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本と音楽とねこと

わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い

レベッカ・ソルニット(ハーン小路恭子訳),2021,わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い,左右社.(6.23.24)

 『災害ユートピア』で知られるレベッカ・ソルニット、『説教したがる男たち』に続くエッセイ集。

 ソルニットは、男の暴力や示威行動によって女が沈黙させられ、自らを、他者を、世界を語ることを封じられてしまうことに、強く異議を唱える。

 「私たちは火山なのです」と、かつてアーシュラ・K・ル=グウィンは語った。「私たち女性がみずからの経験を真実として掲げるとき、あらゆる地図が変わります。新しい山々が生まれるのです」。海底の火山が水中に溶岩を噴出させるように、新しい声があふれ出て、新しい島々が生まれる。激烈で、驚くべき誕生だ。世界が変わる。沈黙は人々に贖いのない苦しみを与え、欺瞞と嘘を肥やしはびこらせ、罪を罰することなく見逃してきた。私たちの声が人間性にとって不可欠な要素であるなら、声を奪われることは人間性を奪われ、私たち自身から疎外されてしまうことに等しい。そして沈黙の歴史は、女性の歴史の中心にあるものだ。
 言葉が私たちをつなぐものなら、沈黙は人と人とを分断し、助けも連帯も、声に出すことが要求し明るみに出すような交感も奪ってしまう。ある種の樹木は、地底に根のシステムをはりめぐらせ、一つひとつの幹をつないで独立した木々をより頑丈な全体へと統合し、たやすく風に吹き飛ばされないようにする。物語や対話は、そんな樹々の根に似ている。ここ百年の間、ストレスや危険に対する人間の反応は「戦うか逃げるか」だと定義されてきた。しかし二〇〇〇年にUCLAの心理学者チームは、「戦うか逃げるか反応」のもとになった研究は、大部分において雄のマウスと人間の男性のデータしか使っていなかったことを指摘した。だが女性も研究対象にすることで、第三の、しばしば効果的に展開される選択肢が見つかった。集まって連帯し、助け合い、アドバイスを与え合うことだ。「行動学的には、女性の反応はむしろ「世話をし、親しくなる」ことによって特徴づけられる」と、心理学者たちは述べた。「世話することには自分と子孫を守るために慈しみを与える活動が含まれ、それによって安全性を高め、ストレスを軽減することができる。親しくなることで、この過程に役立つような社会的ネットワークが作られ、維持される」。こうしたことの多くは話すこと、自分の窮状について語り、聞いてもらうこと、自分が世話をし、親しくする人々の反応のうちに共感や理解を聞き取ることを通してなされる。女性だけがそうするというわけではないが、女性の方がより日常的にしていることかもしれない。私もそんな風にして他人とかかわるし、私の属しているコミュニティも、そうしたかかわり方を助けてくれる。
 自分の物語を語ることができなければ、生きながら死んでいるようなものだ。ときには文字通り死んでしまうことだってある。前夫に殺されそうだと言っても誰も聞いてくれなかったらどうだろう。痛いと言っても誰も信じてくれないかもしれない。「助けて」と言っても誰にも聞こえない。そもそもそう言うことすらできないか、助けを求めて他人に迷惑をかけてはいけないと思う癖がついているかもしれない。会議で話しても場違いだと思われるか、権威ある組織には入れないかもしれない。女はその場にいるべきではない、あるいは、いても意見を聞く必要はないという暗黙の了解のもとに、割に合わない批判にさらされるかもしれない。物語は命を救う。そして物語はあなたの人生だ。私たちは自分たちの物語だ。それは監獄にも、監獄の扉をこじ開けるための金梃子にもなりえる。物語を紡ぐことで自分を救うこともできるし、自分や他人を閉じ込めることもできる。物語で自分を高めることもできるし、自己の限界や恐怖という石壁に自分を叩きつけることもできる。何かからの解放には常に、物語ることのプロセスがいくぱくか含まれている。物語を伝えること、沈黙を破ること、新たに物語を作ること。自由でなければ、自分の物語を語れない。自分の物語が重みを持つ世界で生きられなければ、大切な存在とは言えない。
 女性に対する暴力は、しばしば私たちの声や物語に対する暴力だ。声に、そして声の意味するところに耳を傾けることを拒絶する行為だ。声が意味するのは、自己決定し、参加する権利、そして同意し、異議を唱える権利、経験し、関与する権利、解釈し、物語る権利だ。夫が妻を殴って黙らせる。デート相手や知人が女性をレイプし、「ノー」という言葉の本来の意味、つまり女性の身体を自由にできるのは本人だけだということを否定する。レイプ・カルチャーは、女性の証言は無価値で、信じるに値しないと述べたてる。反中絶論者もまた、女性の自己決定権を沈黙に追いやろうとする。殺人者は、沈黙を永遠のものにする。これらは被害者には権利も価値もなく、平等な人間ではないという主張にほかならない。もっと些細な形で沈黙が強いられることもある。人々はオンラインで嫌がらせをされ、悩んだ末に沈黙する。会話の途中で遮られ、黙らされ、矮小化され、辱められ、切り捨てられる。声を持つことは重要だ。それが人権のすべてとは言わないが、少なくとも中心的なものだ。そう考えることで、女性の権利の歴史、そして権利の欠如の歴史を、沈黙とそれを破ることについての歴史として再考することができる。
(pp.25-28)

 ソルニットは、セックスワークにおける不自由、レイプ・カルチャーにおける男性の加害者性、ジェンダーとセックスの複雑性、多様性について、明快に論じる。

 私たちの時代のもっとも苛烈な議論の多くは、対立するそれぞれの立場が、ある所与のカテゴリーに属する者はすべて、自分たちから見た現象にしかあてはまらないと主張することで起こる。売春に関する最近の議論では、ある立場の中でももっとも教条主義的な人々は、売春する人々――どうやら、売春するすべての人々を指すらしい――は自由契約であって、その生活様式と労働の選択には敬意を払い、干渉すべきでないと主張する。私はミドルクラスの白人のセックスワーカーを何人か知っている。この人たちは自分たちが何をし、誰を相手にするかということはすべて自分で決め、いまの職業を続けたくなくなったら辞めるという選択肢も持っている。
もちろん自立したセックスワーカーのそうした経験は存在する。同様に、人身売買も存在するし、児童や移民や社会的経済的に脆弱なその他のカテゴリーの人間が、無理やり売春させられるということも起きている。売春は完全に奴隷だったり自由だったりすカテゴリーではなく、その両方を含んでいるのだ。そして間違いなく、その間にはぼんやりした中間領域がある。内的矛盾に満ちたカテゴリーについて、一体どのように語り、ましてや制限を加えればいいのだろうか。おそらくほかの多くの事柄同様、これは言語の問題なのかもしれない。そして、セックスによって金銭を得る人々が属する別々のカテゴリーについて語るためには、別々の言語が必要なのだ。
 二〇一四年、女性が性暴力について語ることを望んだとき、彼女たちはしばしば、すべての男がレイプ犯というわけではない、ということにばかり執着する男性たちに直面した。その男たちの一群は、#男がみんなそうってわけじゃないというハッシュタグまで作り出した。まるでこの地に降って湧いた災厄ではなく、自分と自分の心地よさと評判こそが、話題の中心でなくてはならないとでもいうかのように。それは言語と論理にかかわる問題だった。すべての男がレイプ犯だなんてことは、あまりにも事実とかけ離れている。一方で、誰もが理解していると思っていたのだが、ほとんどすべてのレイプ犯は男性だ。だから、男性はレイプする(そして男性や少年もレイプされうるが、女性や少女に比べるとその確率はずっと低い)と言えることは、問題を考えるうえで役立つのだ。
 ケイト・ハーディングによる特筆すべきレイプ史、『自分が悪い』によれば、九八%のレイプ犯は男性である。そこには例外もある。アイヴィー・リーグの大学の男子学生が、私がレイプについて語るとき、ジェンダーについて語ることになぜこだわるのか教えてほしいと言った。そこにいた別の学生は、私の考えは「ひどく二項対立的だ」と言った。私がジェンダーを二項対立で語るのは、人々がしばしばその偏見に基づいて行動するからだ。さまざまな事柄の中でもとりわけレイプは、誰に権利があり、誰には権利がないかというカテゴリーを強化する儀式であり、あるジェンダーに対して向けられる敵意を行動に移したものだからだ。フラタニティのレイプ犯たちはジェンダーを超えて物事を眺めることには興味がないようだが、レイプ・カルチャーを解体するためには、そうすることが必要不可欠なのだ。つまりそれは、性器や性役割といった共有できないカテゴリーを超えて、人間という共通カテゴリーを見出すのを可能にすることだ。
 主要なふたつのジェンダーを正反対のもの、あるいは対立するものとして想像してしまうと、カテゴリーも、互いの定義する方法も、硬直化する。ジェンダーは誤った二項対立だという考えは有用だが、誰が何を誰に対して行い、どれほど長い間それを行ってきたかについて語るとき、ジェンダーはやはり不可避的に役立つものでもある。たとえばもし私たちが、今日に至るまですべての合衆国大統領が男性であったと言えなければ、いつかこの状況を改善すべきだという提言もできないだろう。「男と女」、「男性と女性」といった概念を通して、人々は長きに渡り社会的思考を形成してきた。「神は男と女を創った」と、旧約聖書は語った。キリスト教徒が最近結婚について語った内容を知らないようなら言っておくが、男と女とは何かについてのその強固な思想は、いまだに私たちとともにある。
 私たちは語らなくてはならないし、語るときには「黒人と白人」とか「男と女」といったカテゴリーを使わざるを得ない。だがこれらのカテゴリーの限界や、漏れ出しやすさ、「男と女」が「黒人と白人」を修飾することもあるし、その逆もあるということもまた、理解しておかなくてはならない。解剖学上の異常を持つ人にとっても、自分たちの解剖学的構造とそれに基づいて付与されるアイデンティティに対して変則的関係を持つ人にとっても、カテゴリー上の例外は重要だ。北米インターセックス協会によれば、「もし医療センターの専門家に、あまりに極端に非典型的な性器を持つ子どもが生まれ、性分化の専門医を招集しなければならないといったことはどれくらいの頻度で起こるのか、と尋ねたら、千五百分の一から二千分の一の確率といった数字が答えとして返って来るだろう。だがそれよりずっと多くの人々が、より細微な形での性解剖学上の差異を持って生まれており、そのいくつかは人生の後の段階まで顕示的にならない」。彼らの計算ではその割合は百分の一だという。つまり、この国の何百万もの人々は、生物学的に見ても既存のカテゴリーにきっちり当てはまらないのだ。
 ウェブサイトの文章の書き手たちは、カテゴリーとしてではなく、カテゴリーは穴だらけのもので、私たちの中にはそれに当てはまらない人間もいるということを理解するための用語として、「インターセックス」の語を充てている。
     「インターセックス」とは、生殖学的、性解剖学的に女性や男性の典型的な定義に当てはまらない身体構造を持って生まれた人間の多岐に渡る状況を指している。たとえば、表面的には女性のような外見で生まれても、身体内部はおおむね男性に典型的な構造を有している場合である。あるいは、通例男性的、または女性的とみなされるものの中間に当たる性器を持って生まれる人もいる。女の子が例外的に大きい陰核を持って生まれたり、女性器の開口部を欠いている場合もあれば、男の子が例外的に小さな陰茎を持って生まれたり、陰嚢が分かれていて大陰唇のように見える場合もある。あるいは、混合染色体の遺伝子を持って生まれる人もいる。細胞のいくつかはXX染色体で、ほかのものはXY染色体であるといった具合に。
 現代的な言い方だと、セックスは生物学的でジェンダーは社会的構築物、ということになっている。前者はあなたのパンツと遺伝子の中にあり、後者はあなたの頭の中にある。もし人々が、自分に与えられたジェンダーに合った活動や服装のすべてにあまりとらわれなくなれば、これも変わるのかもしれない。若者たちは、自分を何者だと考え、誰を欲望するのかについて、クィアやフェミニストたちが何十年も続けてきた試みを引き継ぎ、このシステムをさらに転覆させようとしている(最近の研究では、十八歳から二十四歳までの若者の四六%は自分を異性愛者とみなし、六%は完全にクィアであると考え、ほぼ半数はその中間のどこかに位置すると考えているそうだ)。ジェンダーによって定義されることを拒否する者も中にはいる。
 私の故郷サンフランシスコは、(私たちが知る限り)初めて男性が出産した場所だ。子どもを産むのは女性の仕事だと私たちは考えがちだが、この街のトランス男性は、彼の子宮を保存していたために出産できたのだ。二〇〇八年にトーマス・ビーティのケースがより大きく報道される以前のことだ。ビーティのケースで素晴らしかったのは、妻が不妊で自分はそうでなかったことから、男性でありながら妊娠し、三人の子どもを出産したことだ。カテゴリーは漏れ出していて、そのうちいくつかは変化していく傾向にある。「彼の子宮」と書く日がやって来るなんて、思ってもみなかった。常にというわけではないが、ときにカテゴリーから漏れ出たものは、祝福に値するのだ。
(pp.195-200)

 文学作品や芸術はわたしたちを不快にさせることがあるが、だからといって、表現の自由を抑圧して良いということにはならない。
 しかし、それらが、性虐待や性暴力を、それらの有害性なり残酷さなりを表現せず、美化、正当化するものだとしたら?
 表現の自由は尊重しなければいけないが、歯に衣を着せぬ批評、批判は、大いに行われるべきだ。

 ソルニットは、ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』をめぐって、実に鋭い批判を展開している。

 先ごろマンガ「ディルバート」の作者スコット・アダムスが語ったことには、私たちは「セックスできるかどうかが厳格に女たちによって管理される」母系社会に生きているらしい。つまりそれは、相手があなたとセックスしたいと思わない限りはセックスできないという意味で、ジェンダーを特定する代名詞なしに言われれば、至極当たり前のことのように思える。誰かとサンドイッチを分け合いたいと思ったところで、相手も同じように考えているのでなければそうはならないわけで、それは抑圧の形態でもなんでもないだろう。幼稚園で習わなかっただろうか。
 だがもし女性の身体とのセックスが、異性愛者の男性が持つ権利だと思っているなら、女なんて自分と自分の権利の間に常に立ちはだかろうとする頭の狂ったモグリの門番みたいなものだろう。つまりそういうことを考える人物は、女性を人間だと認めることができず、それはおそらく読んできた本や見てきた映画、もしくは読んでもいない本や見てもいない映画に教えられたことかもしれない。あるいは、身の回りの誰かに直接吹き込まれたのかもしれない。芸術には意味がある。そして少なからぬ芸術作品のなかで、レイプは意思の勝利として崇め奉られている(一九七〇年のケイト・ミレットの著書『性の政治学』を参照されたい。『エスクァイア』のリストに挙がっているのと同じ男性作家も何人か取り上げられている)。話はいつだってイデオロギー的なのだし、イデオロギーでできた世界に私たちは生きている。
 二〇一五年、調査報道ジャーナリストのT・クリスチャン・ミラーとケン・アームストロングは、ある連続レイプ犯が警察に逮捕されるまで(そしていかに被害者のひとりが何年も発言を信じてもらえず、脅された末に嘘をつくことを強要され、そのせいで起訴されるに至ったかについて)を描く長文を発表した。レイプ犯が彼らに語ったところでは、「彼は子どもの頃、ジャバ・ザ・ハットがレイア姫を奴隷の身にして鎖につなぐのを見たときから、異常な性的ファンタジーに捕らわれていた」。文化は人を形作るのだ。
 「『ロリータ』を読み、登場人物のひとりに同一化することは、完全にナボコフを誤読することだ」と、特に頼んだわけでもないのに、ある人物が教えてくれた。面白かったのでフェイスブックにその話を投稿すると、感じのいいリベラル男性が現れて、この本は実はアレゴリーなのだよ、と説教してきた。まるで私がそんなことは夢にも思わなかった、とでもいうように。そう、それはアレゴリーだし、太った年寄り男が痩せこけた子どもを何度も何度も何度も暴行する物語でもある。そして彼女は涙を流す。そこでまた別の感じのいいリベラル男性が現れて言った。「芸術についての基本的な真実を理解していないようだね。僕は別に、女が大勢出てきて駆け回り、男を去勢しまくる小説だって構わない。それが素晴らしく書かれてさえいれば、おそらく読むだろう。一度ならずね」。もちろんそんな文学ジャンルは存在しないが、もしそう語ったこの感じのいいリベラル男性が、一冊、また一冊と、去勢シーンまみれの本とか去勢を称える本とかを読まされ続けたら、何がしかの影響はあるんじゃないだろうか。
 急いでつけ加えておくが、人生のこんな段階まで生きてきて、いまさらこの男たちに傷つけられたとも思っていないし、自分が哀れだとも感じていない。ただもう彼らが繰り出してくるクソくだらないたわ言の数々に、目玉が飛び出るほど驚いている。まるで自分がラボで実験していて、彼らが次から次へととてつもなく上質の試料を提供し続けてくれるみたいなのだ。どうやら地平線の彼方では、彼らのうち何人かがひどく動転していて、このうえなく文学的な、今年のブッカー賞受賞者その人であるマーロン・ジェイムズをしてこう言わしめたようだ。「リベラル男性たちよ。お前らがネオリベラルヘと、さらにネオコンへと避けがたく進化していくのを止めようとは思わない。だから手短に言おう。お前らのなかにはレベッカ・ソルニットの新しい文章が気に食わないやつがいるようだ。一方に検閲というものがあり、他方には、誰かが金儲けの手段にしていることを問いただす姿勢がある。このふたつは、同じではない」。
(pp.222-225)

 ソルニットは、生殖における男の当事者性の無さ、無責任についても、ユーモアをまじえながらも厳しく論断する。 (この問題については、ガブリエル・ブレアが、その著、『射精責任』において詳細に議論している。)

 女性がアブラハム時代のティグリス川流域の谷間ぐらい肥沃なこともあるだろうが、種を持った男と交わることなしには妊娠しない。でもよくある語られ方を聞いていると、まるで女性がひとりでに妊娠するみたいなのだ。保守派は「父なし子」を持つ女性や快楽のためのセックスを非難するときに、この論法を使う。反中絶の物語はしばしば、堕落した女が快楽だけを求めてセックスして、当然の報いを受けることをめぐるものだ。男の存在なしにはこうした妊娠のリスクがあるセックスをしようがない、というのがこの話のとんでもない部分なのだが、そこのところはよくある筋立てによって隠ぺいされている。
 数回前の選挙戦でのこと、トッド・エイキンという政治家が、「正統なレイプ」であれば女性は妊娠しないとのたまった。彼によると女性の身体は、子宮にリモコンで動くドアでもついているかのように、「よからぬものを締め出す」ことができるという。彼のとち狂った考えに注目が集まる一方で見過ごされがちなのは、このコメントがレイプの被害者にすら中絶する権利を与えないことを意図してなされたものだったということ
だ。現在の極端な反中絶支持とその施行においては、(流産を誘発しようとした女性たちが起訴されたケースのように)女性は子宮内の胎児に関して何の価値も持たないことになる。胎児の半数は女性となり、また次の世代の胎児に関して何の価値も持たない、という過程が繰り返される。女性は価値あるもの、つまり男性を運ぶ容器のなかにある、価値のない容器なのだ。あるいは、性別が女とわかるまでは、子どもにも価値があるということかもしれない。わからない。この人たちの考え方ときたら、まったく謎なので。
 一方、こうした生殖を曖昧化する物語においては、妊娠のメカニズムは注意深くひた隠しにされている。まずは、行方不明の男性をめぐる謎、とでもいうべきものがある。それは生殖の場から男性を消し去り、父の不在と呼ばれるものから父親たちを赦免する。まるで子どもの誕生の場面で彼らが不在であっても、なぜか別にどうでもいいことであるかのように(そう、そして、善良な男を子どもたちに会わせようとしない悪い女たちもいるだろうが、個人的な経験で言えば、父親が子どもの行事に居合わせなくて、母親が暴力的な変態から逃げ回っているケースの方をよく見かける)。まじめな話、なぜ男たちがこの手の物語において不在なのかなんて、わかりきっている。不運なものも偶然のいたずらもひっくるめて、妊娠に対する責任から彼らを解放し、多くの貧しい女性たちが長い間批判され続けている事態──つまりは、父のいない子どもの存在──を作り出した現象から、彼らを赦免するためだ。父のいない父たちの大軍。
 ミソジニーが存在しない並行宇宙を想像してみよう。そこでは男性がこう言われるのだ。女性を九か月もの間妊娠させ、別の人間を出産させるような目に遭わせる危険なものを携え、同意も計画も長期的な結果に対する配慮もなしに、その危険物を妊娠可能な人に注入して歩くとは、なんと無責任で、不道徳で、あれこれが欠落している──女性が欠いているといつも言われるのは何だったっけ──ことか。こんな風に男性が怒られるのはあまりないことだろう。女性が妊娠を利用して男性を罠にはめることについての警告はよく見かけるし、それは男性がどうやって責任逃れをするのか、よく描き出している。でもまあ、精子からは逃げられない。
(pp.232-234)

 ソルニットは、性暴力、性犯罪における加害者性が厳しく問われることなしに、被害者の落ち度をでっちあげることで加害者を免責しようとするカルチャーに対しても、手厳しく批判する。

 言葉は重要だ。私たちは人々が被害者を責めるのを止めさせるために、レイプとかかわりのある言葉をめぐって激しい闘いを繰り広げてきた。その簡潔な標語となったのはこれだ――「レイプを起こすのはレイプ犯」。女性が着ているものでも買うものでも、行く場所でも、ほかの何でもない。というのも、女性に落ち度があるとみなすと、探偵が何も解決しない探偵小説か、主人公が行方不明のミステリーに入り込んでしまうだけなのだ。レイプは意図的な行為だ。そしてレイプを行うのはレイプ犯だ。それでもあなたは、とりわけ大学のキャンパスにいる若い女たちは、みずからレイプを招いていると思うかもしれない。曖昧模糊としたこの物語では、キャンパスの若い男たちの姿がさっぱり見えない。男たちは天気とか周囲の自然現象のように抽象化され、避けることはできないけれども支配もできず、責任も要求できないような存在になり果てる。この物語では、個人としての男たちは消えてしまい、レイプや暴行や妊娠は、女性が順応するしかない天候状態のようなものになる。もしそうしたことが彼女たちの身に起こっても、それは自分のせいなのだ。
(pp.236-237)

 ソルニットは、最後に、性加害、性暴力に抗してきたフェミニズムを力強く称賛する。

 女性に対する戦争は、男性の暴力に満ちた家に育った私にとって人生そのものだった。いつ家を出れば安全でいられるのかと考え、実際かなり若い頃に家を出たが、今度は街角で赤の他人に脅されるようになる、とわかっただけだった。『ウォークス』(二〇〇〇)でも書いたように、「実のところ自分には、戸外で人生や自由や幸福を追求する権利などないのだと気づいたことは、私にとってもっとも打ちのめされるような経験だった。世界はジェンダーだけを理由に私を嫌い、傷つけようとする見知らぬ他人に溢れ、セックスはいとも簡単に暴力に変容し、それを個人のではなく社会の問題だと考えるような人も周りには誰もいなかった」。私はこのことを、公的な問題として扱いたかったのだ。この戦争は私たちの文化にしっかりと織り込まれているので、怒りを誘発することも、注目を集めることすらほとんどない。独立した個々の出来事は報道されるが、全体のパターンはあまりに浸透しすぎていてニュースにならないのだ。そこから生じるいくつかの影響を記述し、ドメスティック・バイオレンスについての次の文と同じことを繰り返し語って、私は注意を促そうとしてきた。「アメリカの女性の怪我の原因の第一位を占める。アメリカ疾病予防管理センターによれば、年間で二百万の負傷者のうち、五十万人以上が治療を必要とし、十四万五千人が負傷当日の入院を余儀なくされている」。どんな憎悪や怖れ、特権意識がこうした暴力の背後にあるのかを理解し、暴力は女性の価値を貶め、非人間化し、消し去るようなシステムがより劇的な形で現れたものに過ぎないことを明るみに出そうとしてきたのだ。数えきれないほどの裁判謄本や、レイプや殺人の記録や、壊れた身体、壊れた人生をめぐる統計を読むのは、ときに嫌気がさすような作業だった。だが世界を変えるプロジェクトの一環としては、価値あるものだった。私たちみなを法の下に、また日常生活において平等とし、万人の権利と尊厳を保証するための大きな革命において、決定的で重要な役割を果たしたフェミニスト運動に感謝する。そこそこの年齢なので、ドメスティック・バイオレンスや、知人やデート相手によるレイプ、職場のセクシュアル・ハラスメント(十代の頃に経験した職場では日常茶飯事だった)に対する法的解決が存在しなかった醜い旧時代のことはまだ記憶にあるし、そこそこの年齢なので、洞察力と組織力と介入によって世界が変わるのも目撃してきた。私たちがより自由で、平等でいられる新しい世界を生み出してくれた個人や集団の力に感謝するし、近年ではその仕事に微力ながら関われたことにも感謝する。もちろんこの仕事は早晩達成されるようなものではないが、どんな大きなバックラッシュがあろうと、私たちは元には戻らない。
(pp.257-259)

 ソルニットは、米国フェミニズムのもっとも良質な部分を代表する論客であり、辛辣かつユーモア溢れる筆致には、だれしも引き込まれることだろう。

目次
1 沈黙は破られる
沈黙に関する簡潔な記録
反乱の年
フェミニズム―男たちの到来
七つの死の一年後
レイプ・ジョークをめぐる短くも幸福な近況
2 ブレイキング・ザ・ストーリー
五百万年来の郊外から逃れて
鳩が飛び立ったあとの巣箱
女が読むべきでない八十冊
『ロリータ』について説教したがる男たち
加害者が行方不明
女巨人


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