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本と音楽とねこと

フェミニズムの時代を生きて

西川祐子・上野千鶴子・荻野美穂,2011,フェミニズムの時代を生きて,岩波書店.(6.30.24)

日本におけるフェミニズム運動のパイオニア世代の三人が、個人史の軌跡を時代の中に位置づけて語る。草創期の女性史・女性学の熱気、学生運動や「慰安婦」問題との関わり、異性愛者としての立ち位置、そして老いつつある自らの経験と死について。後に続く世代に残す、貴重な歴史的証言。

 日本のフェミニズム、女性学、ジェンダー研究を牽引してきたお三人による対談集。

 なかなか興味深い内容だった。

 フェミニズム、というより、リブの系譜の女性には、化粧やオシャレをすることは、男に媚びる、自らの身体を性的客体として男の眼差しにさらすことであるのだから、それらを拒否するという人たちがいた。
 しかし、そうした決めつけは、女性が同性を意識し自らのナルシシズムを充たすためにも化粧やオシャレをすることをふまえていないし、かりに自らを性的に客体化することが目的であるとしても、大切なのは、性的客体同志としてのジェンダー関係において、身体の道具化、モノ化を可能な限り回避することにあろう。
 わたしたちは、女を、男を、コスプレする存在である。
 コスプレすることで、パフォーマティブ(行為遂行的)に、女になる、男になる。
 いずれにしても、禁欲的フェミニズムは、それ自体、身体を疎外する、無理筋の主張だ。

上野 ジェンダーの様式にも、「尽くす女」とか、いろんなバラエティがあるけれど、私は自分がラクなモードを選んでいる。ジェンダーのモードは、利用可能な文化資源だと思う。その点では、私は、リブの女たちが化粧を捨てようと言った時に、文化史的・人類史的に見て人類が装うことをやめるなんてあり得ない、女が化粧をしてきたことをジェンダー・バイアスだと言うならば、これから先は男も自由に化粧をできるようにしようという方に動くはずであって、女も男も化粧をやめようという方向に行くはずがない、と思った。そう予想したらやっぱりそのとおりになった。人間が、身体変形も含めて、社会的なコスプレをやめたことは一度もなくて、それを全部やめようというのは極端なイデオロギー以外にあり得ない。だから私は、自分がアクセサリーをじゃらじゃらつけることに対する恥もやましさもまったくない。くやしかったらお前もやってみろ、と言うだけの話。コスプレのコードやモードがあって、それが自分に対して抑圧的だったらやめたらいいけれども、利用可能なものだったら利用したらいい。
 私が最初に書いた『セクシィギャルの大研究』を短大の女の子たちに見せた時に、「先生、ものすごく勉強になったわ。こないしたら男に受けるんやね」って言われた。あの本のたった一つのメッセージは、「あんたに女のコスプレをやめろとは言わん、ただし、自覚してやれ」ということね。
(pp.204-205)

 フェミニストのなかには、結婚(法律婚)することは、家父長制社会の男権に従属することだと主張する人もいる。
 いまだに、日本には戸籍制度があり、夫婦同姓主義をとっているのだから、そうした主張も宜なるかな、である。
 しかし、事実婚のままでは、いろいろと不都合、不利益があるのも事実であるし、結婚しているからといって、必ずしも、お互いに、「身体の専属使用権」を行使して束縛し合わなくとも良い。

上野 いつか小倉千加子さんが、結婚したフェミニストのアキレス腱はセクシュアリティだ、なぜなら自らのセクシュアリティを封印した人たちにセクシュアリティを論じられるわけがないから、と言っていた。もっともだと私は思う。
 封印の仕方にもグラデーションがあって、西川さんならば、一夫一婦制のコードに自分のセクシュアリティを封印したと言われるかもしれないし、私ならばセクシュアル・マイノリティの人たちから、ヘテロセクシュアルなコードに自分のセクシュアリティを封印したと言われると思う。それは五十歩百歩の差だけど、その五十歩百歩の差が大きいとも言える。
西川 自分のセクシュアリティを人知れぬよう封印してきたという意識はずっと前からある。だから、今聞いて、私の考えていたことを小倉さんに言語化されたと思ったわ。
上野 私は、今時の若い人たちが、なぜ結婚という相互に排他的な契約関係に入ってまで、自他のセクシュアリティを拘束し合いたいのか、理解できない。
荻野 生活上のリスクを減らして安心したいということなんじゃない?
上野 それなら、結婚って単に生活の上での便宜主義なの?でも便宜主義の中にセクシュアリティに関する契約関係が含まれている。相手の身体の性的使用に関して、私に独占的な権利が発生するなんて、考えただけでもおぞましい。
西川 私自身は、独占契約も永続契約もないということが始めから前提だった。もう二〇年も前に、上野さんに今と同じ問いをされて、結婚している当事者同士がそんな契約しているとは限らない、と返事しました。今の学生を見てもそう思う。
荻野 実際に、必ずしも一夫一婦制を守っているわけでもないですよね。ただ、一夫一婦制のルールで行った方が、生活上のいろんなリスクを減らせるし、さらに、嫉妬とか不快感という感情が起きるのを避けたい、という心理的な便宜主義もあると思う。
上野 そういうふうに言ってしまえば、結婚はセキュリティ・グッズ(安全保障財)、しかも実はあまり頼りにならないセキュリティ・グッズだということになりますね。人々のセキュリティ志向を責めるわけではないけれど、それだけの理由では、私は保険に入らない。とりわけ、自由を求めるフェミニストが、自らの身体の自由を進んで手放すなんて、信じられない。
(pp.217-218)

 わたしの場合は、双方の親とのトラブルが鬱陶しかったのと、婚姻制度抜きで長期にわたって関係を持続させる自信がなかった──とくに高齢独居になるのが怖かった──ため、結婚した。
 弱っちいと嗤いたければ嗤え。笑

 ネオリベと家父長制のダブル抑圧のなかにおかれている若い女性の生きづらさの問題は、深刻だ。

上野 総合職コースというエリートコースが開かれたけれど、女は激烈な形で自己決定・自己責任というネオリベの競争原理の中に投げこまれました。そこで挫折して体をこわしたりしたら、競争に耐えきれなかったことになる。選択肢が増えた今の世代の母娘関係では、娘は息子としての役割と同時に娘としての役割も果たさねばならないのよね。できのいい娘たちは、男なみの成功も獲得した上で、女としての幸せも獲得しなければならない。どちらか一方では欠陥品だというプレッシャーの下に置かれているわね。
 小倉千加子さんの『結婚の条件』(朝日新聞社、二〇〇三年)には、首都圏の高経済階層の娘の事例がたくさん出てくる。セレブ妻になれる可能性のある娘たちが、母親の期待を背負って業績主義の中でがんばっても、もし自分が失敗をした時にそれを帰責する相手が自分しかいない。
荻野 母親のせいだとは思わないわけ?
上野 自分も母親と同じ価値観を持っているから。母親は抑圧者にも見えるけれど、応援団でもあるのよ。できのいい子だって、不安も自信のなさも動揺もあるのに、失敗したら自分を責めるしかない。あの子たちが自傷に走るのは無理もないと思うわね。私のゼミでは、このところメンタル系の比率が急速に増えている。実感で言うと、ゼミの二割。食べ吐き、リストカット、引きこもりなど。
荻野 メンタル系とうつは、確かに多いわね。
上野 外に向けて不満を出せないから互いに連帯もできず、自傷に行くしかない。いっそ出して非行にでも走ればいいのに、と思う。
荻野で も、それで人を殺しに走ってもねえ。
上野 そうか。外に向けて出すというのは、自分を殺すか人を殺すか、ということなのね。他人を傷つけるのは男の子が多いかな。女の子はセックスね。でも、男の子は引きこもりも多い。対人恐怖、引きこもり、うつ。その結果として、向精神薬依存。今、毎食後にこれだけ飲んでいますって、学生が薬をぞろぞろと見せるのよ。医者がどんどん処方するんだって。薬物依存になっていて、朝になっても薬が抜けないからぼうっとしている。集中力がありません、勉強する気になれません、レポート書けませんって言う。薬やめなさいって言うと、「薬やめたら不安です」って。これが私の職場の現実なの。
(pp.234-235)

西川 でも、今の若い人たちが無気力に見えるとしても、社会状況が悪くなって追い詰められていったら、やっぱり立ち上がるはずですよね。
上野 それはないと思う。マルクスの絶対窮乏化論、つまり、プロレタリアートはぎりぎりまで抑圧されたら立ち上がるんだという理論は、歴史によって反証されています。どんな人間もぎりぎりまで抑圧されたら、抑圧に慣れて、その中でサバイバルするようになる。そういう無力化の背後にあるのがネオリベの原則で、それが本当に内面化された気がする。
西川 自己責任で解決しようとするのが罠であることを知り、現実を仕組みの問題として捉えた時、呪縛が解ける、挫折からの再出発もあるよ、というのが、結局、私のジェンダー論の授業だったかな。
上野 これは私が悪いんじゃない、社会が悪いんだ、という回心が起きたモデルケースが、雨宮処凛さんね。自分の問題を語るためのボキャブラリーを、彼女が嫌っていたサヨ(左翼)が教えてくれた。それで彼女は理論武装して、急速にニートの女神になったのよ。
荻野 でも、ネオリベにすべての原因があるのではなくて、今の子たちが育った物質的な状況の中で、勝ち負けという価値観が身体化されていて、そこにネオリベの論理が浸透しやすかった部分もあると思う。
上野 その部分も含めて私はネオリベだと思う。
(pp.236-237)

 対談を文字起こししたものは読みやすい。
 これからフェミニズム、女性学、ジェンダー研究を学びたい人におすすめだ。

目次
第1部 女が老いる、ということ
老いはいつ始まるのか
二つの老い―ボーヴォワールとフリーダン
老いの表象
触る/触られることへの要求
老いとセクシュアリティー
老いた女の価値
老いる場所
自分の死
第2部 フェミニズムの時代を生きて
個人史
フェミニズムの時代
制度としての大学、女性学の制度化
九〇年代以降
異性愛者として生きる
第3部 フェミニズムの行方
一枚岩ではないおひとりさま
非選択的おひとりさま
階層の違いを越えてつながるということ
退職後に変わったこと、変わらないこと
性別二元論は今でも有効か
ウェブによるネットワーク作り
後続世代へのメッセージ


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