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本と音楽とねこと

「許せない」がやめられない──SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症

坂爪真吾,2020,「許せない」がやめられない──SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症,徳間書店.(8.15.24)

スマホの画面の向こうには、匿名の歪んだ正義が渦を巻く。ジェンダーをめぐる炎上、ナイナイ岡村「風俗発言」、「テラスハウス」出演者攻撃…。24時間「許せない対象」を探して怒りを求める。これがサイバー空間の異常実態だ。

 ミソジニスト、インセル、ツイッターフェミニスト、ツイッタークィア、表現の自由原理主義者等による、SNS、とくにツイッター(現X)上での怒りの応酬を分析する。

 自分を、神のような超越的ポジションに置いて、怒りで燃えさかる人びとを皮肉たっぷりに観察、分析する、その「あんたなにさま?」と言いたくなる、ポジション・トークの傲慢さについては、まあおいとくとして。

 しばしば炎上案件となる「萌えキャラ」であるが、フェミに限らず、その手のシュミがない者には、「萌えキャラ」に萌えている人物、あるいはその欲望のありようが気色悪い。
 わたしは、例えば、ズーフィリアは動物を虐待しない限り許容できるが、ペドフィリアは許容できない。
 「萌えキャラ」が不快なのは、それへの欲望がペドと同根のものであることが想起されるからであろう。

萌えキャラの画像

 この署名活動の発信者である「コンテンツ観光と地域コンセンサスを考える学生有志の会」は、萌えキャラを児童ポルノ(実在する児童に対する性的虐待の記録物)と結び付けて批判すること、いわゆる「萌えキャラ」に愛着を持つことそれ自体について、他者が一面的な認識に基づいて性差別と主張することをやめてほしい、と訴えた。
 実在する加害者や暴力などの犯罪行為に対してではなく、加害者も被害者も存在しない作品や表現について、「女性に対する差別であり暴力」「絶対に許せない」と攻撃を仕掛けてくる人たちがやっていることは、単なるワラ人形叩きにすぎない。
 さらに言えば、叩きやすい対象を叩いているだけ、政治的正しさランキングの低い相手を狙い撃ちしているだけの「弱い者いじめ」である・・・・・・。
 こうした認識とともに、フェミニストから叩かれたオタクたちの怒り=加害者扱いされた被害者の怒りは、フェミニストたちの怒りと同様、あるいはそれ以上の強さで燃え上がっていくようになる。
(pp.202-203)

 「萌えキャラ」愛好者のほとんどは、子どもに性虐待などしない、していない、というのは、事実であろう。
 わたしは、ただ、気色悪くてしようがないので、ゾーニングを徹底して、目にすることがないようにしていただきたいだけである。

 アニメやゲームは少年非行やひきこもりの原因と短絡的に結び付けられ、メディアの一面的な報道によって、常にバッシングの対象となってきた。世間からは犯罪者予備軍扱いされ、見た目だけで「キモい」「ダサい」と迫害されてきた。自分たちの好きな作品、そして自らの性的嗜好そのものが社会的な悪としてレッテルを貼られ、否定・抹殺されるりスクに常に怯えてきた。
 それゆえに、表現の自由とそれがもたらす恩恵に対して自覚的になり、それらを侵そうとするものを許さない「戦士」たちが誕生することになった。彼らは、「エロなどの表現は、国家権力が表現の自由へ介入する際の入り口であり、だからこそ性表現の自由を守らなければいけない」と主張する。
 オタクの語る「あなたの地雷は誰かの萌え」という言葉は、個人の好みを尊重する姿勢の表れである。皮肉にも、フェミニストの語る「一人一派」と同じ意味を持つ。
 多様性や寛容性の必要を訴えていながら、特定の表現に対して、上から目線で「政治的正しい見方・感じ方」を指南し、女性差別という言葉をどこにでも立ち入れる通行手形や逮捕状のように掲げて、他人の内心の自由に土足で踏み込んでくるフェミニストは、表現の自由戦士たちから見れば、人の大切なものに同意なくベタベタ触ってくる、セクハラおやじのような存在以外の何ものでもない。
 公の場での性表現を批判する人たちの中には、「キモい」という理由で批判する人もいる。しかし、特定の相手や対象に対して「キモい」という言葉を一方的に投げつけるのは、まぎれもない暴力であり、加害者の振る舞いである。
(pp.206-207)

 いや、実際、キモいんだからしようがないでしょ。笑

 実際は当事者不在のまま、当事者のアドヴォカシーを僭称してきたセックスワーク・スタディーズの欺瞞性については、坂爪さんの言うとおり。

 歴史的に見ると、セックスワーク・スタディーズは、セックスワーカーの存在を利用して他団体やフェミニストへの批判を繰り返すことがやめられなくなったLGBT活動家たちによって、当事者の二次利用を正当化するために作られた疑似学問である。
 「セックスワーカーの権利を認めるか否か」という問いが、フェミニストの間における「踏み絵」(=職種を問わず、全ての女性の権利を守ろうとする「本当のフェミニスト」と自分たちにとって都合のいい女性の権利しか守ろうとしない「偽物のフェミニスト」を区別するための仕掛け)として用いられた1990年代に一時的に注目されたものの、第三章で論じたクィア・スタディーズと同じ理由で衰退した。
 すなわち、国内の性風俗業界で働く女性たち、売春行為をしている女性たちの間でセックスワーカーとしてのアイデンティティが全く確立されていないにもかかわらず、ごく一部の研究者やLGBT活動家の間で、海外から無批判に輸入した専門用語や理論に基づいて、「セックスワーカーの権利と連帯」や「セックスワーカーとしてのアイデンティティ・ポリティクスの重要性」が観念的に唱えられていただけだった。
 当事者不在の当事者運動の中で、セックスワーク・スタディーズに関する議論や運動は、議論のための議論、運動のための運動となっていき、当事者からも世間からも理解を得られないまま、忘れ去られていった。
(p.239)

 2010年代に入って、貧困や福祉の文脈で性風俗の問題がメディアで報じられる機会が増加し、現場で働く女性たちや支援団体への注目や関心が高まった。そうした中で、セックスワーク・スタディーズは、第二章で分析した「矯風会2・0」と同じような理由で復活するに至った。
 すなわち、SNSの普及に伴ってジェンダーをめぐる議論が激しくなる中で、当事者の二次利用がやめられなくなった人たちによって、セックスワーカーという「最強の弱者」を代弁して、「表現の自由」の名の下に他者を斬り続け、燃やし続けるための武器=無限刃として再発見されたのだ。いうなれば、「セックスワーク・スタディーズ2・0」である。
 「セックスワーク・スタディーズ2・0」の担い手は、1990年代から活動を続けている40代半ば~50代の怒れるLGBT活動家や研究者が中心であり、高齢化が進んでいる。こうした状況は、同じく担い手の高齢化が進んでいる「矯風会2・0」と全く同様である。「セックスワーク・スタディーズ2・0」の支持者と「矯風会2・0」の支持者は、1990年代から四半世紀近くにわたって激しく対立している。第四章で分析したツイフェミVS表現の自由戦士の対立と同じように、お互いに無限刃を手にして、壮絶な斬り合いを繰り返している。
 多重化・複雑化した「許せない」という怒りに魂を奪われた者同士が、お互いに当事者や被害者の二次利用を繰り返しながら、終わりのない斬り合いや燃やし合いを繰り返すことがやめられなくなる・・・・・・という光景は、客観的に見れば当事者原理主義と被害者原理主義の不毛な対立にしか見えない。しかし、対立の渦中にいる人たちにとっては、自らのアイデンティティを賭けた「絶対に負けられない闘い」である。どんな犠牲を払っても、やめることはできない。
 結果として、実際の現場、そして当事者の権利擁護とはほとんど無関係なワラ人形叩きや内ゲバが、場合によっては数十年以上もの長期にわたって、延々と繰り返されることになる。
(pp.240-241)

 性別、性自認、性的指向、性差別等に関わる表現について、過剰に怒りを燃やし、対抗言説をぶつけていく心性を、「ジェンダー依存」と呼ぶのはまあいいとして、それを「セックス依存」(という行為依存)と同一視するのは、それはちがうと思うよ。

 性的な行為をやめられないことを「セックス依存」と呼ぶが、性別や性自認、性的指向やジェンダー表現に関する議論を繰り返す中で、自分と意見や立場の異なる特定の他者や集団に対して怒りを燃やすことをやめられなくなった状態を、「ジェンダー依存」と呼ぶことにしよう。
 怒りで我を忘れることは、セックスにおける発情やオーガズムに近い興奮が得られる。そして、怒りで我を忘れている人を観察することで、他人のセックスを観察しているような興奮が得られる。お互いに怒りをぶつけ合うことで、さらに興奮を高めることができる。
 つまり、炎上そのものがセックスの代償行為になっており、そこから生み出される快楽から抜け出せなくなった状態がジェンダー依存である、と考えることもできる。
 ジェンダーに関するテーマや議論は、全ての人が「当事者」にも「被害者」にも「加害者」にもなれる。少し身の回りを見渡すだけで、ジェンダー非対称性を帯びた言葉や表現、LGBTへの配慮が足りない現象や習慣は山のように見つかる。
 都合よく「当事者」や「被害者」に変身できるポイントや、任意の他者を「加害者」認定することのできるポイントは、無数に存在している。ポケットの中のスマホを開くだけで、いつでもどこでも・誰でも、「許せない」という怒りを急速充電できる。
(pp.244-245)

 ジェンダー関連の表現の炎上はしばしば起きるが、それを「依存症」の病理として位置づけるのは、ちょっとちがうのではないか。

 本書が、ジェンダー・バックラッシュの教本として使われないことを願う。

目次
序章 「怒りの万引き」がやめられない
第1章 女が許せない
第2章 男が許せない
第3章 LGBTが許せない
第4章 性表現(規制)が許せない
第5章 ジェンダー依存がやめられない
終章 「無限刃」から「逆刃刀」へ


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