千葉での老人ホーム選びの体験記

2019-06-26 23:25:52 | 日記
 父は、約9ヶ月に及ぶ老健でのリハビリを経てすっかり元気になりました。昨年秋の危篤状態が夢の中の出来事のように思います。父の、より自由な生活環境を整えるために8月末に老健を退居することになりました。僕は、父が母と一緒に暮らすことを望んでいるので、母が入居している千葉市内の老人ホームに父を入居させるつもりでした。母にその旨相談すると「お父さんが同じホームにいると心配してしまう。便秘をしてないか、ちゃんと食事が摂れているか、眠れているか、具合の悪いところはないか、職員さんに迷惑をかけていないか・・・心が休まらないよ。お母さんは静かに療養生活していたい。」と、父が同じホームに入居することに賛同を得られませんでした。確かに母は心配性で「石橋を叩いて壊す」ところがあるので、父を心配して心身を害する虞が充分にあります。僕は、母の気持ちを尊重することにしました。



 最期の親孝行をするつもりで、母が入居している老人ホームに距離的に近い老人ホームを探して父を入居させる計画を立てました。幸いにも距離にして片道750メートル程の場所に老人ホームがありました。この距離ならば、晴れた日に父を車イスに乗せて、母が入居している老人ホームへ面会に行けます。これが、僕の考えた父と母の気持ち双方を保障する解です。早速、老人ホームに入居の申し込みに行きましたが、数名の待機者がいて8月末までには到底入居出来ないことが分かりました。8月末には老健を退居しなければならないので、老健の相談員さんから老人ホーム・介護施設紹介所R(無料)を紹介してもらいました。

 千葉公園近くの「老人ホーム・介護施設紹介所R」の所長さんが対応して下さり、こちらの希望に添う幾つかの老人ホームを提案してくれました。僕は、その中から二件老人ホームを選び見学を予定しました。見学には、所長さんが随行され家族に寄り添った丁寧な案内をしていただきました。見学して僕が最も気に入ったのは、市内千葉神社の傍にある老人ホームです。

 玄関を入るとホテルのロビーのような空間がありました。ソファーに着席して待っていると、白と黒のストライプ柄のセンスの良いTシャツを着たスリムな女性施設長さんが迎えてくれました。施設長さんのお話を伺い同感することが多々ありました。僕は、施設長さんの「入居者様の自由を保障する哲学」に惚れました。施設長さんは、第一希望の、母が入居している老人ホームの近くの老人ホームに空床がでるまでの「一時的な入居を前提とする」特殊な条件を快く受け入れて下さいました。紹介所Rの所長さんを通して入居の申し込みを済ませました。父に報告すると「ア リ ガ ト ウ !」と喜んでくれました。



 6月の末に、第一希望の、母が入居している老人ホームの近くの老人ホームの担当さんから「4階の南側に7月末に空床が出ます。いかがされますか?」と打診を受けました。正に、青天の霹靂でした。4階の南側なら母が入居している老人ホームを窓から見ることが出来ます。空床が出るには半年から1年程かかると予測していたので、その間千葉神社の近くの老人ホームに一時的に入居して空床を待つつもりの目論見が大きく外れました。せっかくの縁でしたが、いづれは出て行かぬといけないことが分かっているのでキャンセルして、母が入居している老人ホームの近くの老人ホームへ直接入居することにしました。

 僕が、親を入居させる老人ホームを選ぶ尺度は「自分が働いてみたい職場かどうか?」です。自身が認知症高齢者介護施設で勤務している経験から、自分が働いてみたい職場であるか?の視点で観るのが真贋を見極めるのがコツと心得ます。千葉神社の傍の老人ホームは、僕の瞳には働いてみたい職場と映りました。同時に施設長さんは、この人の下で働いてみたいと感じさせる哲学と懐の深さを併せ持つ方でした。

 「せっかくのご縁を、こちらから無にするような振る舞いをして、誠に申し訳ありません。深く考えましたが、この度の入居はキャンセルさせて頂きます。」と、職員さんに電話で侘びると、職員さんは優しく受けとめて温かい言葉をかけて下さいました。



 この様にして、多くの方々の優しさに支えられながら、父の新しい暮らしの場が見つかりました。僕は、長く介護の世界で働いていますが、一般の方々にとって老人ホーム選びは大変困難な現実があります。情報の真贋を見極める術がありません。千葉市には、紹介所Rのような紹介のプロがいるので信頼できるシステムが構築されていると感じました。家族に寄り添った視点での老人ホーム選びは、不安を抱えた家族に心強い存在です。今回の体験は、これからの実践の糧となる、僕自身の大きな学びになりました。

 千葉神社の傍の老人ホームの施設長さんと老人ホーム・介護施設紹介所Rの所長さんに、心から感謝します。

理事 佐藤 信行

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8050の処方箋を考える ~善い大人たちとの出逢い 8~

2019-06-10 06:24:06 | 日記
 今、僕の半生を振り返ってみると「あの母の子ゆえに引きこもりになり、あの母の子ゆえに社会復帰できた。」と総括できると思います。子どもの頃から虚弱体質で、心配性の母は輪をかけて過保護となり、ますます僕は身心共に忍耐弱くなってゆきました。母にしてみれば「私がこの子を守らねばならない。」と、母と子の関係性に依存する共依存関係が成立していたと思います。僕は小学生の時、母から腕時計を持たされていました。理由は、夕方遅くまで遊んでいると風邪をひくから帰宅時間を決められていて、時刻がわかるようにとの配慮です。1970年代に腕時計を持たされていた子どもは僕の周りでは皆無でしたので、母の異常さが際立ちます。



 このシリーズを読まれていた方は気づかれていると思いますが、一度も父が登場していません。これは理由があり、父は物理的には存在していましたが、子育ての場面では存在していなかったからです。少なくとも母は、そのように考えていました。『母子共依存で父権者不在』これが、引きこもりの一つの条件であることを僕は自分の体験から証しできると思います。これは、勤め人の父、専業主婦、子どもは二人の核家族モデルで、第三号被保険者制度を設定した国の国策であり、僕は、引きこもりは国策の犠牲者と捉えることもできると考えます。

 僕の場合、2回の不登校と社会人になってからの引きこもりと、通算3回の社会不適応を発症しましたが、その度に母が人脈を駆使して、僕の前に善い大人を登場させました。その大人たちが、その時々の僕のニーズを支援するにドンピシャリ!な人選であったことは、神業に等しく、僕は幾度も人生の深淵から救済されたのです。



 芝居の師匠、プロテスタント系教会の若い牧師先生、全寮制私立学校の校長先生、を人選したのは母です。と同時に、引きこもる条件を設定したのも母です。もちろん本人である僕が弱かったことが一番の原因です。

 それを承知したうえで、僕が、いま一歩踏み出せない方へアドバイスできることは『周囲に助けを求めること』です。

 題名は忘れましたが昔聴いた曲で「・・・jumping in the rain 羽ばたく前には、鳥だって身体を縮ませているわ・・・」と云うフレーズがありました。確か、アニメ超時空要塞マクロスのメインテーマを歌っていたボーカルの持ち歌と記憶しています。素敵な曲ですね。

 ありがとうございました。

理事 佐藤 信行

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8050の処方箋を考える ~善い大人たちとの出逢い 7~

2019-06-09 17:03:49 | 日記
 10年振りの母校は、より近代的な装いを纏っていました。タイムマシーンがあれば、バックトゥザフューチャーの様に、あの頃の自分にいろいろアドバイスしたいな、と思いました。科目履修の卒業生社会人枠の身でしたが、在籍中は、全ての科目を履修する権利があり、僕は10年前に「可」の評価がついた科目を再履修して授業に臨みました。あれ程勉強嫌いだった僕は、自分でも驚くほど真剣に取り組み、初めて学ぶことの楽しさに触れました。特に、神学の学びに興味があり、この時に多くの牧師の卵たちと懇意になりました。



 中でも面白かった授業は、日本の宗教風土 1、日本の宗教風土 2でした。教授の専門は比較文化研究で、様々な宗教や文化を取りあげて学びを深める講義です。日本の宗教風土 2の方はフィールドワークで、2000年に上野で世界四大文明展が企画された時、4週にわたり土曜日に現地集合で文明展鑑賞しました。鑑賞の後は建物に併設されている喫茶室でお茶を飲みながら懇談しました。また、夏休みは4泊5日の行程で、伊勢神宮、天理、高野山、奈良橿原の研修旅行をしました。

 在学中に学びを深める過程で発見したことは、僕の卒業した中高一貫の全寮制私立学校の教育理念は、シュタイナー教育の影響を受けていることを指し示す文献が見つかり、僕の今日の人格形成にシュタイナー哲学が影響を与えていることです。シュタイナー哲学については、縁パワーホームページの会員投稿(2018年3月27日~4月13日)、およびブログに掲載されているので、興味のある方はご覧下さい。

 斯くして、プロテスタント神学と、プロテスタント神学から見て異端のシュタイナー哲学の双方が、僕の中に混在することになりました。



 社会人入学して一番の収穫は、勉強嫌いの僕が、三十路過ぎて驚くほど真剣に学びに取り組めたのは、その学びの内容に興味があるから、好きだからでした。今思えば、10代の頃不登校の僕は勉強が嫌いだったわけではなく、興味のあること、好きなことが分からなかったので、勉強する気持ちになれなかったことが分かりました。人は、学ぶ気持ちがあればいつでも学べます。大切なことは、その機会を、チャンスを、タイミングを自分も、周囲の大人も見のがさないことでしょう。

理事 佐藤 信行

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8050の処方箋を考える ~善い大人たちとの出逢い 6~

2019-06-08 08:02:20 | 日記
措置入院(強制入院)は、本人の同意が無ければできませんが、精神科医師二名の措置入院が必要であるとの診断があれば、本人の同意が無くても措置入院が可能です。自殺未遂を起こした僕は拒否する元気が無かったので入院はスムーズに行われました。僕の病室は四人部屋で同じ年頃の患者さんが居ました。外界と隔絶された世界は、高校時代の寮生活で馴染みがあるので抵抗感はありませんでしたが、僕は無気力状態になっていたので一日中ベッドで寝ていました。人は、これ程までに寝ていられるのかと思う程、食事時間以外は寝ていました。今思えばこの眠りは僕にとって必要な時間だったのでしょう。入院生活に慣れて精神状態が落ち着いてくると、患者同士の間で仲間ができるのですが、僕は、あえて仲間の和に入りませんでした。僕は、ここに居る人達と自分は違うという気持ちがあったからです。



 入院生活で一番辛かったのは、クリスマスに病棟の看護師さんがロビーの片隅に飾ってくれたクリスマスツリーの電球が、深夜にトイレに起きてロビーの前を通った時に暗い中でチカチカと点滅しているのを見て「街はクリスマスなのに、僕はもう世間には戻れない・・」と、社会と自分の住む世界との隔絶を、はっきりと認識した時です。

 危険なことをするおそれは無いと診断され、9ヶ月程入院して退院しました。そして神経症を治療するために、母が探してきた東京中野区にある森田療法の治療施設に入院しました。ここでは、生活を営みながら生活そのものが治療となる療法が行われています。しかし、ぼくの場合腰痛が生活療法の継続を困難としたため、3ヶ月程で退院しました。

 自宅に帰って、腰痛治療を沢山試みました。病院の診察券が厚く貯まってトランプのシャッフルができる程の枚数でした。結局、腰痛治療に一番効き目があったのは、市民プールでの水中歩行でした。毎日市民プールに通い、50メートルの温水プールの中を1時間程レーンに沿って歌を歌いながら歩いていました。水の浮力が無理無く筋力を増強して、いつの間にか腰痛が治りました。そして32才の1999年のゴールデンウィークに、僕は母に「社会福祉士試験の受験資格を得たいから、もう一度学校へ行かせて欲しい。」と頼むと、僕が引きこもっていた数年間、一度も涙を見せなかった母が初めて泣いて「・・良かった、待っていたのよ。」と言ってくれました。



 僕が1990年に卒業した、プロテスタント系神学福祉単科大学は、卒業生社会人枠という制度があり、卒業生は科目履修のために学費の25%で1年間再入学できます。僕はこの制度を利用して、医学一般と介護概論を履修するため2000年度に第4学年に編入して、学校の近くのアパートを借りてリハビリを兼ねた学生生活を始めました。

 10年振りの母校は、温かく僕を迎え入れてくれました。そこで、初めて僕は学問の楽しさに目覚めます。


理事 佐藤 信行

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8050の処方箋を考える ~善い大人たちとの出逢い 5~

2019-06-07 07:44:44 | 日記
1980年代後半、狂乱のバブル期にキャンパスライフを過ごした僕は、性懲りもなく学業に専念しませんでした。大学の図書館には近づいたことも無く、学期末の試験期間に「信さんは勉強しないのですか?」と後輩たちが問うので、僕は「普段勉強しない奴が、試験前だからといって勉強するのは卑怯だ!」と吠え、授業の代返を頼み学校を抜け出しました。



 当然、ギリギリの成績で、しかも社会福祉士資格試験の受験資格に要する科目「医学一般」と「介護概論」を落としていたため、受験資格を得ずに卒業しました。


 就職先は、学生時代に実習でお世話になった、地元千葉の「知的障がい者就労継続支援B型」の施設長さんが声を掛けて下さり、渡りに船と就職しました。当時は、介護福祉士や社会福祉士や精神保健福祉士といった資格がなくても正規採用された時代でした。

 しかし、僕は仕事で腰を傷め腰椎椎間板ヘルニアを患い手術することになります。執刀医に「手術の結果は、優・良・可・不可のいづれかになるかわかりません。優は大変良くなる、良は良くなる、可は変わらない、不可は悪化するです。それでも手術を受けますか?」と言われました。当時、婚約者との結婚が控えていたために、元気になって結婚しようと決意して手術を受けました。

 手術の結果は「不可」でした。まるで学生時代の学業不振の成績表のようでした。因果応報とは、このことです。自ら婚約を解消し、職を辞して療養に入り、人生三度目の引きこもり生活がスタートしました。20代末に、自分の人生に絶望して精神を病み、腰痛と神経症に身心を苛まれ精神科に通院するようになりました。処方された睡眠薬を密かに貯めて自殺未遂を起こしました。幸い一命をとりとめましたが、驚いた両親が僕が馬鹿なことを繰り返すのを怖れて、C大学医学部付属病院精神科に入院させました。僕は、拒否する元気もなく、促されるままに入院しました。

 「隔離病棟」そこは、外界と隔絶された不思議な世界でした・・・

理事 佐藤 信行

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