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一碧万頃

永代橋解説の謎~その1

東京の隅田川に架かる橋について、ずっと気になっていることがある。

 隅田川に架かる橋は、古いものから新しいものまで、東京の名所?にもなるくらい著名なものが多く、現在、河口から荒川に至るまでの総数は38(相生橋を除き、水道橋などを含む)。その中でも特に有名なのは、「勝鬨橋」、「清洲橋」、「永代橋」、あたりだろうか?この三橋梁は、それぞれ、平成19年度に国の重要文化財に指定されている。

 さて、僕が常々気になっていたこととは、その三橋梁の一つ、「永代橋」の解説についてであり、気になる理由は、なぜ有名になったのか?というようなことではなく、その橋の設計経緯に関して叙述される内容の正確性についてである。

 この「永代橋」、インターネット上で検索すると、東京都など一部の公共団体によるHPを除くと、決まって以下のような記述で現れる。

「ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ橋をモデルにして・・・・」と。

 関東大震災後に再建された現在の「永代橋」の形式は、タイドアーチ式であり、その点は、ルーデンドルフ橋と同じである。したがって、「永代橋」は「ルーデンドルフ橋」をモデルにして設計、架橋されたと言われれば、そうですかと納得せざるを得ない。しかし、構造を気にせずに一般人が普通に「永代橋」と「ルーデンドルフ橋」をそれぞれ眺めたとしたら、「永代橋」のソリッドリブに対して、「ルーデンドルフ橋」はブレースドリブだから、似ているように見えないし、この点で言えば、むしろ「永代橋」より上流に架橋されている「白髯橋」の方がよっぽど「ルーデンドルフ橋」に似ているなあ、と思うのではないだろうか?それにもかかわらず、最近でも、ネット上では、「パクったほどにそっくり!」なんて記述で紹介されていることもあって、ちょっとびっくりする。

 江東区教育委員会で発行している『下町文化』238号(2007.7.10)には、「永代橋」の「デザインは、ドイツのライン川に架かっていたレマーゲン鉄道橋をモデルとしています。」と記載されている。レマゲン鉄橋ではなく、レマーゲン鉄道橋と叙述しているところに記述の丁寧さが見て取れるが、このレーマーゲン鉄道橋は、正確には「ルーデンドルフ橋」と呼ばれる橋梁であり、レーマーゲン(鉄道)橋は、通称である(ちなみに、DBの車内案内でのドイツ語を聞くと、レーマーゲンと聞こえる)。

 話を戻して、当該の紹介部分がネット上に拡散されている一因は、おそらくWikipediaに記されている内容にあると、個人的には邪推している(おそらく、記述者が先のような情報源から得た情報で記載したのだろう。江東区の資料が未だにこの表記を使い続けているのも原因だが・・・)のだが、そもそも、その内容が事実かどうかについては、20年くらいずっと気になっていたのである。もし、事実だったとしたら、この叙述をした人はすごいと思う。令和3年に改版された「ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ」に記述の変化がないので、江東区の文化観光課文化財係では何か確実な根拠を持って記述しているのかもしれない。しかしながら、僕は、この叙述は、厳密には誤りなのではないかと思っている。

 この手のネット情報を見ると、「永代橋」とほぼ同時期に再建された「清洲橋」が「ドイツ橋(ドイツ吊橋=後・ヒンデンブルク橋と命名)」を明らかにモデルにしているにもかかわらず、モデルとなった正確な橋の名前を明記せずに、「ケルンの吊橋」ないし「ケルン大吊橋」をモデルにしていると叙述するにとどめている一方で(この記述は東京都などの公共団体のHPでもそのまま明示している)、「永代橋」のモデルとなった橋は、「ルーデンドルフ橋」と正確な表記を使っており、そもそも文章に違和感を感じる。これは、直接、誤記の根拠にはならないが、この記述には、疑問を持たざるをえない。たまたま、単にネット投稿者が、紹介文としてあまりにも適当な書き方をした最初の執筆者の内容を無批判で引用したせいなのか、あるいは、実はよくわからなかったために分かる程度で叙述したまでなのか、いや、それは極めて正確な叙述であるから問題なしなのか、そんなに気にする事柄ではないのかもしれないけれども、やはり、とても気になるわけである。したがって、少なくとも、本質的な疑問として「永代橋」のモデルは、本当に「ルーデンドルフ橋」なのか?と言う点について、自分なりに探り、まとめてみたことを、はやりのブログで世間に公表することにしてみたのである。

永代橋

 まず、永代橋のことについて簡潔に説明しておきたい。ご存知のように永代橋は、元禄の時代に架けられた木製の橋梁が始まりで、赤穂浪士が渡り、広重の浮世絵にも登場する江戸時代から存在する著名な橋の一つである。そもそも江戸時代の隅田川には、幕府の政策によって安易に架橋をすることを禁じられていたこともあり、それほど橋は架けられていなかったという。最近は、異説があるらしいが・・・まあ、その代りに渡しがあった。江戸時代に架けられていた木製の永代橋は、当然にして時間が経つと老朽化し、創架後20年で幕府に撤去されそうになり、町人による希望で修繕を町人が引き受けることで存続したが、1807(文化4)年の富岡八幡宮の祭りの日には永代橋崩落の事件が起こった。そもそも、橋梁は、短い間に修繕や架け替えが必須なのであろう。明治に入ると永代橋は、方杖形式の様式木橋に架け替えられた。さらに、1897(明治30)年には、下流側に移動した上で鉄鋼のトラス橋として生まれ変わる。鉄製橋梁となったのは、文献情報では、東京市の水道改良事業に伴って、墨田川を跨いで送水する水道管を支持するためには、鉄橋である必要があったためだそうである。これが、鉄製の永代橋の初代である。しかし、このトラス橋も関東大震災時に被災し、再度、架け替えられることになった。これが帝都復興事業の一つとして、トラスの永代橋の真隣に架橋された、現在の「永代橋」である。竣工日は、1926(大正15)年12月22日であった。設計の原案は、当時、復興局員であった田中豊による。

 この現在の「永代橋」の構造は、下路鋼製ソリッドリブ三径間(バランスド)タイドアーチであり、田中がいくつか検討した型式の一つをこの永代橋に採用したものであったとされる。ついでに補足すると、震災後の帝国復興事業において再設置を強いられた東京の橋梁は「永代橋」だけではなく、復興局が実際に架橋したものだけでも隅田川には、六橋(隅田川六大橋)あった。田中はその各橋の構造について、同時に設計、架橋の検討をしていたのである。

 田中は、永代橋の型式選定について、「新永代橋の型式選定に就いて」『(土木建築)工事画報』第3巻3月号(昭和2年)上で、およそ、以下のように述べている。

 軟弱な地盤により、蔵前橋のような普通のアーチ橋は問題外。架橋地付近は、低地なので、下路式(Through Type)にするしかない。舟航のためには、橋脚をなくしたいがそうもいかないので、3径間にして、出来るだけ河心の幅を広くしたい。架橋の環境に調和する必要があり、また、吊り橋のようなものは、繊細にして幾分女性的な感があるものの、それ故に、この地点の雄大なる環境には圧倒されてしまう。

 つまり、これらの状況から永代橋の型式を上記の構造に決定したことがわかるのである。上誌において、田中はその外観についても、こう述べる。

「橋上を通行する人の感じより言えば上路式を最上とするは勿論なれども前述の事情により型式は三径間下路式と限定されたるが故に本地点に適する型式はトラスと繁拱と何れかなり、先ず此の二種の型式が橋上を通行する人に与える感じに就いて比較するにトラスは其不規則なる斜材の為に非常に不愉快なる感じを与えるに反し、繋拱の吊材は単に張力に抗するのみにて其断面比較的少なる為限界を遮ること少なく且つ一定間隔を置きて多数の吊材が垂直に並列する様は一種端麗の感を与うべし。
 更に橋外より見たる形態の美に就いて比較するにトラスの男性的にして力強き輪郭は可とするも優美の点に於いて快くる所大なり。典雅にして然も雄大なる曲線美を有する繋拱に及はざる事遠し。」

 田中は、大正15年の1月28日に東京大学で行った講演の大要を「隅田川橋梁の型式」(『土木建築雑誌』第6巻第1号 昭和元年)に載せているのだが、そこでも、中央径間を大にすることに留意し、バランスドタイドアーチの型式を採用することになり、主桁はトラスにするか、プレートガータにするか、考慮すべき問題であるが、タイドアーチのトラスでも外観が面白くなく、欠点もあるので、ソリッドリブを採用することにした旨を述べているだけで、ブレースドリブのタイドアーチ構造を持つルーデンドルフ橋との関係については一切触れていない。それに対して、清洲橋は、「ケルンの吊橋の型を採用した」とはっきりと述べており、大体ケルンの吊り橋と同一の要領によって組み立てた旨まで説明している。

 では「永代橋」のモデルになった橋梁とは、何なのか。先に記したように、「永代橋」の型式選定にあたっては、他の隅田川六大橋の設計とも絡む事柄であるゆえ、六大橋設置の計画を調査することによって、この問題を解明する手がかりを得ることになった。少し調査すると、特に中井祐による「帝都復興事業における隅田川六大橋の設計方針と永代橋・清洲橋の設計経緯」『土木史研究』vol.23,2003年(講演集)、同『土木史研究』vol.24,2004年(論文集)が、これらの経緯を既に調査していることが解った。以下、先行研究たる中井氏の論考を参考にして、本題に迫ってゆきたいと思う。ただし、中井氏の論考は、田中豊、復興局土木部長大田圓三の言説に関する史料・論説、田中の東京大学での講義録、復興局による永代橋の設計図面、同記録、写真を史料として構成、執筆されているものであることを注記しておく。

 今回はこれまで。以下、続く。

2023年4月修正・加筆

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