本と音楽とねこと

死ぬな

 青少年の「群発自殺」がとどまることなく続いている。福岡県内だけでも、昨日、桂川町と宗像市とで、ともに中2男子生徒の首つり自殺が発見された。
 例によって、学校関係者は、「命の尊さ」とやらを、バカの一つ覚えのように生徒たちへ伝えているようだが、同和教育で吐かれてきた言辞同様、青少年の心に響くことはあるまい。
 「先生たちに甘えがありました。先生たちは生まれ変わりました。全力で君たちを守ります。」これは、筑前町の中学生が自殺した翌日、校長が全校集会で生徒に吐いた言葉だが、あまりにそらぞらしく、空疎で、無責任きわまりない物言いに、わたしは虫ずが走る思いがした。だいたい、子どもを前に、自らを「先生」と呼称する厚顔無恥な輩に、子どもの教育なんかできるわけなかろうもん。

 思えば、「どうせ生きることなんかくだらない、さっさと死んじまえ」という鶴見済(『完全自殺マニュアル』の著者)のメッセージは鮮烈であったが、「どうせいつか死んで、すべてが無に帰してしまうのに、なんで辛いことに耐えて生きないかんの?」という問いに、まともに答えることができる者はいないだろう。
 言えることはただ一つ。「生きるのはくだらないだけかもしれないけれど、自ら命を絶つことは、もっともっと、ずっとくだらないことだ」、ということだ。それと、わたしの親のように、「親より(子どもが)先に死ぬのはいちばんの親不孝やけんね」と念仏のごとく子どもの心に吹き込んでおくのも、自殺の抑止に有効だろう。リアルに響かない「生きる意味」の講釈なんざ、それこそ「馬の耳に念仏」でしかない。
 また、悩み苦しんでいる子どもがいたら、親が、そして教員も、「学校がイヤだったら無理して行かなくていい、むしろ、逃げろ、学校から」というべきではないか。子どもの耐性は明らかに低下してきている。いじめや虐待経験をとおして獲得される「強さ」のもつ価値を否定しはしないけれども、命を絶ってしまっては元も子もない。生きることの無意味さには、死ぬことのさらなる無意味さをもって抗していくしかないのではないだろうか。

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コメント一覧

それでも死んでほしくないです
苦しいこともあれば楽しいこともある、生きることにむなしさを感じるときもあれば充実感に満ちた至福の時もある・・・それが人生のノーマルなあり方であると仮定すれば、苦しみとむなしさばかりを感じる状態に陥ったら、それをノーマルな状態に回復させる必要があるでしょう。鶴見済ふうにいうと、精神科医から処方されたクスリや音楽(トランス系がいいかも)で脳をチューンアップして楽ちんになろうよ、ということになるんでしょう。わたしは、生きること自体に価値があるとする信仰にむしろ共感します。
Unknown
制止不可能\
自らが存在している事への苦痛が、生存本能\を上回ったとき自殺が起きるのは止むを得ぬ事だと思います。

なまじ進化して思考力を得てしまったばかりに、人類は生の無意味さを痛感して苦しまなければならない。

生命が苦痛と同意義である以上、「無」へ還る人々を咎めることは不可能\だ。

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