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友人について

2016年08月24日 02時08分55秒 | Weblog
とまりんに長いこと滞在した。海のそばにいるだけで心が落ち着く。いろんな雑念がよぎるがとまりんに行くと気分が落ち着く。産まれが安里、泊港近くで幼少期を過ごしたせいか、とりわけ夏の朝の清々しい海辺の陽気はエネルギーが高まる。あけぼの、であった。よく港や海辺にいったものだ。霊視してもらったゆみさんはよく元気になるところに行ったらいいと言う。Oさんの事を考える時もあった。彼女はよく私の携帯に電話をかけてくる。聞いてほしくてとか私の声が聞きたいとかではなく、Oさんが彼女自身の《宣言》文を宮里(私です)に承認して欲しがっているように見える。宮里はOさんにとってのセーフティブランケットである。東江さんの人生を脇で見届けているのである。私は淡々としている。カウンセラーや治療者よりも友達である私のほうが分かってくれる、と言う。仕事で会う、スタッフ、カウンセラー、精神科医ではあき足らないのか。彼女は共依存から脱する事ができるのだろうか、それとも依存症で人生が終わっていくのか。健全な自我とは何か?とOさんを見てると良く思う。底無し沼のような実存の不安であるのか。または安心感の持てない体質で私を宿主にして安定してエンドレスの人間関係劇場を演じるのか。こうなると治療者も限界を感じてしまうものかも知れないな、とは思う。藁をもすがる、のわらでしか私はないのだろうか?そりゃ友達も減って行くのかもしれないなあ。Oさんの相手がいないので、というかいないのが普通なのだという認識がOさんには持てないところが東江さんたる所以なのかな。とふと考えた。病気たる病気らしさなのかな。でもいろんな患者さんがいた。私のカレも患者。病気の人の豊かさを感じる昨今なのでした。

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