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~朝鮮学校と私~

『京都滋賀の民族教育』報告4

2008年06月14日 10時20分17秒 | 『ふぇいす』
滋賀教育闘争の作文朗読
『解放後私たちが学んだ学校』

催しのなかでは、滋賀の教育闘争のときに5~6年生だった4人の女性が当時を振り返ってつづった作文が読み上げられました。読み上げてくれたのは現在の滋賀朝鮮初級学校に通っている6年生の女の子です。朝鮮語で一音一音たしかめるように読まれたその作文は、昨年1月、大阪府警が滋賀朝鮮初級学校に不当な強制捜査に立ち入った事件を私たちに思い起こさせました。60年が過ぎた今日も、朝鮮学校を守る闘いはつづいています。私も日本人として、朝鮮学校の存続を危機に追い詰めている日本政府のあり方を変えていこうと強く思いました。以下は読み上げられた文章です。  ソルタン記

○初めの学校
解放後私たちは朝鮮に帰るために朝鮮の勉強をしようとしましたがお金がなくて、学校を建てることができませんでした。
それでも同胞たちはお金を出し合って学校を建てることにしました。そのころは今のようにくず鉄が高く売れませんでしたが、私たちもリヤカーを引いて徹を拾って歩きました。アボジたちは電車で大津に行って木を買ってくると出かけました。
学校を建てる場所に行ってみると広場にたくさんの青年たちが集まっていました。学校が建てられると思うと友だちと手を取り合って喜び合いました。
2,3日で小さなバラックが建ちました。その日の晩、アボジ、オモニたちが集まって会議をしたのですが、その場所に私たちもついていきました。集まりで先生が紹介され挨拶がありました。
「それでは君たちは明日からここで勉強をします。」とおっしゃったときは、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
次の日、学校に行くと私たちより年上のお姉さんたちも座っていました。アボジ、オモニたちも勉強する私たちを見にいらっしゃっていて、その顔はみんな笑っていました。
生徒は40人にもなって、初めて朝鮮の勉強をするのがとても面白かったです。朝鮮の唄も歌い、遠足にも行きました。
こうして楽しく勉強をしていましたが、ある日突然警官が自動車に乗ってウリハッキョにやってきました。
そして米軍がそこに農園をつくるから出て行かなければならなくなりました。私たちは本当に寂しかったです。
こうして私たちの初めての学校はなくなりました。
今でも米軍の農場を見ると初めての学校が思い出されます。

○膳所小学校
膳所小学校は1年生から6年生までで生徒数は約180人ぐらいで、先生は5人もいらっしゃいます。ボールもおもちゃも少しあってブランコもありました。
楽しい学校生活を送っていたのに、ある日警察官たちが自動車でやってきて先生たちの部屋に入っていきました。
先生たちの部屋にはたくさんの人たちが集まっていました。
その時、自治委員長(学生会長)のファンくんが下りてきて警官たちとたたかっていました。それを聞いて私たちも二階から下りていきました。ファンくんは泣きながらたたかっていました。
私は警官たちがあまりにも憎たらしくて他の友だちとともに「なぜ私たちの学校を取り上げるのだ!」と叫びながら一日中たたかいました。あいつらは一日に二回も学校に来て弾圧していきました。
その翌々日ハッキョに行こうと電車を降りると、みんなが「校門の前には警官が棍棒をふりかざしていて入れないようにしている。」と言うのです。
私は警官に殴られても死んでもいいと覚悟をして学校に行きました。校門の前では多くの友だちが泣きながら警官たちとたたかっていました。
私も学校の中に入ろうとバリケードをくぐりぬけようとたたかいました。
こうしてたたかったのにウリハッキョはなくなってしまいました。
その日は、私たちが死んでも忘れられない10月19日でした。


報告おしまい