人達だけに向けてやってればいいと思う。いずれにしろ世間的にはもう大して影響力無いんだから。

ガラスの動物園/12 ゆきずりの風

2009-03-23 | album:ガラスの動物園
ほとんどアコースティック・ギターのアルペジオの伴奏のみで歌われる小品。歌詞を見ると、なんとなく「風が唄った日」の世界に近いような気もする(あ、どっちも「風」だ)。
この歌詞、「長い長い道を もう私は行かなくてはいけない」と言いつつ、「昨日鳴る鐘の音」のような決意は感じられない。メロディーラインや甲斐よしひろの唄い方やアコギのアルペジオからは、決意どころか未練すら感じてしまう。「私にとっては お前はただのゆきずりの風」が何を指しているのかは詮索しないけれど、これも失ってしまったがゆえに無理にそう思い込ませているように思える。ともかくこの曲、「ホントは行きたくないんだよね」的な未練を持ちつつ、宿命みたいなものに背中を押されていることを自覚しているがゆえに「行かなくてはいけない」とつぶやいているような気がする。つぶやいている?そうかもしれない。この曲は聴き手に対してではなく、甲斐よしひろ本人に向けて唄われているのだろう。
ちょっと興味深いのは、ジャケット写真のような夜明けを感じさせる、冒頭の「ガラスの動物園のテーマ」に対して、「ゆきずりの風」は、なんだか夕方を感じてしまう点だ。おそらくは、曲のもつ切なさがそうさせるのだろうけど(「夕焼け小焼け」的切なさとでも言いますか…)。で、この曲の切ない感じ、大好きなんだけど、一番の聴きどころは、あえて「曲が終わったあとの余韻である」と言いたい。最後のC#7のアルペジオ(キーがF#mなので完結しない)の終わり切らない感じを引きずった余韻の中、遠慮がちに聞こえるレコード針のノイズ。その余韻を味わうためにも、「ゆきずりの風」は、ぜひレコードで聴くべきだ。

ガラスの動物園/11 悪いうわさ

2008-11-05 | album:ガラスの動物園
佳作良作揃いのアルバム「ガラスの動物園」に、難点を挙げるとすれば、代表曲が無い、ということではないか。たとえば、「英雄と悪漢」なら「ポップコーンをほおばって」、「誘惑」なら言わずとも「翼あるもの」といった、アルバムを構成する上でキーとなる曲が無いのだ。「いや、『らせん階段』があるじゃないか」とか「代表曲なら『東京の一夜』だろう」とか「いやいやこのLPは『テレフォン・ノイローゼ』がなくては」など、意見が割れるはずだ。そう考えてみると、「ガラスの動物園」というアルバムは、「甲斐バンド好きのためのアルバム」と言うか、ひょっとしたら甲斐バンドをよく知らない人にとっては、どこから聴いていいのかわからないアルバムなのかもしれない。

そうなってしまった原因として考えられるのが、この「悪いうわさ」が賞味期限を過ぎてしまったから、ということではないか。今聴くとあからさまに、古い。個人的に、この時期の甲斐バンドの曲は、今でも瑞々しさを失っていないものが多いだけに、そう感じてしまう。例えば「黒い夏」なんて、もしもスピッツとかがリメイクしたら、すっごく良いバージョンができそうに思うのだけれど。

さて、この「悪いうわさ」だが、アルバム「ガラスの動物園」にとって重要作だととらえていたのだろうし、制作時の彼らにとって大事な録音だったというのもあながち間違っていないと思う。「25時の追跡」等のインストを除けば甲斐バンド史上最長のギターソロを含む、8分を超える演奏時間だけを見ても、相当の力をいれて録音されたに違いない。なんでも、このギターソロを録っている最中、行き詰まった大森信和に対して、甲斐よしひろは苛立ちのあまりかスタジオの椅子を投げつけてしまったそうだ(大森信和も大したもので、間一髪それを避けたとか)。まあ、いつものことで、もとの話にどれだけ尾ひれがついて流布しているかはわからないけど、スタジオでの緊張感が尋常でなかったことだけは少なくとも真実だろう。

確かに、このアルバムがリリースされた'76年のことを考えると、甲斐バンドはまだチューリップの後輩的なイメージを完全に払拭したわけでもなかっただろうし、なによりも女性ファンが圧倒的に多かった。例えば外道とか頭脳警察とかいったバンドのような「通受け」するグループではなかったはずだ。むしろ、アイドルグループ的な人気だったと言った方が正しいかもしれない(甲斐バンドのリスナーの男女比が明確に逆転するのは、花園ラグビー場でのイベント以降と言われている。アルバムで言うと「破れたハートを売り物に」まで、女性ファンの方が多かったのだ)。そんなリスナーに対して、こんな暗く重いノリで、しかも長丁場のギターソロを持つ曲を聴かせるということは、かなりの冒険だったと推測される。それはそれで、リスナーにとってはインパクトがあっただろう。だけど、今となってはこうした長丁場のギターソロそのものが「古い」し、ギタープレイにも、失礼ながら見るべき点は少ない。ギターソロだけなら、曲としては埋め草的に聴こえる「やせた女のブルース」のほうがずっと出来はいい。

歌自体は、他のアルバム収録曲と比べても遜色ない出来だと思う。サビの「切り離せない影のように 悪いうわさが追ってくる」とか「一人じゃ寂しすぎ 二人じゃつらすぎた」など、歌詞も秀逸。いっそのこと、もっとコンパクトにまとめた方が、今でも通じる名曲になったのではと思うと、少々残念だ。ちなみに、「悪いうわさ」の元ネタは、マービン・ゲイの「I Heard It through The Grapevine」邦題は「悲しいうわさ」。本命の元ネタはそれのCCRのバージョンだろう。実のところ、元ネタと比べると、これでもかなりコンパクトになっているんだけど。

最後に念のために書いておくけど、個人的にはギターソロも含めてこの曲も大好きな一曲である。CCRの原曲以上に。

ガラスの動物園/9 男と女のいる舗道

2008-10-29 | album:ガラスの動物園
印象的な美しいアルペジオで幕をあけるこの曲、タイトルはもちろんゴダールの映画からだろう(未見ですが)。個人的には「裏切りの街角」もそうだったのだけれど、はじめにタイトルを見たときに感じたハードな印象にくらべて、随分と甘い曲調にいささか戸惑ったものだ。

でも、曲が進むにつれて、都会に馴染めなくて、ひとときの安らぎを求めて肩をよせあう男と女のうつむき加減とか、風景が感じられてくる。アルバムの流れからすると、ここに出てくる女性は「東京の一夜」以前の女性とは違う人に聞こえる。タイプとしては「やせた女のブルース」の女性とも違うような。自棄になっていろんなねーちゃんに手をだしちゃったんだろうか?ともかく、曲中の語り手は「この娘にとっての男は、俺じゃない」と思ったのだろう。本音のところは「この娘イマイチだな」かもしれなかったにしても。いずれにしても、この先同じ道をたどりはしないだろう二人にとって、この出会いは「曲がり角」での出来事にすぎない。かりそめの逢瀬とわかっていながら、離れない女。「やっぱり俺じゃない」と離れていく男。下世話な言い方をすれば「やり逃げ」なんでしょうけど。

冷静に歌詞を見直してみると、結構ひどい詞である。耳障りのいいことを言いながら、結局はこの女と別れたいだけなのだ。多くの女性にとっては許せない男ではなかろうか。けれども、かつて烏丸せつこはラジオ番組でこの曲をフェイバリットに挙げていた。サンプルは少ないが、女性受けが悪い曲には思えない。この受けの良さはアレンジや曲調からくるセンチメンタルな質感によるものも大きいだろう。ここでも歌だけでは語りきれない何かを、バンドは確実にフォローしている。

とはいえ、この曲で一番素晴らしいのは甲斐よしひろの「声」だ。なによりもサウンドとして機能していて、淡々と語りかけるような声はセンチメンタルに響いてくる。特に一番のサビ、「このさんざめく街の底では 優しすぎて」と「哀しすぎて」の間にはいるブレス!全盛期のジョン・レノンも「Ticket To Ride」や「Eight Days A Week」など、ビートルズの録音の中で印象的な「合いの手(すいません良い言い方が見つからない)」を入れているが、それに匹敵する狂おしさである。この声で「いつまでも曲がり角でいようなんて 時は許しちゃくれない」とか「いつも強い人間でいようなんて 時は許しちゃくれない」なんて言われたら、前後の脈絡関係なく「そりゃそうだよね」と納得してしまう。実際、「ガラスの動物園」での甲斐よしひろの声は、ダブル・トラック風にしている「やせた女のブルース」を除くと、どの曲もとても瑞々しくて本当に素晴らしい。本アルバムを傑作たらしめているのは、アレンジやバンドの演奏も大きいけれど、何よりもこの声ではないかと言いたいくらいだ。なかでも、この曲では意図的にミックスもされているのか、目の前で甲斐よしひろに語りかけられているかのような近さを感じないだろうか。

そして、この「声」は、歌詞になっていないところで、夜の街の底でくすぶる、裏ぶれた青春を歌っているようにも聴こえる。それは当時主流だった、波立つ海に向かって叫ぶとか、夕日に向かって走るとかの、いわゆる弾ける若さ、みたいなポジティヴな青春のイメージに対するアンチテーゼとして響いてくる。

甲斐よしひろは後に「男と女のことの向うに現在が見えてくるような曲を書きたい」と発言するのだが、どこまで意識的かはともかく、この曲はその発言の象徴的な事例と言っていいだろう。

ガラスの動物園/10 あの日からの便り

2008-10-27 | album:ガラスの動物園
都会の、というか、裏街の夜の匂いむんむんの「男と女のいる舗道」から一転、明るい陽射しを感じさせる爽やかな一曲。この爽やかさは、すべて終わってしまった後の穏やかさからくるのだろうか?「木の葉を揺らす風が 肩で笑ったら 思い出すかもしれない」。なんかもう、「東京の一夜」とか「昨日鳴る鐘の音」といった曲すら、すっかり昔の話なんだあ、とすら感じてしまう。そして、都会でもまれた「僕」は、終わった恋をネガティヴに振り返ったりしない。「テレフォン・ノイローゼ」で「いいように世の中回してるのはこっちさ」と吐き捨てたときのように、強がってみせるのだ。「君が帰らないくらい、僕は知ってる」

ところでこの曲、雰囲気からアレンジからそっくりな曲が、ラジオから流れてきて驚いたことがかつて一度だけある。タイトルも誰の曲かも確認できなかったのだが、この元ネタ、どなたかご存知だったら是非ともご教授いただきたい。こんな過疎blogで言うのも何だけど。
090904追記
The Allman Brothers Bandの「Little Martha」というアコギのインスト曲でした。この曲のテーマのフレーズが、「あの日からの便り」の間奏に引用されてます。

と、いうことはさておいて、「あの日からの便り」である。アコースティックギターも、ヴォーカルも、ハーモニーが素晴らしく、また、そこにさりげなくからむストリングスが切なさも感じさせる。「絵日記」に続く、夏の小品といったところか。「絵日記」とちょっと違うのがドラムとベースの使われ方。これがなかなかニクい。

この曲もそもそもはアマチュア時代からのレパートリーだったのかもしれない。歌詞に出てくる言葉やモチーフを見ると、結構「らいむらいと」的だったりもするのだ。「紫陽花の花の雫」「花言葉」「木の葉を揺らす風」「麦わら帽子」「水色の夏」甘く切ないイメージてんこもりである。にもかかわらず、締まっているというか、「らいむらいと」になっていないというか、つまりは「ガラスの動物園」している。なぜか。これはバンドによるアレンジ、演奏のおかげに思えてならない。特に前述したリズム帯の使い方が、ともすれば、甘く叙情的な曲に流れてしまうことを防いでいるように思う。なんかまたもや根拠無き妄想なのだが、この曲、長岡和弘が好きだったんではないだろうか?もしかしたら、甲斐よしひろ本人よりも、長岡主導、バンド主導でレコーディングされたんではないだろうか?「大丈夫、今の俺たちなら『らいむらいと』にはならんけん」みたいな、暗黙の了解のもとで。
バンドの仲間のおかげで、甲斐よしひろは強がれたのかもしれない。「君が帰らないくらい、僕は知ってる」

ガラスの動物園/8 やせた女のブルース

2008-10-27 | album:ガラスの動物園
甲斐バンド初の3コードもの。まあ、ブルースって言うくらいですから。作者は福岡のアマチュア時代の音楽仲間なのだそうだ。ところが、どうしようもない女を揶揄したこの曲、てんで良くない。なにより演奏が良くない。いわゆる「どブルース」ではなく、ブラスをフィーチュアしたモダン・ブルースをイメージしたんだろうけど、バンドの若さが裏目に出たとでも言おうか、ただの軽い曲としか響いてこない。佳曲揃いの本アルバムの中ではなおさらだ。

実のところ甲斐バンドという楽団は、ロックバンドと言いながら定番の3コード曲は非常に少なくて、本曲のあとは「My Generation」トップの「3つ数えろ」(これにしても、コード進行はいわゆる3コードの進行じゃないし)まで待たなくてはいけない。「新宿」の後半で、ロックとはいいながらポップス系の楽曲が多いと書いたけれど、逆に言えばおそらくグルーヴ主体の曲を作曲・演奏するのは苦手なのだろう。どうもカッチリしすぎるというか、いい意味でのルーズさがないというか。いや、でも「一日の終り」なんていい感じじゃないか?ううむ。ともかく、正直言って、このテイクを聴いたことがないとしても、人生において何の損も無い。

ただ、エピソードとしては少々興味深いものがある。これ、田中一郎が初めて甲斐バンドの録音に参加した曲なのだそうだ。冒頭で「演奏が良くない」とは書いたが、間奏のギターはなかなか聴かせるものがある(偉そうにすみません)。思うにこの曲、一郎参加ありきで録られたのではなかろうか?「一郎、今度レコーディング手伝わん?」「よかよか、何すると?」「うーん、あ、そうだ。秋吉と橋本の『やせた女のブルース』知っとう?」「おお、懐かしかあ」「3コードもんやし、あれならいけるやろ」みたいな(以上、根拠無き妄想終了)。

でもなんかそんな風に聴くとこれはこれでなかなか良いテイクである(結局どっちなんだ?)。それと、曲そのものは悪くない。特に歌詞は、「東京の一夜」で恋人と別れ「昨日鳴る鐘の音」で青い決意をした主人公が、だけどちょっと都会のアバズレと遊んじゃった、という流れもとれなくもないし。ちなみに、曲は良い証拠に、約20年の後、甲斐よしひろ、松藤英男、鎌田ジョージからなるアコースティックトリオ、GUY BANDでもこの曲をとりあげている。このときはぐっと落ち着いたスローブルースで演奏してて、必聴である。公式テイク無いけど。未聴だが、「ROCKMENT」収録の演奏が、同じような感じだと思う。