見出し画像

本と音楽とねこと

【旧作】風を野に追うなかれ【斜め読み】

小倉千加子,1995,風を野に追うなかれ,学陽書房.(10.6.24)

「風を野に追うなかれ」というのは、「追いかけても仕様のないものを追うな」の意味とのこと。これをタイトルに選んだのは小倉さんの諦観ではないだろう。意味はむしろ逆で、「追うべきものは追いつづけねばならない」ではないだろうか(本書解説・富岡多恵子)―フェミニズムの「芸人」小倉千加子が精魂こめた愛と勇気と笑いのエッセイ集。

 辛辣な小倉節が随所に炸裂する。

 売買春について。

 結論から先に言います。「売春はいけない」と断言できるだけの根拠はありません。現実には売春防止法が存在するわけですから、売春は違法行為なんでしょうね。しかし、悪であるとか、間違っているという意味では、売春は悪だ、いけない事だと言い切ることはできません。悪であり、間違っているのは、売春ではなく買春の方なのです。買春はいけないと断言できます。ちょうど強姦がいけないのと同じように。あなたは強姦された女性に「あなたのした事はいけない事だ」と言いますか?言わないでしょう?だから売春もいけない事ではなく、悲惨な事、すすんでそんな目に遭いたくない事、不幸な事でしかないのです。なのにどうして、大人たちは、「売春はいけない」って言うのでしょうか?答は簡単です。買春の方は悪いって決まっているのに、オジサンたちは現に買春をしてしまっている。したくてたまらないから買春制度をなくさないでとっておいている。でもそれがいけないことは知っているので、妙に落ち着けないでいる。そこで「悪いのは自分たちじゃなくて、売る側なんだと思ってしまおう!」と考えたからなんです。なんてズルイんでしょう。売る人がいるから買っちゃう人がいる、悪いのは売る人だ、なんて。何もかも自分たちの非を認めたくないための、これははっきりした陰謀なんです。
 オジサンの陰謀って、まだまだタチが悪いんです。オジサンたちって、目新しい商品が買いたいんです。そこいらへんに出回ってる商品には飽きてきちゃって、他の人にまだ買われていない新鮮な商品が買いたくなるんです。女子高校生と中学生とかのことですよ。で、彼女たちに「お小遣い」をあげる代わりにセックスさせてよ、って言うわけです。そうしておいて普段は「近頃の若い娘は乱れてる。おそろしいよ」なんて、知らん顔して言ってるんです。セックスしてる時に喜んでるのは実はオジサンだけで、女の子なんかみんな、シラケてるだけなのに。お小遣い貰えるんなら、ちょっとの間我慢しておこうかって考えてるだけで、彼女たちがルンルン気分で売春してるなんて嘘なんですよね。「他に何にも面白いことないし、お小遣い貰えれば何か面白いことみつけられるかなあ」なんて投げやりな気分でやってるだけなのに、オジサンたちはルンルン気分で売春してるなんて決めつけるんです。そこまでしてオジサンって自分が加害者であることを認めようとしないんです。楽しんでたのはオジサンだけじゃない、女の子だって喜んでやってたって決めつければ、オジサンのうしろめたさって消えちゃうでしょう?だからなんです。
(pp.35-36)

 ぐうの音も出ませんわな。

 専業主婦志向を強める娘は、フェミニズムに目覚めながら夫に依存したままの母親の欺瞞を見抜く。

 女の子の保守化傾向が中年のススンダおばさんたちの嘆きの対象となって久しい。おばさんたちは、夫を「主人」と呼ばず「つれあい」と呼ぶほどにススンデいるのに、娘ときたら、専業主婦になることを夢見て、女の自立や職業的達成やらにはハナから関心がないように見える。それを見ておばさんは歯ぎしりをする。「私のようなつまらない生き方を繰り返させたくないから、真剣に言ってるのに聞く耳を持たないなんて・・・・・・、これじゃちっとも世の中変わらないわ」
 こうやって、人間はいつの時代にも問題の先送りをしてきたんだな、と思う。娘のことではない、おばさんのことだ。
 「私にはもうやり直すための時間がないけど、前途のある娘には誤ってほしくない」と言うことの欺瞞。娘は、母の言うことを聞かない。そこまで母が女性問題とやらを学習して、知識をいっぱい詰めこんで、しかもなお母自身の生活が変わらぬという事実を、娘は目を凝らして見ている。人間が変わるということはどんなことか、人間が変わらぬということはどんなことか。変わりたい、変わるべきだと言い募る人間が、今いる状況から得ている恩恵を断ち切ることがどれほど難しいかを凝っと見ていて、「あんなに強い葛藤にさらされるのなら私は最初からこの社会に疑いを感じたくない。女性問題やらフェミニズムやらの洗礼を受けるのは、タチの悪い嘘を吐くことだ」と娘たちは会得し、幸福な結婚を夢見るのだ。その向う側には母たちのフェミニズムの雄叫びがある。こちら側では女は叫ばない。静かな充足と、永遠に続く予定調和の安穏と優しい夫と可愛い子供がいる。
 「可哀想なお母さん・・・・・・」娘たちは呟く。
 「可哀想な娘・・・・・・」母親は呟く。「そんなものが、お前の長い人生をずっと埋め合わせてくれると考えているんだね。私はそれをずっとやってきて、やっぱり虚しいということに気がついたのに。お前の夢は錯覚だよ」
 娘は母に近付かない。自分の夢が愚者の夢だと言われて嬉しいはずがない。こうやって、皮肉なことに女性問題に目醒めた母は、アンチ・フェミニストの娘を作り出す。娘呟く。「女性はもう十分解放されているわ。お母さんはおかしなものにカブれてしまったのよ」 
(pp.90-91)

 小倉さんは女性たちに呼びかける、「風を野に追うなかれ」と。

 子どものいない一人暮らしの女は、社会的に一人であるばかりではない。至福の一体感を味わえぬ身体もまた、一人前ではないのだ。内なるエロスの飢餓に苛まれる女は、地獄を生きている。まさに、産まぬのは地獄だと、思わせるのがタチの悪いこの時代のパラダイムだ。
 彼女たちは性的自己を疎外して生きてきたわけではない。それを拒絶して生きてきたわけでもない。ただ産むか産まぬかに無関心であっただけだ。産む女・産まない女というカテゴリーが存在することも知らなかっただけだ。時代が勝手にカテゴリーを作り出し、気がつけば、一方的にはめ込まれていただけだ。
 すべては「大きなお世話」である。自分を定義するのに、カテゴリーは要らぬ。カテゴリーは、虚構であり、幻想である。
 「母性」は風だ。「子ども」も風だ。どこからともなく吹き、いずこへともなく去る。つかまえることのできないものを追いかけるのは無益だ。そのようなものにかりそめの安住を見出すな。
 もはや「母」は死んだ。「子」も死んだ。母と子の閉じられたユートピアは、黄金の靄に包まれ、薄暮の中に消滅しようとしている。
 死のユートピアを背にして、女は開かれたパラダイスに歩いて行かなければならぬ。そこでは、女は決して神にはなれぬ。しかし、寄生虫でももはやない。神でも寄生虫でもなく、等身大の人間として生きていくことしか残されていないのだという絶望と希望を深く噛みしめるべきなのだ。
(pp.148-149)

 「エコ・フェミ男」を批判、揶揄する、この言葉の辛辣さよ。

 フェミニズムをめぐる議論が活発になってきた。「昔マルキシズム、今フェミニズム」なんて持ち上げる(?)人もいたりするもんだから、新左翼をやってて女にもてた経験を忘れられない中年男たちは、急にフェミニズムに食指を動かし始めた。大学のキャンパスから横須賀、三里塚を経て、とうとう自分の足下に何の問題も見つけられなくなって、小市民的核家族の中で不満を抱えて沈殿していた男たちは、女性差別なんていう、これまた他人の問題に首をつっこむことで、一味違う男になろうと卑しい根性で発言している。
 彼らは大学で既成のアカデミズムを弾劾し、横須賀で放射能を監視し、三里塚で大地と共に生きる農民の味方になったもんだから、正統的な知と放射能が大嫌いで、自然と土が好きなのだ。こういうスタンスでフェミニズムに出合うと、それはまごうかたなきエコロジカル・フェミニズムのノリになってしまう。
 彼ら中年のエコ・フェミ男たちは、妻をつれあいと呼ぶことで家父長制の加害者性から自由になったつもりでいる。彼らは、家事に積極的に協力することで性別役割分業の解消を実践しているつもりでいる。彼らは、妻のラマーズ法による出産に立ち会って、お産を自分たちの手に取り戻した気になって、西洋医学批判ひいては現代のロゴス中心主義批判をやっているつもりでいる。彼らは、自然食や無印商品を愛用することで、大量消費文明や資本主義システムを批判しているつもりでいる。
 どうしてそんなに、素直に普通のオジサンになれないんだろう。彼らはきっとヒュブリス(深い層での思い上がり)が強いのだ。彼らは本当は普通のオジサン以上に普通の男なのだ。彼らが求めているのは、だから旧態依然たる男の権力そのものだ。エコ・フェミ男山本コウタローが選挙に出るというニュースを聞いた時、「ああ、やっぱし」と思った女は多いのだ。男と女のいい関係を実践してます、なんていう男にロクな人間はいない。彼らに騙されてゾロゾロついていくオバサンたちは、大政翼賛的フェミニズムをやってることに気がつかない。反原発は大義になる、そこがコワイ。「天皇誕生日」が「みどりの日」になった時、天皇制はしっかりエコロジーと結婚したのだ。「自然をとり戻そう」「男も家事を」「男と女のいい関係を目指そう」というノリはファシズムのノリだ。新左翼くずれのエコ・フェミ男私は世の中で一番嫌いだ。
(pp.196-197)

 小倉さん流の芸達者で「毒のあるフェミニズム」を、ついぞ見かけなくなって、寂しい。

 再版されて、若い人に読み継がれていって欲しい一冊だ。

目次
緑の思惟の木
榊原家の春
夢を生きるリスク
風を野に追うなかれ
蝋燭の上でこげる手をあげよ


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「本」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事