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本と音楽とねこと

<おんな>の思想──私たちは、あなたを忘れない

上野千鶴子,2016,<おんな>の思想──私たちは、あなたを忘れない,集英社.(6.30.24)

森崎和江らが著作を発表した60年から80年代、フェミニズムは黎明期を迎えた。思想形成期だった著者は、自身の核に深く食い込む影響を受けた。“女が語ろうとした時「男ことば」しかなかったところから、前を行く人が苦しみを背負ってくれた。そんな彼女たちのことばがわたしの血となり肉となった―。”外国語作品を含めおんなの思想を形作ってきたパイオニアの足跡を次の世代の女たちに伝える1冊。

 本書は、ジェンダー・スタディーズ、というより、ザ・フェミニスト、上野千鶴子さんにに大きな影響を与えてきた、森崎和江、石牟礼道子、田中美津、富岡多惠子、水田宗子、ミシェル・フーコー、エドワード・W・サイード、イヴ・K・セジウィック、ジョーン・W・スコット、ガヤトリ・C・スピヴァク、ジュディス・バトラーの思想が学べる一冊だ。

 愛と性、生殖は切り離すことができるが、森崎和江はそれをしなかった。
 森崎さんは、性愛の意味を自らの実存において追求し、その意味を生き抜いた。

 有史以前から、何万年も男と女は媾い、子をなしてきた。性と産という経験はあっても、その経験の思想化がなかったのだ。思想などなくても、ひとはセックスし、孕み、産む。それを自然であり本能であると言い放つのは、思考停止と怠慢というほかはない。ひとの営みのうち、死は思想と宗教と形而上学とを生んできた。生まれてきた者はすべて死ぬ。これまでに生まれてきた者のうちで、死ななかった者はいない。死については多くの人々が考えぬいてきた。主として男たちによって。だが生については、とりわけ性と産とについては、誰が考えてきただろうか。男たちは、性と産とを「女の経験」として自分の外へとおしやり、それを「自然化」することによって、考えないようにしてきたのではなかったか。なぜなら、彼らは、女を憎み、女への自分の依存を憎み、性を実のところ汚いものと貶め、女から生まれたことを忘れようとしてきたからだ。
 女が自分の経験、しかもそのなかでももっとも切実な経験である性と産とを思想化しようとしたとき・・・・・・そのためのことばがなかった。男のことばは役に立たず、女のことばは生まれていなかった。わたしとは誰か、毎月血を流す女とは何者か、性とは何か、孕むとはどんな経験か、わたしが産むとき、わたしはいったい何を産むのか・・・・・・次から次に生まれるそのつんのめるような問いに答える解は、どこにもなかった。思想という思想が、男のものだったからだ。
 性も産も、女ひとりでなしとげることはできない。ならば性の思想と産の思想とを、一対の男女のいのちとことばを賭けて、対峙するなかから生み出せないか・・・・・・その相手に森崎は詩人・谷川雁を選んだ。最初に谷川が森崎を選んだが、森崎はそれに応じた。ことばと身体とで互角に闘える相手として、不足はない、というべきだったろうか。
     愛とたたかいの試験台になろうというお話は、私の希望でもあります。(中略)ほどなく私のおっぱいはちいさくなってしまいます。私を刺してごらんなさい。キリストほどの血が流れます──(森崎1965:104)
(pp.22-23)

 金子文子が朴烈に宛てて書いた告白を彷彿とさせる。

 性について森崎は「単独者の実体ばかりではなくその影まで崩壊させんとする相互の傾斜」(森崎1965:55)と書く。「性交渉は、文明を抱くようなもの」(森崎1965:110)ともいう。
     性の交換は、千万のことばよりもふかく個体の基本的資質を表明するんです。わたしはそこにあらわになるものを、男あるいは女の普遍性と個の特殊性とのかねあいとして凝縮させ、そして内的な交換をふかめていきたいとうろうろしつづけました。(森崎1965:96)
 こう考える女に、そして男にも、すくなくとも援助交際や売買春はできないだろう。裏返しにいえば、援助交際も売買春も、性に対するみくびりのもとでしか可能でない。性をみくびった者には、それに見合うだけの対価しか、与えられないということだ。
     わたしは性の交換が、この世界で果す役割りをみきわめようとすることが、このように存在のすべてにかかわってしまうことをかなしみました。(森崎1965:106)
 そしてそのために別れを告げなければならなかった夫について、こう書く。
     わたしは夫を知ったこと、彼の子供を生んだことを、一切をぬきにしてその人格への感謝のようなものとして心あたたかくおもいおこすんです。(森崎1965:106-107)
 性交渉の敷居が確実に下がり、性行為がテクニックの集合になったように見える現在、性が存在を賭けたまじわりから遠くなってどれだけ経っただろうか。セックスなど命を賭けてやるほどのものではない、とさげすんできた挙げ句に、それからもっとも豊かな果実を味わう可能性を失ってしまったのが、わたしたちなのかもしれない。
(pp.25-26)

 ウーマン・リブは、学生運動、新左翼運動における、女の男に対する幻滅から生まれた。
 その幻滅を激烈なビラにしたものが田中美津の「便所からの解放」だだった。

 だが、「性の解放」は、男と女とのあいだでまったく非対称的な効果をもたらした。性経験の多いことは、男には勲章だったのに、女にとってはスティグマ(負の烙印)だった。バリケードの裏で、「すぐ寝る女」は、男子学生のあいだで公然と「公衆便所」と呼ばれていた。その同じコトバが、「慰安婦」を指す皇軍兵士の隠語であることをわたしが知ったのは、それから二〇年後、九〇年代に入ってからのことである。
 リブはそれ以前のどんな女性運動も正面切ってとりあげなかった、セクシュアリティを初めて主題化した女の闘争だった。その訴えがこれ以上ない明晰な日本語でこの世に登場したのが、この日だったのだ。
 「便所のワタシと汚物のキミよ・・・・・・我らが惨めな性」と題された段落から、引用しよう、
     男にとっては女は母性のやさしさ=母か、性欲処理機=便所か、という二つのイメージに分かれる存在としてある。(中略)男の母か、便所かという意識は、現実には結婚の対象か、遊びの対象かという風に表われる。(中略)やさしさの性と、官能の性を一体として持つ〈女〉は、支配階級の要請で作りあげられた男の分離した意識の前に解体され、部分として生きることを強要される。しかし、女を部分としてしか生かさない男は又、そうすることによって、自らも部分としてしか生きることができず自らの性を抑圧しているのだ。(田中2001:338)
(pp.74-75)

 資本制によって再編成された家父長制社会において、男たちは、女を、一方で聖母、他方で娼婦として理想化し、実際に、女をその両者の鋳型に嵌めようとしたが、生身の女は純粋な聖母でも娼婦であるわけではなく、その結果、男たちは、女へ逃走し、そして女から逃走する。

     日本の近代文学において、男をこの内面の発見へと導くのは〈女〉である。そこでは男は〈公〉の場=社会から離脱して、〈私〉の領域へと沈潜する。〈私〉の空間にいるのは女であり、〈女〉に誘導され、また〈女〉を求めて、男は〈私〉の領域へと没入していく。(水田1993:63-64)
     男たちの私領域=女への逃走の経路には、二つの目立ったパターンがある。ひとつは家庭への逃走であり、他は家庭からの逃走である。家庭という保護領域の中にいる、妻という自分だけの女のもとへの逃走と、家庭という小社会にいる妻という世俗から逃れて、より純粋な女を求めての色街への逃走。(水田1993:65)
     しかし、この両方ともに、主人公は求める女をそれらの〈私〉領域に見つけることはできない。なぜなら、(中略)彼らがそこに見出すのは、メタフォア(引用者注・隠喩)としての〈女〉ではなく、生身の女という性的な他者である。(中略)〈女〉というメタフォアに自らの内面の救済を求める近代日本文学の男たちは、(中略)現実の女に失望し、苦しみ、そして女から逃走する。(水田1993:65-66)
(pp.132-133)

 セジウィックは、近代家父長制社会における強制異性愛が、ミソジニーを介し、ホモフォビアをともなう男同士のホモソーシャルな連帯のうえで成り立っていると指摘した。

 ホモソーシャル(男同士の絆homosocial)とホモフォビア(同性愛恐怖homophobia)とは、男を異性愛へとさし向ける制度である、とセジウィックは喝破する。そしてミソジニー(女性嫌悪misogyny)という概念がその媒介として働き、男は、そして女も、異性愛へと強制されているのだという。
 異性愛とは、ジェンダー二元制のもとで男を女に、女を男に、番わせる制度である。男女が性的に一対になることを通じて、結婚と家族の制度が完成する。異性愛の制度とは、「異なる性」に属する対象に欲望せよという、禁止と命令からなるルールのことである。
(p.208)

 上野さんは、「〈ホモソーシャル、ホモフォビア、ミソジニー〉の三点セット」から、性暴力を動機づけるマインドセットを見事に説明する。

 すなわち婚姻とはふたりの男女の絆ではなく、女の交換を通じてふたりの男(ふたつの男性集団)同士の絆を打ち立てることであり、女はその絆の媒介にすぎない。ここに男同士の絆の本来の目的があり、異性愛者の「真の絆」の対象は、女ではなく同性の男なのである。
 このセジウィックの説には、以下の三つの概念の構造的な配置がある。第一は、男同士で互いに男と認め合った者たちの連帯である。これをセジウィックはホモソーシャル(男同士の絆)と呼ぶ。第二は、男の欲望を女にさしむけるための、同性の男に対する欲望の禁止である。これがホモフォビア(同性愛恐怖)である。第三は、男同士の連帯から排除され、欲望の対象となる女の他者化(ミソジニーすなわち女性嫌悪)である。これが〈ホモソーシャル、ホモフォビア、ミソジニー〉の三点セットである。
 もっとかんたんに説明しよう。男は、互いに男と認めあった者たちのあいだで連帯をつくりだし、その男の集団への参入資格が「女をモノにする」ことである。そしてそのあいだに潜在している男同士の欲望は、そのつど検閲され、排除される。それによって異性愛制度は維持されていく。それが男から同性愛者に対する「おまえ、おかまかよ」という差別と排除であり、「キモチわるい」という身体化された検閲の機能である。
 そう考えれば、強姦の多くが、「まわし」と呼ばれる輪姦の形式をとる理由が理解できる。強姦についての研究は、強姦が性欲から発しているわけではないことをあきらかにしてきた。強姦は女をとことん差別化し他者化する辱めの儀式であり、この他者化は他の男と共有されることを通じて、男同士の絆を生むのだ。彦坂諦(1933-)の論じる戦時強姦(第二次世界大戦時、日本兵のアジア女性への強姦)(1991『男性神話』)やスーパーフリー事件(早稲田大学学生による女子学生への集団暴行事件)など、今日の若者のあいだでもくりかえされる輪姦の報道に接するたび、殴打されたり、泥酔したりして、正体をなくした女を相手に勃起できるものかと、わたしは素朴な疑問を抱いてきたが、逆に言えば、このような状況のもとでも勃起し、女を犯すことのできる者たちだけを、互いに「男と認め合う」盟約の関係が、ホモソーシャルというべきものなのだろう。
(pp.210-211)

 ジェンダーだけではなく、セックスもまた構築されたものである。
 このバトラーの言説は波紋を呼び起こしてきたが、上野さんの説明を読めば、その真意が正確に把握できる。

 バトラーの徹底した構築主義は、同じように「おんな」という主体をもほりくずす。「おんな」とは反復される言説実践の効果にすぎず、「おんな」というアイデンティティはその沈殿物だと。「おんな」というアイデンティティが予め存在し、それが原因となって、さまざまな「おんならしさ」が存在するのではない、「おんならしさ」の遂行的行為が原因となって、「おんな」というアイデンティティが事後的に構築されるのだ。その順序をまちがえてはならない。
 たとえば一生を「おんな」としてふるまい、周囲から「おんな」と認知されてきた個人にペニスが備わっているとして、この個人は「おんな」だろうか、「おとこ」だろうか?そしてそれを判定するのは、誰だろうか?
 バトラーの定義に従えば、「おんな」とは「おんなとしてふるまいつづけてきた者」、「おとこ」とは「おとこのようにふるまいつづけてきた者」にすぎない。「おんな」もしくは「おとこ」をつくるのは、ふるまいなのである。これをバトラーは「行為遂行性performativity」と呼ぶ。ふるまいは日々の反復的な実践であり、本質でもアイデンティティでもない。
 なかには「おんな/おとこ」のくせに、「おんな/おとこらしくないふるまいをする者」もいる。カテゴリーとはそうした逸脱すら含んで、二元的にできている。ジェンダー体制とは、どちらにも属さない中間項を排除して、二元的に成立した言説の秩序であり、セックスはその一部なのだ。そのような二元秩序のもとでは、その二元秩序を維持するために「自然」のほうが変形を迫られる。新生児の二〇〇〇人に一人(インターセックス・イニシアティヴによる)と言われるインターセックス(半陰陽)の個体は、二元秩序に従属するために、性器の切除や加工を要請されさえする。
 このジェンダー二元体制を、バトラーは強制異性愛規範heteronormativityと呼ぶ。この二元秩序からはみだしたものはすべて異端となり病理となる。この強制異性愛への挑戦において、バトラーは「クィア理論家」と呼ばれることがある。「クィアQueer」とは日本語で「変態」の意味。逸脱的なセクシュアリティ──LGBT(Lesbian,Gay,Bisexual,Transgenderの略語)のような性的少数者を扱う研究と考えられている。
 だが、バトラーを「クィア理論家」と呼んだのは、レズビアン・フェミニストのテレサ・デ・ラウレティス(1938-)であって、彼女自身ではない。クィア理論とは、その実、逸脱的なセクシュアリティを論じる学問ではない。それどころか、逸脱を通じて強制異性愛秩序の成り立ちそのものを脱構築する根源的な挑戦を指している。だとすればバトラーが挑戦したのは異性愛秩序そのものであり、「クィア理論家」と呼ばれる必要もない。
 ジェンダーがこのように無根拠なものだとすれば、「おんな」と呼ばれるカテゴリーもまた無根拠である。だとしたら「おんな」というカテゴリーに、共通のアイデンティティも「おんならしさ」の本質も存在しないことになる。だとしたら、何を根拠に「おんな」は「おんな同士」として、集合的アイデンティティを基盤に連帯できるのだろうか?
(pp.279-281)

 わたしたちは、「おんな」を、「おとこ」をコスプレして生きている。
 それは、たんなる役割演技に過ぎないが、反復される役割は、アイデンティティの中核にあるものであるかのように錯覚される。

 わたしたちの価値意識と現実感覚は、恣意的にして権力と結びついた言語、言説によって構築される。
 その作為から距離をおき、自己と他者、状況を定義し直す実践、それがジェンダー・スタディーズなのであろう。

目次
第1部 “おんなの本”を読みなおす
産の思想と男の一代主義―森崎和江『第三の性‐はるかなるエロス』
共振する魂の文学へ―石牟礼道子『苦海浄土‐わが水俣病』
リブの産声が聴こえる―田中美津『いのちの女たちへ‐とり乱しウーマン・リブ論』
単独者のニヒリズム―富岡多惠子『藤の衣に麻の衾』
近代日本男性文学をフェミニズム批評する―水田宗子『物語と反物語の風景‐文学と女性の想像力』
第2部 ジェンダーで世界を読み換える
セックスは自然でも本能でもない―ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意志』
オリエントとは西洋人の妄想である―エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』
同性愛恐怖と女性嫌悪―イヴ・K・セジウィック『男同士の絆‐イギリス文学とホモソーシャルな欲望』
世界を読み換えたジェンダー―ジョーン・W・スコット『ジェンダーと歴史学』
服従が抵抗に、抵抗が服従に―ガヤトリ・C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』
境界を撹乱する―ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの撹乱』


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