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ちょっくら調べてみました 

2021-04-13 21:21:25 | 聖書

聖地旅行もしたことないので、ユダヤ教については詳しくないのですが、興味があったので、

ユダヤ人が二人のメシアを信じていることについて、ザックリ調べてみました。

・ダビデの系統のメシアMessiah ben David

・ヨセフの系統のメシアMessiah ben Joseph(ヨセフとは旧約聖書に登場するエジプトの高官になったヨセフの事です)

 

ページの最終部分の、古代ユダヤ教のラビたちの見解という項目から、以下、抜粋してみました。

>>この箇所は、メシア預言である、としています。

しかし、聖書のメシア預言には、二通りのパターンがあります。ひとつは、メシアが苦難を受けるというパターン。もうひとつは、敵を打ち破り、支配し、そしてエルサレムを王都として統治するというパターンです。この矛盾をどう説明したらよいのでしょうか? もちろん、現代の私たちは、メシアは二回来る、一回目は受難のしもべとして、二回目は王として、というようにです。しかし、古代ユダヤ教のラビたちは、二人のメシアがいる、という想定をしました。

第一のメシアは、「ヨセフの子」のメシア。ヨセフは、エジプトで苦難を経験した人物です。ヨセフと同様に、第一のメシアは、来て苦難を受けて、しもべ預言を成就して死ぬ。その預言は53章にあるとおりです。

第二のメシアは、「ダビデの子」のメシア。このメシアは来て、第一のメシアをよみがえらせます。それから、メシアの王国を建て、支配し、統治します。

このように、古代ユダヤ教のラビたちは、メシアが二回来るという正しい理解をすることはできませんでしたが、メシア預言の中にメシアが死んで復活するという教えが含まれていることは正確に把握していたと言えます。

 

ユダヤ教では2人のメシアですが、キリスト教では、イエスが2人分を網羅しています。2人ではなく、2回、来られるということです(初誕2000年前と再臨)

(長すぎるので訳しませんが、英語ではコチラの記事を見つけました。興味があれば参考にして下さい。)

 

ユダヤ教の指導者たちを困惑させるメシア預言【イザヤ書53章】

「イザヤ53章の解説」 + 「それを知った、あるユダヤ人の反応(証)」について紹介! キリスト教嫌いのユダヤ人青年が、はじめてイザヤ53章の...

眠れる羊たち

 

 

そして、どうして、ユダヤ人が、イエス様がメシアだと信じれないその理由は、このようなことです。

また、イエス様が起こした数々の奇跡は、神からのものでなく、魔術の可能性だってあるという疑いからも来ています。確かに、古代から魔術師や占星術師が存在しており、不思議な現象をかもし出せる力を持つ人々が、旧約聖書にも登場しています。

 

また、ユダヤ教徒は、イザヤ書53章が、イエス様についての描写されている預言だということを信じていません。

どうしてなのかは、このイザヤ書の読み方、理解の仕方が、キリスト教とは違うようです。

では、彼らは どう理解しているのか、あるユダヤ人の記事の一部を抜粋しました。

>>This is a prepositional prefix meaning ‘from’ and not ‘for.’ A more accurate translation would be, ‘But he was wounded FROM our transgressions, he was bruised FROM our iniquities.’ This means that Isaiah 53 is not talking about a man who died ‘for our sins,’ but rather it is about a man who died ‘BECAUSE of our sins,’ or ‘AS A RESULT of our sins.’ In other words, they died because we sinned against them by murdering them. This, indeed, is the Jewish understanding of Isaiah 53: the nations of the earth will finally understand that the Jews have been right all along, and the sins committed against the Jews by the nations of the earth resulted in the death of countless innocent Jews.

彼は私たちの咎のために打たれた、という理解ではなく、彼は私たちの咎によって打たれた、という理解のようです。私たちの罪のために死んだ、という理解ではなく、私たちの罪の故に死んだ、という理解のようです。確かに、ちょっとしたニュアンスの違いで、大きく違ってきます。“世界の国々の民は、ユダヤ人に対して罪を犯したため、無垢な大勢のユダヤ人を死に追いやったことに、気付く日が来るでしょう。”というのがイザヤ書53章の理解のようです。ユダヤ人の理解は、イザヤ53章がイエス様のことではなく、迫害を受け続けたユダヤ民族の事だという見解です。

 

他の理由も、紹介します。

>>IN SHORT… Most Christians identify the messiah with Jesus, define him as Gd incarnate, and believe he died for the sins of humanity as a blood sacrifice. This requires that one accept the concept of vicarious atonement. However, as was illustrated and explained in the essay “One person cannot die for the sins of another,” this idea is the opposite from what is written in Deuteronomy 24:16, ‘Every man shall be put to death for his own sin’ — also expressed in Exodus 32:30-35 and Ezekiel 18. The mainstream Christian idea of the messiah also assumes that Gd wants and will accept a human sacrifice. After all, it was either Jesus-the-human or Jesus-the-Gd who died on the cross. Jews, and presumably, Christians as well, believe that Gd cannot die, and so all that Christians are left with, in the death of Jesus on the cross, is a human sacrifice. However, in Deuteronomy 12:30-31, Gd calls human sacrifice an abomination, and something He hates: ‘for every abomination to the Etrnl, which he hateth, have they done unto their gods; for even their sons and their daughters they have burnt in the fire to their gods.’ All human beings are sons or daughters, and any sacrifice to Gd of any human being would be something that Gd would hate. Therefore, the Christian conception of the messiah consists of ideas that are unbiblical.

“キリストが人類の罪の身代わりとなって死に、罪を贖って下さった”とクリスチャンは信じますが、ユダヤ教では、“ある者が他人の罪の身代わりとなることは無効である”という考えのようです。キリスト教のこういう教えは、神が人間(イエス)を生贄とする人身御供を容赦する存在だということです。イエスが十字架の死に至ったのは、人身御供を神が許したことになる。ですので、人間の生贄を禁じる聖書の神が、イエスの人身御供を用いることは、ありえない。

 

いやぁ、調べてみて、初めて私自身も知った理由です。なるほど、そういう見解だったんですね… と納得しました。

確かに、キリスト教と、“罪の贖い”の捉え方の根本から違っています。

神さま自らが低くなり、イエスとなって人間界に降りて来られ、人々の中に住まわれ、人類の罪のために自ら犠牲になって下さったという愛の証なのですが、これは、ユダヤ人だけでなく、どの国籍の人にとっても、神の自らの犠牲の愛にピンと来ないと思います。

“俺は、十字架で身代わりになって死んでくれ… なんてイエスに頼んでないぞ!イエスと俺は無関係だ!”というような日本人は多いかと思います。

かつての私もそうでした。罪びと・・・ピンと来ませんでした。殺人や犯罪を犯してないし、自分よりモラル的に悪い人は大勢いるし、“自分自身が罪びとである”と完全に自覚するのは難しかったです。それも、その時、まだ16歳。

そして、自分の罪のために神様が死んでくださった・・・ということを理解するのは、ポジティブな勢い(=信仰)が必要です。

出会ったことないイエスを信じてみる。これが出来れば、既に信者と同様。まいった! (-_-;)V 

出会ったこともない2000年前に生きたイエスを信じること自体が、神からの奇跡のワザです。聖霊が働かない限り、頭で理解することでは無理です。

そう信じてみたい!と前向きであるなら、聖霊が働かれている証拠です。👏(^^)💐

心を頑なにせず、“このことがホントであるなら示して下さい”と、あなたが 神様に尋ね始めた日、神様は想いを聞いておられます。そして、応えて下さいます。

 

 

 

 

 



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