FACE project BLOG

~朝鮮学校と私~

『京都・滋賀の民族教育』 報告3

2008年05月31日 12時49分41秒 | 『ふぇいす』
パネルディスカッション『4・24教育闘争から60年』

朴道済さんのお話からは当時の様子をつぶさにうかがい知ることができました。当時小学生だった朴さんが通った学校は、
・京都朝鮮人小学校(現在の京都中央郵便局の裏手、鉄筋2階建)
・京都朝連堀川小学校(七条小学校内2教室、45年9月設置)
・京都第一朝連初等学校(陶化小学校内校舎1棟6教室、47年11月設置、前身は京都七条朝連国民学院、46年4月設置)
だそうです。といっても堀川小学校は転校初日にお父さんが怪我をされたために結局は一度も行かないまま第一朝連初等学校に再転校したそうです。転校した詳しい背景はわかりませんでしたが、第一朝連初等学校は西陣小と並び2~300人規模の大きな学校で、職員室も借りていたそうなので、市内の他の朝鮮学校からも子どもたちが移ってきたようです。朴さんは湖南の三雲駅から片道2時間を超える距離を学舎に向かい、ガリ版印刷の手づくり教科書で勉強した日々の思い出を話してくださいました。教科書がないこともよくあったそうで、ノートはもったいないから全部が1冊に収まるように大切につかっていたそうです。体育の授業のときはピクニックをしたり、公園で石に布を巻いてサッカーをしたりしていたそうです。陶化小の運動場を使って遊んだことはないそうで、教師の間で朝鮮学校の子どもたちが運動場を使わないように話がされていたのではないか、と当時を振り返っていました。
松下さんの報告にあった49年9月30日深夜の学校閉鎖の翌朝の出来事を朴さんは鮮明に覚えていました。「ある日(10月1日と思われます)、いつものように学校へ行くと、校門の前で日本の先生が朝鮮人と日本人を区別して、お前は帰れ、お前は入れ、とやり始めた。異常事態に仕事先からも親たちが駆けつけて抗議していると、ヘルメットを着けた武装警官がやってきて怒声が飛び交うなか1人が殴られた。それからこちらも投石するようになり、子どもたちは後ろで石を拾い集めて、前にいる親たちに石を渡して闘っていた。」武装警官との対峙は2ヶ月近くもつづいたそうです。「無理やり学校の中に入ったこともあった。そうしたら武装警官が丸太で扉をやぶって入ってきて私たちは追い出されてしまった。」その間、親たちは市役所との交渉もしていました。子どもたちは、しばらくは4つの分会に分かれて勉強しながらも、カンパ活動をしていたそうです。朴さんも三雲駅前でカンパを訴えたときのことを覚えていて、当時は大金だった50円をカンパしてくれた人までいたとしみじみ語ってくれました。
この第二次学校閉鎖闘争のなかで歌った『4・24の日』を朴さんは歌ってくれました。
   再び巡り来る   4・24の日
   血に染まった   恨みの日が
   4千年の長き   民族の言葉を
   学ぶ自由を    奪われた日が
   しかし見よ!   しかし見よ!
   我らは未来の   世紀の足跡
   轟きわたる行進の 歌声が聞こえる
   すべての抑圧を  蹴散らしていく
   雄々しい子たちの 購読の足音を聞け
もちろん朝鮮語で歌われました。最後の「購読の」は朴さんの思いが込められた訳だそうです。原語の歌詞も記録したかったと思いました。
京都の第二次学校閉鎖令は49年の11月に陶化小内の朝鮮学校を明け渡して近隣の木造アパートの1階部分に学舎を移すことで解決が図られました。とはいえアパートの2階には住人がいたというのですから、教育環境が不便になったことは間違いありません。しかも国と自治体の行政が公立学校への転校を勧めたこともあって、朝鮮学校に残った子どもは3分の1ほどに激減してしまったのです。朝鮮人から民族教育を奪い取った責任は重大です。朴さんの最後の話に心を締めつけられました。「木造アパートに移らされてから初めて日本の子どもたちに言われました『朝鮮学校、ボロ学校』と。」  ソルタン記


――その後の民族教育(京都)――
その後、自主的な朝鮮学校の運営がつづけられます。京都では、第一朝連初等学校のほかに、49年に朝連梅津学校と韓国学院が各種学校認可されます。51年には公立小6校で課外の民族学級が認められ、53年には朝連西陣小の跡地に中級学校が設立され、55年に高級部が併設されます(58年に現在の土地に移転)。この頃、民族学級の数も9校14学級と最多になります。60年には第一朝鮮人学校が移転し、京都朝鮮第一初級学校として再出発します。65年に第二初級、67年に第三初級、70年に舞鶴初中級と設置がつづき、現在に至っています。

最新の画像もっと見る