見出し画像

本と音楽とねこと

【旧作】アダルト・チルドレンと家族、インナーマザー【斜め読み】

斎藤学,1996,アダルト・チルドレンと家族──心のなかの子どもを癒す,学陽書房.(10.9.24)

危険な家族関係が生み出すアダルト・チルドレンとは。親から受けた心の傷を癒し、本当の自分を取り戻す方法を具体的に提示する、待望の書。

 本書が出版された1996年は、ちょうどアダルトチルドレン(AC)、機能不全家族、トラウマ、PTSD、依存症(嗜癖)、共依存といった諸概念が人口に膾炙し始めた時期に当たる。

 ビル・クリントン米国大統領のACカミングアウトとセックス依存症、阪神・淡路大震災、オウム真理教幹部による地下鉄サリン事件等が、それらの概念の拡散、浸透に大きく寄与した。

 また、子ども虐待やDVといった問題に関心が集まったことも大きく影響した。

 斎藤さんは、ACとそれにまつわる諸問題について、いち早く議論の俎上に乗せ、臨床経験を積み重ねていった。

 その後、AC関連の問題についての精神医学研究と実践は、大きく発展していくことになるが、本書の内容は現在もなお参照するに値するものとなっている。

 神経症と言うよりも、強迫的に反復される依存症としての「トラウマの再演」。

 もっと困るのは「トラウマの再演」とか「再演技化」(リイナクトメント)と呼ばれるものです。イナクトというのは、「劇を上演する」という意味です。演じるというと故意にやっているようですが、これは無意識に演じてしまうのです。たとえば、性虐待を受けた人が、後の人生のなかで、自分をもう一度、性被害にあうような状況にもっていってしまう。性的虐待を受けた人が売春に走る場合が多いというのも、このことで説明されます。
 また、ベトナム戦争から帰還した人が、帰国後に殺人を繰り返したり、他国の軍隊に雇われて戦争に参加し続けたりするという場合もあります。自分ではコントロールできなかった状況での心の傷を、自分の身を同じ状況に置くことによって再現し、それによってその状況を自分の意志と力で今度こそ支配しようとする試みと解釈されています。
 このことはフロイトがすでに「反復強迫」という概念で説明していますが、このフロイトの気づきが、もう一度、PTSDの問題を介してより深く理解されるようになるのではないかと思います。フロイトはそれを「抑圧されたものの回帰」と呼んでいます。もともと心理的な防衛のために自分の意識から排除されていたのに、ストレスが本人にとってあまりに強かったので、その抑圧されたものがまた「こんにちは」と戻ってきてしまうのです。
(pp.25-26)

 現在では、各種精神療法や、セルフヘルプグループ、オープンダイアローグ等により、トラウマとなった記憶を選択的に想起可能な記憶の一エピソードとして統合することが推奨されているが、すでにこの時期に、斎藤さんはその実践に取り組んでいた。

目次
第1章 家族に心を傷つけられた子どもたち
第2章 家族という危険地帯
第3章 アダルト・チルドレン―トラウマにさらされた子どもたちのその後
第4章 荒れるアダルト・チルドレン
第5章 「安全な場」を求めて
第6章 「嘆き」から「癒し」へ
第7章 変化する私

 

斎藤学,2004,インナーマザー──あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」,新講社.(10.9.24)

これからどう生きていけばいいのか、イメージできない。生きにくさ、抑うつ感、無気力な感情から逃がれられない。なぜ?本当の自分を発見し、自分のために生きていきたい人へ。

 インナーマザーとは、いつまでもこころに巣くい、自らを監視、批判し、罰する、「超自我」にも似た厄介な存在だ。

 日本社会の場合、唯一神と父権により超自我が形成されるメカニズムは相対的に弱く、インナーマザーによる「真綿で締め付ける」ような侵襲、干渉として抑圧が経験される傾向が強い。

 そして、インナーマザーは、「世間」という枠組みにまで拡張されることもある。

 恋愛やセックスへの依存は、あるがままの自己を承認、肯定できない者が、他者による評価、イイねをもらうためのあてどのないあがきである。

 親教の信者は、自分で自分の評価を高めることができず、自分の評価を高めるために他人に頼ります。たとえば美人を連れて歩いて、「すごい美人を彼女にした」という男の能力を評価されたい。「たくさんの女をモノにした」というのも、男性信者が頼りがちな評価です。トンボ釣りと同じで、珍しいきれいなトンボを釣ったとか、こんなにたくさん釣ったと男どうしの間で自慢し合っています。
 私はよく、男性の患者さんに自慢げにスケジュール帳を見せられます。月曜日は誰それ、火曜日は誰それと、女性とのデートの予定がたくさん書いてあるのです。そういう男が男として偉いという誤った教義に染まっていて、たくさんの女性とセックスすれば、たくさんの女性に愛されたような気になれるのかもしれません。
 しかし、そんなことをやっていても、相手の女性も「どうも自分はトンボ扱いだ」と感じますから、本当のコミュニケーションはなかなか生まれず、やはり寂しい。愛されたい、愛されたいと願ってますますあちこちの女性に手を出すことになります。女性にも、こういうパターンを繰り返す人がたくさんいます。
 彼らは、恋愛に依存して寂しさを一時的にまぎらわせるのですが、関係が長続きしないため、「もっとがんばっていい男にならなくては」と無理を続けます。本当はそのままで十分なのですが、他人からの肯定の声が聞き取れない彼らは、無理をしながら「もうこのへんでいいといってくれ」と悲鳴をあげているような状態です。
 彼らは非常にほめられたがり屋で、愛されたがり屋です。かつて母親との間で完結していたはずの、けれども完結していなかった、完璧で永遠の「理想の愛」を求めてさまよっているのです。他人からの愛の声を受け入れられない彼らは、ささいな声も非難と感じ、失望し、いつまでも寂しい。思いどおりに愛してくれない相手を怒ったり恨んだりします。
(pp.137-138)

 親教にとらわれている人は、歪んだ世界観を持っています。その歪んだ眼鏡ですべてを見ているので、自分についても、どうしても歪んだとらえ方をしてしまいます。そこで周囲の考えや評価とズレていき、さらに自分の世界に閉じこもって世界観を歪める結果となります。本当の自分を見つめる勇気が持てないのは、自己肯定感が弱いからなのです。
 そこで、親教の信者は他人の賞賛を求めるのですが、他人の評価によって自尊心を強めようという試みは失敗します。なぜなら、自分を尊重する気持ちを持てずに、まず他人の評価に頼ろうというわけですから、そもそも自分で自分を卑下しています。他人様第一で、自分が後まわしになっています。評価してもらおう、ほめてもらおうと他人にねだればねだるほど、自分が失われていく悪循環です。
(p.175)

 トラウマとなった記憶は、一連の人生の記憶のなかに統合される必要がある。
 それができない限り、生き地獄は続く。

 肉体的・精神的暴力、性的虐待など、「頭が真っ白」になるようなショック体験は、想い出すことに苦痛と恐怖がともなうために、意識に残らなくなってしまうことがあります。これを解離性健忘といいます。
 解離性障害やその一端である離人症、離人感などは、こうした回想不能の体験を持つ人に多く見られます。
 ショックな体験は癒される必要があります。この傷が癒されれば、それは「経験」として本人の生活歴の中に組み込まれ、蓄積されていきます。ショックと癒しをとおして、ひとつひとつの体験を積み重ねていくことができるのです。
 子ども時代のショックに立ち戻り、消去された体験の事実を確認し、それにともなう情緒を回想する作業をする。これが癒しにつながります。これらはたいへん苦しい作業です。安易に記憶を引き出すのは危険もともないますので、この作業を行うには、「安全な場」や「安全な人間関係」があることが前提となります。
(pp.143-144)

 日本社会における「無責任の体系」は、自らの判断をインナーマザーに委ねる、未成熟な「子ども」であることが許容されることで成り立っている。

 企業は、男性たちの「母」であり「子宮」です。「母親」のいうことを聞いていれば養ってもらえますから、会社の中で「子ども」をやっているサラリーマンがほとんどでしょう。そのほうが、この社会では適応的です。自分の思いどおりにやろうと思ったら、すぐに「一〇年早い」とか「そんな立場か」などといわれてしまいます。
 「私ごときが、おこがましい」といって謙虚にしているのが一番楽です。もちろん、本当に自分の能力を知って、自分の判断で上司のやり方を支持し、会社に適応することを選んでいるのならそれでいいのです。
 ところが、何人もの部下を抱えたリーダー格の人までもが、もっと上の神様をつくって、「上の指示だから」というやり方で進めようとします。一番上にいっても、その人も自分の考えで決めているわけではありません。「この場合、こうするしかないだろう」という親教に従って、選択肢のない選択をしている。ですから、いざ問題が起こったときに問いつめられても、それを決めた人が誰もいません。「私がこう考えて、こう決断しました」と責任を取って答える人がいないのです。
 一番になっても、「みなさんのおかげです。私の能力で偉くなったのではありません」と頭を垂れよ、という親教に従っているのと裏腹で、何かあっても、「みんなの総意でやったことで、決して私の責任ではございません」という無責任がまかりとおる。それが日本型リーダーなのです。
 権威を奉っている人たちは、権威が「親」だと思っています。世間で権威とされている人たちもまた、国外に権威があって、外国の偉そうな人を奉ったりします。親を求める人たちをだまして親になるのは簡単なので、誰かを神様に奉って宗教団体をつくったりします。
(pp.152-153)

 「なぜあなたは愛してくれない人を好きになるのか」(二村ヒトシ)という問いがあるが、それに対する斎藤さんの回答は、二村さんのそれよりもわかりやすい。

 私のところにきている女性の患者さんたちは、たいてい二種類の男性を恋人候補として持っています。私は相手の男性をAタイプ、Bタイプと分けています。
 Aタイプは、妻子持ちだったり、年上だったり、先生だったり、社会的地位があって名誉やそれなりの収入もある。ちょっと遊び人風で、けれども決して自分を一番大切な人として愛してくれない。Bタイプは、そこいらの普通の男です。同年輩くらいで、さしたる社会的地位もなく、容貌、風采も人並みです。
 この二つのタイプの男性を比較してみると、どうも、その女性なりのよさを認めて、ちやほやしてくれるのはBタイプのほうなのです。「どこに行きたいの?」「何が好きなの?」と彼女のことをあれこれ知りたがり、それを中心に遊びの計画を立ててくれます。Aタイプのほうはというと、自分の都合のいいときだけ電話してきて、「時間があるからきてもいいよ」などという。彼女の都合や、彼女の好きなことには興味を示しません。
 自分を大切にしてくれないAタイプの相手を選んでしまうのは、親教に蝕まれたままの人です。相手の地位や収入や容貌で自分の価値を高めようというのは、誇り高いとはいえません。自分の価値は自分で高めていけるものなのですから、パートナー選びは、「自分と気が合うか」「お互いに大切にし合えるか」「いっしょにいて楽しいか」というような視点が中心となってくるものでしょう。
 自分のよさをちやほやしてくれなければ、「おかしいな」「こんな人といっしょにいても楽しくない」と思うのが普通です。都合のいいときだけ「時間が空いたからこいよ」といわれても、のこのこ出かけていく気にはなれないでしょう。
 Bタイプのほうは、汗をかいてお世辞をいったり、目が真剣になっていますから、女性のほうも「これは愛されている」とわかるはずです。ところが、自尊心の低い人は、「この人では連れて歩いて自慢できない」と思う。相手をブローチか何かと間違えています。相手をペットかアクセサリーとしか思えない人は、相手にもそう思われてしまいます。Aタイプの男性を選ぶ女性の場合、極端な場合には、自分に好意を持ってくれる異性を、そのことのために軽蔑したりします。私みたいな者に好意や愛情を持つこと自体、あの人がダメな証拠だというわけです。なんと低い、傷ついた自尊心でしょう。
 親にお人形扱いされて育った人は、こういうことに鈍感になっていますから、わざわざ自分をモノ扱いする相手を選んでしまいます。さらに傷ついて、その怒りを抱えたまま、次につき合う異性に復讐を試みたり、相手をモノ扱いしたり、Aタイプの異性を選んで友人に自慢しようとしたり、どんどん自尊心をおとしめていきます
(pp.189-190)

 子どもへの性的侵襲は、大人が絶対にやってはいけないことだ。

 心の問題を抱える人の多くは、子ども時代に性に関する悲惨な体験や大きな心の傷として残るようなショッキングな経験をしています。大人にとってはちょっとしたおふざけに過ぎないことでも、子どもにとっては生涯消えない衝撃的な出来事となる。表面化されにくい問題だけに、癒されないトラウマとして心の底にいつまでも沈殿してしまうのです。
 まずいっておかなければならないのは、異性の子どもに手を出さないということです。これは厳しく境界をつくっておくべきです。こんなことをいわなければならないのは悲しい話なのですが、実際には異性の子どもに触わりすぎる親がいくらでもいます。第1章にも書きましたが、近親姦の被害を受けた子どもの数は意外に多いのです。
 性の秘密への侵入は、ささいな出来事にも見られます。たとえば、子どもが恥ずかしがるようになってもいっしょに風呂に入ろうとする。服を着替えているところをのぞく。子どもが入っているのを知っていて風呂場の扉を開ける。むやみに身体に触れようとする。風呂上がりに裸で家の中を歩き回る。「パンツどこだ」と娘がいる場所でも真っ裸でウロウロする父親や、男として成長しつつある息子の前で平気で着替えをしたり、「背中流してあげようか」などといって風呂に入っていくような母親は、子どもの成長を喜ばない親です。
 大人になろうとしている子どもは、オナニー(性的自慰)などの「性的ファンタジーの世界」を持ち始めます。親は、こうした子どもの領域に立ち入ってはいけません。
(pp.201-202)

 たんなる親子関係の問題にとどまらず、日本社会の病理にまで射程を広げた作品として、現在もなお読む価値がある。

目次
プロローグ 苛酷な批判者「インナーマザー」
第1章 あなたのお母さんは「聖母」ではない
第2章 私の中の「私」、私の中の「母」
第3章 「親教」の信者たち
第4章 「親教」のマインドコントロールを解く
第5章 子どもの領域、親の領域


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「本」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事