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生き延びるための思想

上野千鶴子,2012,生き延びるための思想(新版),岩波書店.(6.29.24)

大義のために生きること、それはしばしば反転して「死ぬための思想」として機能してきた。女性も兵士となる権利をえるのが「平等」か、自爆テロや連合赤軍事件にかかわった女たちはどんな力学の中にいたのか―。「逃げよ、生き延びよ」と、弱者が弱者のままに生きられる社会のためのメッセージをこめた論考群。東日本大震災後の東京大学最終講義等も収録した新版。

 「市民社会」と暴力についての考察が、たいへん興味深かった。

 「市民社会」は、暴力が免責される二つの領域をもつ。

 一つは国家であり、一つはドメスティックな私生活領域である。

 国際法を遵守する限り、国家間の戦争において、敵を殺傷することは、犯罪とはならない。
 警察官が犯罪容疑者を拘束する際にふるう暴力も同様である。

 人格崇拝(デュルケム)を旨とする近代社会において、ドメスティックな私生活領域は、公権力が冒すべからずの神聖なものとなった。
 しかし、フェミニズムは、家父長制社会における市民とは男性のことであり、私生活の場において、家長(として)の男性が、女性や子どもに暗然と暴力を振るい続けてきたことを明るみに出した。
 そして、その暴力もまた、長らく、免責され続けてきた。

 暴力も社会的資源であり、かつ公的暴力は市民の非武装化を通じて社会的に稀少化された資源である。その平等分配を求める思想がフェミニズムだろうか。その問いに答えるには、いましばらく女性と暴力との関係をめぐって、国家という公領域だけでなく、私的領域というもうひとつの極を考察してみなければならない。市民権と暴力行使の権利義務の配分に関しては、公的領域だけを見ていてはふじゅうぶんであり、「もうひとつの暴力」が行使される領域、つまり私領域との関連を検討する必要がある。そしてこの両者の暴力(公的暴力と私的暴力)を串刺しにする論理こそが、市民概念の男性化と密接に結びついている。
 国民国家の中には非犯罪化された暴力の行使の主体が二つある。一つは国家であり、公的暴力の組織化されたエイジェントとしての軍隊である。もう一つは、私領域であり、そこにおける夫や父の暴力である。この私的暴力もまた非犯罪化されている。DV(ドメスティック・バイオレンス)防止法は成立したが、それは被害者を保護するための法律であって、加害者を違法化する法律はまだ成立していない。公的暴力と私的暴力の二つは、市民社会の領域で犯されたなら犯罪となるはずの行為が、犯罪に問われずにすむ特権的な暴力である。国家と家族というこの両極は、市民社会の外部にあり、市民社会の法に従わない点で一種の無法地帯と言える。この両極を通底する論理があるはずだというアイディアを、わたしはカーバーから得た。
 DVや児童虐待が問題化されるまで、私的領域への公権力の介入は、プライバシーの名において忌避されてきた。セクシュアル・ハラスメントも、それが問題化されるまでは、会社はもとより労働組合に訴えた場合にさえ、「組合は私人間のプライバシ-に関与しない」として、門前払いを食らわせられてきた。プライバシーという概念は、家族をブラックボックスにすることで、その家族の中の権力者すなわち家長の利益を守ってきたのである。そして市民とはほかならぬこの家長をさした。
 フェミニズムの標語が、「個人的なことは政治的である」というものであることはよく知られているが、さらに踏みこんで「私的な領域とは公的につくられたものである」と喝破したのがジョーン・スコット[Scott1996]である。フェミニズム法学者、フランセス・オルセンもまた「私的領域への公権力の不介入」原則もまた、公的につくられたものであり、「不介入も介入(の一種)である」とする。介入/不介入のいずれをも含めて、そもそも私領域が国家から独立していることはありえない、と主張する[Olsen1983,1985]。
 だとすれば私的領域における家長の暴力を免責したのは、国家にほかならないことになる。公権力の代理人、警察権力もまた、夫婦間暴力に関しては、通報があっても介入を拒否して立ち去るのがこれまでのつねであった。もちろん、現行法のもとでも妻が夫を傷害罪で、子どもが親をレイプで訴えることは論理的には可能である。だが、夫婦間強姦を久しく認めてこなかった司法の判例や、虐待(という名の犯罪)に介入してこなかった行政権力は、その慣行によって、家庭内の暴力行為を実質的に非犯罪化してきた。家族は市民社会の外部に置かれることによって、市民社会のルールが通用しない領域となり、家父長権力の無限定な行使に対して私的暴力の非犯罪化が行われた。
(pp.26-28)

 国家が行使する軍事力とはいったい何だろうか、国家暴力つまり軍事力を正当化する根拠は何だろうか、という問いに答えてみたい。
 国民軍の軍事力の根拠は、「国家暴力の非犯罪化」と言ってよい。というのは、暴力は他所で犯せば犯罪になるからである。市民社会において誰かを殴れば犯罪である。市民社会において、殺人と暴力は犯罪となるにもかかわらず、国家の名において行われた殺人と暴力は犯罪とはならない。これは何を意味するのだろうか。
 それについて考えると、近代市民社会と国民国家の成り立ちおよび、そのあいだの暴力の配分という問題にぶつかる。市民社会の内部においては市民の非武装化と、殺人と暴力の犯罪化が成立した。だとすれば、どうやら国家というものは市民社会に属していないと考えるほかない。
 もう一つ、市民社会に属さない領域がある。これが「私領域」と言われる領域である。市民社会はそれが成立した時に、その外部に二つの領域「国家領域」と「私領域」を同時に生み出したことになる。ここには市民社会に属さない二つの暴力がある。一方の国家暴力、すなわち「公的暴力」と、他方の私領域における暴力、すなわち「私的暴力」、この二つの暴力に関してはどうやら犯罪化が行われていないという驚くべき符合を見出せる。
(pp.178-179)

 公私の暴力を行使しているのは、市民といわれる人々である。市民とは誰か?市民とは一級市民、すなわち結婚し、私有財産を持ち、納税義務を負い、かつ兵役を負った家長男性たちのことである。彼らが一級市民と呼ばれてきたのである。一級市民が国家の名の下に組織的な暴力を行使すれば非犯罪化され、一級市民が自分の私的領域で私的財産権が及ぶ範囲──妻や子もまた私的財産権の及ぶ範囲の一つである──に暴力を行使すればこれも非犯罪化される。
 姦通罪を成立させている法理が、私的財産の所有権侵害に対する賠償請求権であることから考えても、妻が私的財産の一部と考えられていることがわかる。戦前は姦通罪が片務的であったのが、戦後は双務的になっただけで、配偶者の身体の使用権が相互に排他的に属しているということは法的に保証された権利なのである。
公的暴力と私的暴力、この二つの暴力が、二つの極で、一人の市民=一級市民によって行使される時、市民社会ではその両方ともが非犯罪化される。その中間で市民同士の間の暴力だけが犯罪化されていることになる。こういう驚くべきトリックが見えてきた。
(pp.182-183)

 戦争とドメスティックな私生活領域での暴力を廃絶していくことが、「生き延びるための思想」なのだろうと思う。
 フェミニズムは、そのためにこそあるのだろう、とも。

目次
はじめに あげた手をおろす
1 女性兵士という問題系
2 戦争の犯罪化
3 ナショナリズムを超える思想
4 「祈り」に代わるもの
5 3・11の後に


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