音楽、映画…これは良い!っていう決め手になる、心のもの差しは人それぞれ。私の決め手はどうやら“切ないどうか”…これに尽きるようだ。音楽を聴いていて、歌詞やコード、メロディの進行に胸がキュン!となったり、本を読んでいて、ある文章が胸の奥の甘酸っぱい気持ちを呼び起こしたり。映画の終わりがハッピーエンドなんだけど、どこか切なさを伴っていたりすると泣き笑い(笑いというより、笑み)みたいな…何とも複雑な、変に満ち足りた気持ちになったり。ハッピーとは違う、悲しさとも違う、ちょっぴり幸福で、どこか哀しげ…“せつない”という感情はすごく曖昧、微妙。そこの部分で好き嫌いをジャッジするって感覚、自分でもちょっと不思議。
私が高校3年まで生まれ育った家
は高台にあったので、子供部屋から街並みや、天気が良ければ山並みも、そしてその中に沈んでいく夕日を見る事が出来た。私は窓辺に腰かけて、その景色を見ては、よく泣いていた。これと言った理由がある訳でもなく(好きな人がいた時には、だいたい好きな人を想って…かな?)もの哀しい気持ちになってしまって
。その時は、何と言って良い感情か分からなかったけれど、きっと、それは“切なかった”からなのだと、今思う。今、音楽や何か映像を見て胸キュンになる感覚は、その時と全く同じ感覚。
たとえば、暗くなるギリギリの時間まで毎日、遊んでるような子供だったら…何の制約もなく好きなだけテレビを見ているような子供だったら…そういう感情は育たなかったかもしれない。私にはピアノという毎日、やらなければならない事があった。限られた時間の中で練習する為には遊びやテレビの時間には制約をつけないと出来なかった。子供心にそれを辛いと思った事も勿論あったけれど、その制約のお陰で感情のアンテナが研ぎ澄まされていったような気がする。その結果が今の私。この“切ない”という感情はとても贅沢な感情だと、私は思っている。環境が悪かったり辛かったりしたら悲しみや怒りの感情が勝ってしまい、生まれてこない感情だと思うから。“切ない”と感じれるのは幸せだから…と、私は思う。だから、とっても大切。
私が高校3年まで生まれ育った家


たとえば、暗くなるギリギリの時間まで毎日、遊んでるような子供だったら…何の制約もなく好きなだけテレビを見ているような子供だったら…そういう感情は育たなかったかもしれない。私にはピアノという毎日、やらなければならない事があった。限られた時間の中で練習する為には遊びやテレビの時間には制約をつけないと出来なかった。子供心にそれを辛いと思った事も勿論あったけれど、その制約のお陰で感情のアンテナが研ぎ澄まされていったような気がする。その結果が今の私。この“切ない”という感情はとても贅沢な感情だと、私は思っている。環境が悪かったり辛かったりしたら悲しみや怒りの感情が勝ってしまい、生まれてこない感情だと思うから。“切ない”と感じれるのは幸せだから…と、私は思う。だから、とっても大切。