大沢真理,2002,男女共同参画社会をつくる,日本放送出版協会.(9.9.24)
日本社会が直面するデフレと少子高齢化の悪循環。そこから脱却するためには、男性も女性もともに、仕事と家庭・地域活動を両立できるような環境を構築し、社会を活性化することが必要ではないか。税制・社会保障・雇用制度などの社会政策システムを「会社人間」と「内助の妻」カップルを優遇する「男性稼ぎ主」型から、性やライフスタイルに中立な「両立支援」型に改革することを提唱する。人が性別に縛られず個性と能力を存分に発揮できる社会のあり方を、持続可能な具体的改革案をとおして摸索する注目作。
本書は、高度経済成長期から21世紀初頭までの、ジェンダー平等に関連する社会政策の流れを俯瞰できる一冊だ。
1990年代後半以降の、男女雇用機会均等法の改正強化、介護保険制度の導入、労働規制の緩和、とくに派遣労働の自由化が、スカンジナヴィア諸国にみられる社会的投資国家へ向かうベクトルと、新自由主義によるワーキングプアの創出、社会福祉の選別主義化へ向かうそれとを内包するものであった事実は重要だ。
ようするに九〇年代の日本福祉国家は、男女の就労支援と介護の社会化という一筋の両立支援」型=スカンジナヴィア・ルート、労働の規制緩和の面では新自由主義ルート、不況のもとでリストラと非正規化が進み労働市場の二重構造が強まるという意味の保守主義ルートを混在させながら、総じて「失われた一〇年」を送った。八〇年代初年から見れば社会政策の選別主義も強化されており、新自由主義ルートの様相が濃い。とはいえ、八〇年以降あまり変化しなかった労働力率が、長い不況のもとで、九〇年代末にいたってとくに女性で低下しており、労働削減ルートをたどる可能性も否定できない。
(pp.190-191)
そして、現在に至るまで、新自由主義による貧困の創出と社会福祉の選別主義化が進行してきたことは、言うまでもない。
大沢さんは、ジェンダー平等が達成された社会のありようを、明確に描き出す。
「両立支援」型の社会政策システムをつうじてつくられる男女共同参画社会とは、個人が「性別」に縛られず、個性と能力を存分に発揮して輝く社会である。これまでの日本社会が、同期入社の男性正社員どうし、業界内の同様規模の企業どうしなどといった閉じた集団のなかで、横並びや〝護送船団〟方式で一種の平等を図るいっぽう、性別や企業規模別の大きな格差を当然のこととしてきたとすれば、男女共同参画社会では少なくとも性別によって集団を閉じることは許されない。
個々人の個性と能力の発揮いかんによって、男性どうしにも女性どうしにも差がつくことになる反面(働きにみあった処遇)、個人が個性と能力を存分に発揮できる環境が、本書が具体的に提案したような、誰もが自由に利用できる公共財や普遍的サービスの形で保障される。それは、個人が年齢や出身地・出身階層、障害の有無などにもとらわれずに活躍できる社会のはじまりである。誰もが趣味の活動や、子どもを生み育てたり、愛する人を看取ったりすることと仕事を両立することができ、社会の持続可能性が増す。市場競争が苦手な人にもナショナル・ミニマムが保障され、なんどでも挑戦する機会が開かれており、世代間の連帯をつうじて老後の生活格差は縮小される。かけがえのない個人の個性と能力が、所得や地位に還元されず多元的に評価される社会では、勝ち組と負け組の二分法も無意味になるのである。
(pp.238-239)
性別、障がいの有無と程度、疾病や失業等のリスクが、選択の余地なく決定され、人生を左右することを考えると、だれもが生存に必要なベーシックサービスを保障される社会的投資国家が待望されるわけだが、とくにここ30年のあいだに展開された社会政策は、それとはほど遠く、ジェンダー平等の課題も含めて、後退に後退を重ねてきたと断じざるをえない。
こんなろくでもない社会になってしまい、人生これからの若い人たちには申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
目次
序章 男女共同参画は日本活性化のカギ
第1章 ジェンダーに縛られない社会―男女共同参画がめざすもの
第2章 「男性稼ぎ主」型の形成と補強―高度経済成長期から一九八〇年代まで
第3章 放置されたジェンダー・バイアス―やぶにらみの生活大国五か年計画
第4章 橋本六大改革の光と影―「男稼ぎ主」型は改革されたか
第5章 小泉「骨太方針」を検証する―比較ジェンダー分析の視点から
第6章 男女共同参画社会への道―「両立支援」型の社会政策システムでつくる