CIRCUS, CIRCUS & CIRCUS

FOR LONELY HEROINES & BROKEN HEROES……目指せ、甲斐バンド全曲解説!

ガラスの動物園/12 ゆきずりの風

2009-03-23 | album:ガラスの動物園
ほとんどアコースティック・ギターのアルペジオの伴奏のみで歌われる小品。歌詞を見ると、なんとなく「風が唄った日」の世界に近いような気もする(あ、どっちも「風」だ)。
この歌詞、「長い長い道を もう私は行かなくてはいけない」と言いつつ、「昨日鳴る鐘の音」のような決意は感じられない。メロディーラインや甲斐よしひろの唄い方やアコギのアルペジオからは、決意どころか未練すら感じてしまう。「私にとっては お前はただのゆきずりの風」が何を指しているのかは詮索しないけれど、これも失ってしまったがゆえに無理にそう思い込ませているように思える。ともかくこの曲、「ホントは行きたくないんだよね」的な未練を持ちつつ、宿命みたいなものに背中を押されていることを自覚しているがゆえに「行かなくてはいけない」とつぶやいているような気がする。つぶやいている?そうかもしれない。この曲は聴き手に対してではなく、甲斐よしひろ本人に向けて唄われているのだろう。
ちょっと興味深いのは、ジャケット写真のような夜明けを感じさせる、冒頭の「ガラスの動物園のテーマ」に対して、「ゆきずりの風」は、なんだか夕方を感じてしまう点だ。おそらくは、曲のもつ切なさがそうさせるのだろうけど(「夕焼け小焼け」的切なさとでも言いますか…)。で、この曲の切ない感じ、大好きなんだけど、一番の聴きどころは、あえて「曲が終わったあとの余韻である」と言いたい。最後のC#7のアルペジオ(キーがF#mなので完結しない)の終わり切らない感じを引きずった余韻の中、遠慮がちに聞こえるレコード針のノイズ。その余韻を味わうためにも、「ゆきずりの風」は、ぜひレコードで聴くべきだ。

ガラスの動物園/11 悪いうわさ

2008-11-05 | album:ガラスの動物園
佳作良作揃いのアルバム「ガラスの動物園」に、難点を挙げるとすれば、代表曲が無い、ということではないか。たとえば、「英雄と悪漢」なら「ポップコーンをほおばって」、「誘惑」なら言わずとも「翼あるもの」といった、アルバムを構成する上でキーとなる曲が無いのだ。「いや、『らせん階段』があるじゃないか」とか「代表曲なら『東京の一夜』だろう」とか「いやいやこのLPは『テレフォン・ノイローゼ』がなくては」など、意見が割れるはずだ。そう考えてみると、「ガラスの動物園」というアルバムは、「甲斐バンド好きのためのアルバム」と言うか、ひょっとしたら甲斐バンドをよく知らない人にとっては、どこから聴いていいのかわからないアルバムなのかもしれない。

そうなってしまった原因として考えられるのが、この「悪いうわさ」が賞味期限を過ぎてしまったから、ということではないか。今聴くとあからさまに、古い。個人的に、この時期の甲斐バンドの曲は、今でも瑞々しさを失っていないものが多いだけに、そう感じてしまう。例えば「黒い夏」なんて、もしもスピッツとかがリメイクしたら、すっごく良いバージョンができそうに思うのだけれど。

さて、この「悪いうわさ」だが、アルバム「ガラスの動物園」にとって重要作だととらえていたのだろうし、制作時の彼らにとって大事な録音だったというのもあながち間違っていないと思う。「25時の追跡」等のインストを除けば甲斐バンド史上最長のギターソロを含む、8分を超える演奏時間だけを見ても、相当の力をいれて録音されたに違いない。なんでも、このギターソロを録っている最中、行き詰まった大森信和に対して、甲斐よしひろは苛立ちのあまりかスタジオの椅子を投げつけてしまったそうだ(大森信和も大したもので、間一髪それを避けたとか)。まあ、いつものことで、もとの話にどれだけ尾ひれがついて流布しているかはわからないけど、スタジオでの緊張感が尋常でなかったことだけは少なくとも真実だろう。

確かに、このアルバムがリリースされた'76年のことを考えると、甲斐バンドはまだチューリップの後輩的なイメージを完全に払拭したわけでもなかっただろうし、なによりも女性ファンが圧倒的に多かった。例えば外道とか頭脳警察とかいったバンドのような「通受け」するグループではなかったはずだ。むしろ、アイドルグループ的な人気だったと言った方が正しいかもしれない(甲斐バンドのリスナーの男女比が明確に逆転するのは、花園ラグビー場でのイベント以降と言われている。アルバムで言うと「破れたハートを売り物に」まで、女性ファンの方が多かったのだ)。そんなリスナーに対して、こんな暗く重いノリで、しかも長丁場のギターソロを持つ曲を聴かせるということは、かなりの冒険だったと推測される。それはそれで、リスナーにとってはインパクトがあっただろう。だけど、今となってはこうした長丁場のギターソロそのものが「古い」し、ギタープレイにも、失礼ながら見るべき点は少ない。ギターソロだけなら、曲としては埋め草的に聴こえる「やせた女のブルース」のほうがずっと出来はいい。

歌自体は、他のアルバム収録曲と比べても遜色ない出来だと思う。サビの「切り離せない影のように 悪いうわさが追ってくる」とか「一人じゃ寂しすぎ 二人じゃつらすぎた」など、歌詞も秀逸。いっそのこと、もっとコンパクトにまとめた方が、今でも通じる名曲になったのではと思うと、少々残念だ。ちなみに、「悪いうわさ」の元ネタは、マービン・ゲイの「I Heard It through The Grapevine」邦題は「悲しいうわさ」。本命の元ネタはそれのCCRのバージョンだろう。実のところ、元ネタと比べると、これでもかなりコンパクトになっているんだけど。

最後に念のために書いておくけど、個人的にはギターソロも含めてこの曲も大好きな一曲である。CCRの原曲以上に。

ガラスの動物園/9 男と女のいる舗道

2008-10-29 | album:ガラスの動物園
印象的な美しいアルペジオで幕をあけるこの曲、タイトルはもちろんゴダールの映画からだろう(未見ですが)。個人的には「裏切りの街角」もそうだったのだけれど、はじめにタイトルを見たときに感じたハードな印象にくらべて、随分と甘い曲調にいささか戸惑ったものだ。

でも、曲が進むにつれて、都会に馴染めなくて、ひとときの安らぎを求めて肩をよせあう男と女のうつむき加減とか、風景が感じられてくる。アルバムの流れからすると、ここに出てくる女性は「東京の一夜」以前の女性とは違う人に聞こえる。タイプとしては「やせた女のブルース」の女性とも違うような。自棄になっていろんなねーちゃんに手をだしちゃったんだろうか?ともかく、曲中の語り手は「この娘にとっての男は、俺じゃない」と思ったのだろう。本音のところは「この娘イマイチだな」かもしれなかったにしても。いずれにしても、この先同じ道をたどりはしないだろう二人にとって、この出会いは「曲がり角」での出来事にすぎない。かりそめの逢瀬とわかっていながら、離れない女。「やっぱり俺じゃない」と離れていく男。下世話な言い方をすれば「やり逃げ」なんでしょうけど。

冷静に歌詞を見直してみると、結構ひどい詞である。耳障りのいいことを言いながら、結局はこの女と別れたいだけなのだ。多くの女性にとっては許せない男ではなかろうか。けれども、かつて烏丸せつこはラジオ番組でこの曲をフェイバリットに挙げていた。サンプルは少ないが、女性受けが悪い曲には思えない。この受けの良さはアレンジや曲調からくるセンチメンタルな質感によるものも大きいだろう。ここでも歌だけでは語りきれない何かを、バンドは確実にフォローしている。

とはいえ、この曲で一番素晴らしいのは甲斐よしひろの「声」だ。なによりもサウンドとして機能していて、淡々と語りかけるような声はセンチメンタルに響いてくる。特に一番のサビ、「このさんざめく街の底では 優しすぎて」と「哀しすぎて」の間にはいるブレス!全盛期のジョン・レノンも「Ticket To Ride」や「Eight Days A Week」など、ビートルズの録音の中で印象的な「合いの手(すいません良い言い方が見つからない)」を入れているが、それに匹敵する狂おしさである。この声で「いつまでも曲がり角でいようなんて 時は許しちゃくれない」とか「いつも強い人間でいようなんて 時は許しちゃくれない」なんて言われたら、前後の脈絡関係なく「そりゃそうだよね」と納得してしまう。実際、「ガラスの動物園」での甲斐よしひろの声は、ダブル・トラック風にしている「やせた女のブルース」を除くと、どの曲もとても瑞々しくて本当に素晴らしい。本アルバムを傑作たらしめているのは、アレンジやバンドの演奏も大きいけれど、何よりもこの声ではないかと言いたいくらいだ。なかでも、この曲では意図的にミックスもされているのか、目の前で甲斐よしひろに語りかけられているかのような近さを感じないだろうか。

そして、この「声」は、歌詞になっていないところで、夜の街の底でくすぶる、裏ぶれた青春を歌っているようにも聴こえる。それは当時主流だった、波立つ海に向かって叫ぶとか、夕日に向かって走るとかの、いわゆる弾ける若さ、みたいなポジティヴな青春のイメージに対するアンチテーゼとして響いてくる。

甲斐よしひろは後に「男と女のことの向うに現在が見えてくるような曲を書きたい」と発言するのだが、どこまで意識的かはともかく、この曲はその発言の象徴的な事例と言っていいだろう。

ガラスの動物園/10 あの日からの便り

2008-10-27 | album:ガラスの動物園
都会の、というか、裏街の夜の匂いむんむんの「男と女のいる舗道」から一転、明るい陽射しを感じさせる爽やかな一曲。この爽やかさは、すべて終わってしまった後の穏やかさからくるのだろうか?「木の葉を揺らす風が 肩で笑ったら 思い出すかもしれない」。なんかもう、「東京の一夜」とか「昨日鳴る鐘の音」といった曲すら、すっかり昔の話なんだあ、とすら感じてしまう。そして、都会でもまれた「僕」は、終わった恋をネガティヴに振り返ったりしない。「テレフォン・ノイローゼ」で「いいように世の中回してるのはこっちさ」と吐き捨てたときのように、強がってみせるのだ。「君が帰らないくらい、僕は知ってる」

ところでこの曲、雰囲気からアレンジからそっくりな曲が、ラジオから流れてきて驚いたことがかつて一度だけある。タイトルも誰の曲かも確認できなかったのだが、この元ネタ、どなたかご存知だったら是非ともご教授いただきたい。こんな過疎blogで言うのも何だけど。
090904追記
The Allman Brothers Bandの「Little Martha」というアコギのインスト曲でした。この曲のテーマのフレーズが、「あの日からの便り」の間奏に引用されてます。

と、いうことはさておいて、「あの日からの便り」である。アコースティックギターも、ヴォーカルも、ハーモニーが素晴らしく、また、そこにさりげなくからむストリングスが切なさも感じさせる。「絵日記」に続く、夏の小品といったところか。「絵日記」とちょっと違うのがドラムとベースの使われ方。これがなかなかニクい。

この曲もそもそもはアマチュア時代からのレパートリーだったのかもしれない。歌詞に出てくる言葉やモチーフを見ると、結構「らいむらいと」的だったりもするのだ。「紫陽花の花の雫」「花言葉」「木の葉を揺らす風」「麦わら帽子」「水色の夏」甘く切ないイメージてんこもりである。にもかかわらず、締まっているというか、「らいむらいと」になっていないというか、つまりは「ガラスの動物園」している。なぜか。これはバンドによるアレンジ、演奏のおかげに思えてならない。特に前述したリズム帯の使い方が、ともすれば、甘く叙情的な曲に流れてしまうことを防いでいるように思う。なんかまたもや根拠無き妄想なのだが、この曲、長岡和弘が好きだったんではないだろうか?もしかしたら、甲斐よしひろ本人よりも、長岡主導、バンド主導でレコーディングされたんではないだろうか?「大丈夫、今の俺たちなら『らいむらいと』にはならんけん」みたいな、暗黙の了解のもとで。
バンドの仲間のおかげで、甲斐よしひろは強がれたのかもしれない。「君が帰らないくらい、僕は知ってる」

ガラスの動物園/8 やせた女のブルース

2008-10-27 | album:ガラスの動物園
甲斐バンド初の3コードもの。まあ、ブルースって言うくらいですから。作者は福岡のアマチュア時代の音楽仲間なのだそうだ。ところが、どうしようもない女を揶揄したこの曲、てんで良くない。なにより演奏が良くない。いわゆる「どブルース」ではなく、ブラスをフィーチュアしたモダン・ブルースをイメージしたんだろうけど、バンドの若さが裏目に出たとでも言おうか、ただの軽い曲としか響いてこない。佳曲揃いの本アルバムの中ではなおさらだ。

実のところ甲斐バンドという楽団は、ロックバンドと言いながら定番の3コード曲は非常に少なくて、本曲のあとは「My Generation」トップの「3つ数えろ」(これにしても、コード進行はいわゆる3コードの進行じゃないし)まで待たなくてはいけない。「新宿」の後半で、ロックとはいいながらポップス系の楽曲が多いと書いたけれど、逆に言えばおそらくグルーヴ主体の曲を作曲・演奏するのは苦手なのだろう。どうもカッチリしすぎるというか、いい意味でのルーズさがないというか。いや、でも「一日の終り」なんていい感じじゃないか?ううむ。ともかく、正直言って、このテイクを聴いたことがないとしても、人生において何の損も無い。

ただ、エピソードとしては少々興味深いものがある。これ、田中一郎が初めて甲斐バンドの録音に参加した曲なのだそうだ。冒頭で「演奏が良くない」とは書いたが、間奏のギターはなかなか聴かせるものがある(偉そうにすみません)。思うにこの曲、一郎参加ありきで録られたのではなかろうか?「一郎、今度レコーディング手伝わん?」「よかよか、何すると?」「うーん、あ、そうだ。秋吉と橋本の『やせた女のブルース』知っとう?」「おお、懐かしかあ」「3コードもんやし、あれならいけるやろ」みたいな(以上、根拠無き妄想終了)。

でもなんかそんな風に聴くとこれはこれでなかなか良いテイクである(結局どっちなんだ?)。それと、曲そのものは悪くない。特に歌詞は、「東京の一夜」で恋人と別れ「昨日鳴る鐘の音」で青い決意をした主人公が、だけどちょっと都会のアバズレと遊んじゃった、という流れもとれなくもないし。ちなみに、曲は良い証拠に、約20年の後、甲斐よしひろ、松藤英男、鎌田ジョージからなるアコースティックトリオ、GUY BANDでもこの曲をとりあげている。このときはぐっと落ち着いたスローブルースで演奏してて、必聴である。公式テイク無いけど。未聴だが、「ROCKMENT」収録の演奏が、同じような感じだと思う。

ガラスの動物園/7 昨日鳴る鐘の音

2008-10-25 | album:ガラスの動物園

何はともあれ、イントロに始まり全編にわたってかき鳴らされる生ギターの音が良い。タイトルの鐘の音を模したのだろうか、その生ギターのストロークにからむオクターヴ・ユニゾンのエレキギター(安易に鐘を使わないところがまたいい)。重みのあるリズム帯。そして甲斐よしひろが噛みしめるように歌いだす。「僕の前に 僕の荒野と海が果てしなく続いている」。アレンジ、サウンド、ヴォーカル、名曲臭むんむんである。この曲、初出は本作ではなく「ダニーボーイに耳をふさいで」のB面においてなのだが、そこでのアレンジからは随分と変わっている。はっきり言ってずーっと良くなっている。この曲ひとつをとっても、「ガラスの動物園」というアルバムは、いかに試行錯誤を繰り返して煮詰められた作品かが伺われる。

この時期の甲斐バンドって、ライヴを重ねていく中でバンドとしての演奏力も上がって、各メンバーでやりたいこととかできることとかがどんどん出てきてたんだろうなあ、とさえ思えてくる。決してテクニカルではないけれど、個々人の演奏は甲斐よしひろの曲や歌(またこの頃の少々青臭い声の素晴らしいこと!)に負けない存在感がある。絶対に再現できないからという理由もあるけれど、つくづく甲斐バンドっていいバンドだったよなあと思えてしまう。この良さが、なんでもっと多くの人にわかってもらえないんだろう?

それはさておき、「昨日鳴る鐘の音」である。いきなりタイトルからして不思議だ。「昨日」「鳴る」。時制がおかしい。わざとなのか?だとしても、なぜそうしたのか?多分、語感を優先したんだろう。「昨日鳴った鐘の音」とか「昨日鳴ってた鐘の音」じゃあ、なんかイマイチしまらない。映画好きの甲斐よしひろのことだ、「誰がために鐘は鳴る」というフレーズがどこか引っかかってたのかもしれない。そして、本曲で鳴る鐘の音は「昨日の僕」「あの日の僕ら」のために鳴っていたのだろう。そしてそれはもう「今日を過ぎて 明日は無い」。ところで、この鐘の音は「ポップコーンをほおばって」の「教会の鐘の音」と同じなんだろうか?「あの日の僕ら」というのは「ポップコーン」で別れを演じた二人なのだろうか?

この曲は、「東京の一夜」における別れと、その痛みに対する決別――過去との決別――と、明日に向かう決意の歌である。過ぎたことはすぎたことだ。今は目の前に広がる荒野と海に歩き出そうとしているのだ。さらに言えば、この決意は甲斐よしひろの中でとても重いものだったのかもしれない。というか、実際に歌ってみたら、作曲していたとき以上に重い決意だったことに気づいたのかもしれない。このアルバムバージョンの確信めいた重厚さと比べると、シングルバージョンのアレンジは、なにか決断しきれていないような、手探りで演奏しているようにすら聞こえてしまう。実際に表現したときに初めて「よし、これでいいんだ」と判った、みたいな。両者の違いには、そんなものも感じる。そしてこの決別に対する意識は、「ゆきずりの風」でもう一度歌われることになる。いやまあ、作曲は「ゆきずりの風」の方が先だったのかもしれないな。「ゆきずりの風」を録ってみて、同じようなタッチでシングルバージョン録って、このアルバムバージョンに至った、という流れの方が自然かもしれないな。ちょっとその辺りの経緯はわからないけれど。

過去との決別と、明日への決意――言い方とかえるとこういうことだ。「今が過去になる前に 明日へ走り出そう」。

初期から「HERO」~「マイ・ジェネレーション」くらいまでの甲斐バンドは、決してブレてはいなかった。

ガラスの動物園/6 東京の一夜

2008-10-23 | album:ガラスの動物園
「東京の一夜はこの街で過ごす一年のよう 東京の一夜はあなたの顔から微笑みさえ消してしまう」という歌詞は10ccの「パリの一夜」という曲が元ネタらしい。「パリ」と「東京」を差し替えただけで当時の日本盤の対訳のまんまだそうです(この辺り、考えてみれば「東京の冷たい壁にもたれて」と「ベルリン」との関係をちょっと彷彿とさせてそれはそれで興味深いのだけど)。それをキーフレーズとして(ベタな言い方だが)遠距離恋愛がうまくいかなくなって別れてしまう二人を描く本曲は、甲斐よしひろの自伝「荒馬のように」の「凄春」の章で書かれている、プロ・デビュー前からつきあっていた恋人との別れがおそらくモチーフとなっているのだろう。「荒馬のように」の中で甲斐は「(ツアーと東京での暮らしの中で)少しずつミュージシャンらしくなっていく。…ミュージシャンは脱皮を繰り返す。古いものを嫌うかのように」と書いているが、それは本曲の「そして僕は僕だけの道を歩こうとし 君は僕だけのためにただ生きようとした」にオーバーラップするし、また東京で一緒に暮らそうと何度も話し合うがうまくお互いが歩み寄れないくだりなどが「そしていつも傷つけることばかりの繰り返し 僕らは血を流しながらそれを愛と呼んだ」を書かせたのだろうと推測する。そして最後に「君」は東京へ出てきて、二人は「本当のさよならを口にした」。

「らせん階段」「新宿」でも描かれているが、地方から東京へ出てくるということは、当事者である若者にとっては今も昔も人生の一大転機だろう。その転機の中で何かを手にするかわりに棄てなくてはいけないものが出てきてしまう。そうした痛みを甲斐はかつて「あの頃」で書いたはずなのだが、福岡時代に書かれた「あの頃」におけるそれは、多分に実体験の伴わない想像の中でのものだし、観念的なものだったのだろう。その痛みを事実として受け止め、表現せざるをえなくなったとき、くだんの「パリの一夜」の一節が彼には切実に響いたのだろう。「東京」と「この街」では時間の過ぎていくスピードすら違うのだ。離ればなれの二人が同じ歩幅で歩んでいける筈がないのだ。

私小説的世界の色あいの濃い「ガラスの動物園」の中でも、本曲は最も甲斐よしひろが自身を晒した1曲だろう。実際、甲斐は「東京の一夜」によって、自分をさらけ出す方法論を試みたことを最近のインダビューでも発言している。乱暴に言えば、この後書かれた別れの歌のいくつかは、この「東京の一夜」の拡大再生産といってもいいかもしれない。

ガラスの動物園/5 テレフォン・ノイローゼ

2008-10-21 | album:ガラスの動物園

淡々と刻まれるドラムの音を聴いたとき、たいていのオールド・ロックファンは言うだろう。「スージーQじゃん!」

実は拍の頭に打たれるサイドシンバル以外は全くパターンも違うのだけど、その音色がよーく似てるんですねこれ(あと、2番のサビのところでヴォーカルの中音域をカットして、受話器を通して聴こえる効果を狙ったであろう鼻をつまんだ感じの声は「スージーQ」と共通するかも)。ところがいざギターリフが入って本格的にイントロが始まるとこれの元ネタはSteely Danの「Do It Again」だったりするところがちょっと面白い。そのリフに乗っての歌い出しAメロはどうやらSparksという英国バンドの「Never Turn Your Back On Mother Earth」からまんま持ってきたようだ。なんと言うかえらいごった煮状態なんだけれども、例えばこのギターリフ、元ネタのエレピ(クラビネット?)の雰囲気だけを上手くピックアップして、なおかつシニカルに聴こえるところが秀逸である。そう、この曲というか、このスタジオテイクの旨味は「シニカルさ」にあるのだ。脈絡があるのかないのかよくわからない言いっぱなし感満載の歌詞も、ドミナントであるE7の乗っかって始まるメロディーも、(さらにあえて言えば引用元とそのミクスチャー具合も)ユニークかつシニカルなんである。そしてキメに来るサビのコーラス。「テレフォン ノイローゼぇアハ」。「アハ」ってなんだよ「アハ」って?でもその脱力加減もクールかつルーズで、曲の雰囲気にあっててかっこいいと思う。そんなこんなが当時の甲斐バンドの精一杯の「シティ感覚」なのかもしれませんね。

この曲の歌詞、前述したように筋が通っているようにはとても読めない。後の井上陽水に通じるような、なんだかサウンド先行で作っていって、そこらへんに転がってた音に合いそうな言葉を見繕ってテキトーに乗っけちゃいました的な、なんというか、「音に書かされた」ような、いい意味でのラフさがある。そもそもサビからしてよくわからん。「テレフォン・ノイローゼ ずっと君の声が鳴りっぱなし 悩ましく今日も暗闇にベルが鳴る」さてこの鳴りっぱなしの彼女の声、毎晩ノイローゼになるくらい彼女が電話をかけてくるせいなのか、電話で彼女の声を狂おしいくらい聞きたくてノイローゼになりそうなのか?また、暗闇に鳴るベルは彼女からかかってきた電話なのか、「僕」が彼女にかけたのだけど、彼女はそこにいないから暗闇で詮無く鳴っているのか?

一見いずれも後者のように思える。何しろ彼女は「どれほど想ってる?」って訊ねても「4週間分よ」とそっけないし、熱があるのも首ったけなのもどうやら「僕」のようだからだ。でも最後に彼はこう言い放つじゃないか「あの娘は僕を夢中にしていると自惚れているけど いいように世の中廻してるのはこっちさ」。これは単なる「僕」の強がりだろうか、それも歌詞からはわからない。なんか全体的に気配だけを上手くすくいとって、細かい解釈は聴き手に委ねてる感じなのだ。そういう見方をすると、二番の歌詞もなかなか捻くれている。「いつも言葉は気ままなもの 僕を殺すこともできる」言葉を気ままに扱ってるのは、他でもないこの歌詞を書いているあんたじゃないか?そう反論する間もなく歌詞は続く。「天国の場所を お願い 空けといておくれ」。この歌詞、曲からは甲斐よしひろの熱い想いも生き様も伺えない。ただヘラヘラしてる。でも充分に傑作である。

ところで、「翼あるもの」もレパートリーに加わった「HERO」以降の後追いファンにとっては少々意外なことなのだが、この曲、発表以降随分と長い間、アンコールのしかも大ラスで演奏されていたようだ。「Story Of Us」で一部、当時のライヴでの音を聴くことができるが、前のめりのノリのいいビートが、スタジオバージョンを聞き慣れた耳にはやたら新鮮に感じる。もともとライブで演奏していたようなノリで録音したかったのが、スタジオではああなってしまったのか、ライヴを重ねていくうちに曲のノリが変わってしまったのかまでは解らないけれど、いずれにしろこの曲、いろんな意味で一筋縄ではいかない「したたかさ」を備えているようだ。

ガラスの動物園/4 新宿

2008-10-19 | album:ガラスの動物園
「らせん階段」で歌われていた「都会」という抽象的なイメージに対して、ここでは「新宿」が描かれている。と書いてはみたものの、別に新宿を具体的に描写してるわけじゃないですね。別に「池袋」でも「渋谷」でも、それこそ「高円寺」でもいいじゃん、という気がするが、ここでは都会、東京のひとつの象徴として「新宿」が挙げられているようだ。

駅の雑踏の中に見かけた「負け犬みたいに故郷行きの汽車に乗る若い奴」を上京当時の自分とオーバーラップさせる。恋人は故郷に残してきた。その恋人宛の手紙に「街の暮らしは とってもいい」と綴りながら「勝つか 負けるか それまでは戻れないと」思いつつ、これからも歌い続けるぞと誓う、という独白的な内容の歌詞の中に挿入された「いつ終わるともない日々に いつだって人は 命をすり減らして行く 自分の姿を見る」といった「らせん階段」的な描写が個人的には秀逸に感じる。

さてこの曲、サウンド、アレンジ上の元ネタは今さら言うまでもない、ルー・リードの「ワイルド・サイドを歩け」。元ネタはトーキングブルースっぽいのだが、甲斐よしひろのワイルド・サイドはメロディアスというか当時のフォークソング調というか、個人的に連想するのはなぜだか拓郎の「制服」だったりする。

しかし、「Run Through The Jungle 」に対する「黒い夏」にしても本曲にしても、また「One Man Band」に対する「吟遊詩人の唄」にしてもそうなんだけど、どうも甲斐バンドは洋楽の元ネタに対してメロディアスかつポップな方向でアプローチするようだ。恐らく当時のリスナーにとってとっつきやすい曲とはなっただろうけど、こうしたアプローチに(結果的に)限定してしまったことで、甲斐バンドの音楽性が当人が「俺たちはロックだ」と主張しても、ニューミュージックやフォーク、歌謡曲として解釈されてしまう一因となっていたのではないか。決して「どうせならもっとモロにパクれよ」と言う意味ではなく、中期甲斐バンドあたりまでに、元ネタの洋楽に近い曲作り、つまり、メロディのウェイトを下げてでもバンドのグルーヴとヴォーカルの声をもっと信じて、それらが際立つようなアプローチによるトラックが録音されてもよかったように思う。メロディよりもリズムやグルーヴを優先する音楽性を持ち得ていれば、甲斐がソロになった後の「Love Is No.1」のあまりに付け焼き刃的に響くラップ(笑)部分なんかもっと上手く処理できたんじゃないだろうかと思うし、「漂泊者」や「ボーイッシュガール」なんてひょっとしたらもっとかっこいい曲になってたかもしれない。「新宿」という曲には直接の関係はないけど。

ガラスの動物園/1 ガラスの動物園のテーマ

2008-07-17 | album:ガラスの動物園
トランペット1本によるインスト曲。徹夜でレコーディングしているスタジオでフッと浮かんだのではないか、そんなシンプルなメロディーだが、表ジャケットの印象とよく合っている。本曲によって、「ガラスの動物園」を舞台とした男と女のドラマの幕が開ける。なんちゃって。