
赤堀氏は北関東にはその子孫が多いといわれる藤原秀郷の子孫で藤姓足利忠綱が宇治川の合戦で功を上げ、
隣の上野国赤堀庄を賜り、忠綱の弟泰綱の玄孫教綱がはじめて赤堀氏を称したらしい。
その後戦国時代は金山城の由良氏に属し、のち赤堀城は小菅氏支配ののち廃城されたとのこと。

城跡は西が粕川、東が鏑木川を天然の堀とし、南北の郭を配した連郭式の平城で、東西170m南北350mの規模、
中央の本丸跡には土塁が残る。

現在は本丸部分が残ってる程度で、東南の2の郭やさらに南の郭や土塁が無いので実感が沸かないけど、
東西の天然堀の河川は川幅も細く、高低も少なく機能としてはイマイチな感じだ。
何となくメリハリの無い感じの城なので小人数で守るのは結構大変だったんじゃないだろうか。



隣の上野国赤堀庄を賜り、忠綱の弟泰綱の玄孫教綱がはじめて赤堀氏を称したらしい。
その後戦国時代は金山城の由良氏に属し、のち赤堀城は小菅氏支配ののち廃城されたとのこと。

城跡は西が粕川、東が鏑木川を天然の堀とし、南北の郭を配した連郭式の平城で、東西170m南北350mの規模、
中央の本丸跡には土塁が残る。

現在は本丸部分が残ってる程度で、東南の2の郭やさらに南の郭や土塁が無いので実感が沸かないけど、
東西の天然堀の河川は川幅も細く、高低も少なく機能としてはイマイチな感じだ。
何となくメリハリの無い感じの城なので小人数で守るのは結構大変だったんじゃないだろうか。



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