相互批評の饗宴――幻想史学と仲間たち

 これは幻想史学の提唱から15年経った仲間たちとの相互批評と詩と写真による饗宴である。

新藤謙著『石牟礼道子の形成』(深夜叢書社)の書評

2012年01月19日 | 書評
    「〈語りの呪術師〉の形成」について         室伏志畔

 熊襲の地が谷川雁と石牟礼道子を生み出したことはやはり何ごとかなのだ。「熊襲の公達」よろしく男は六〇年代に炭鉱闘争の現場から情況言語を支配したなら、女は七〇年代、呪術師よろしく水俣の毒を紡いで見せた。それら言説はこの半世紀に雲散霧消したかに見えるが、今も情況の深部に揺曳している。本書はその石牟礼道子の形成を、新藤謙がその著作を辿り直し、その意味を鮮明にするものと云えよう。
その石牟礼文学を思うとき、私は中国の官憲の弾圧に遭い死んだ若い学生を記念した魯迅の「花なきバラ」を思い出す。それは寸鉄人を刺すと云われた魯迅に雑感文にまことふさわしいタイトルだが、私は長くそれを誤解していた。
 戦国時代、豊前の中津において、九州征伐にあった羽柴秀吉軍の先兵・黒田如水の手薄な陣を突いて宇都宮氏は勝利を収めた。これを知った豊臣秀吉は奸計を巡らし、和睦の宴を設け、それに出席した宇都宮一族をことごとく斬り殺し、その首を街道筋に並べた。それ以来、宇都宮氏は毎年、その日に集まり、茨の枝をそれぞれもって集まり土手に挿し、この恨みを忘れないことを誓うという。この意味が「花なきバラ」に込められてあることを私は知らなかった。
 天草に生を受け水俣に育った石牟礼道子の形成を確かめようと、進藤謙はその著作深く降りて行く。それは『ぼくは悪人』を書き、少年・鶴見俊輔に悪人を見出し、それを手放すことなく、その意味を深める中に後年の哲学思想家を見た新藤謙にとって、知的先端に鶴見俊輔を位置づける論議は、所詮、遊びにしか見えなかったことによろう。
 石牟礼道子は髪に火をつけ歌う狂女の祖母に親しみ、遊女屋の先隣で育った。その一見、掃き溜めに近い環境は、石牟礼の感性を異数なものとした。その文学開花の契機を問うことに本書は始まる。戦中から短歌に恋した石牟礼は戦後、谷川雁主宰の「サークル村」で詩に転じ、次第に生活をうたうにつれ批評性があらわれたと見る新藤謙の眼は確かである。短歌や詩の「枠組み」を捨てたところに「内実の苦悶」に見合う文体が現れたからである。この第一章「文学開眼」は表現形式を模索する者にとっては示唆に富もう。それを頭に、十個の作品論を通して「企業犯罪と日本の近代」、「自然と人生」、「精霊たちの寓話」、「人民の歴史」が論じられ、六章の「石牟礼道子の詩の位置」をもってくくりとする。それは作品から石牟礼道子の全人的理解を目指すもので、評伝ではない。
 その記念碑的作品が、チッソが水俣湾に垂れ流した有機水銀による水俣病患者家族からの聞き書き『苦海浄土』である。「死ぬ前にやせてやせて、腰があっちゃこっちゃに、ねじれて、足も紐で結んだように、ねじれとりましたばい」と娘・坂本きよ子の姿を語る母トキノは、「おとろしか病気でござすばい。人間の体に入った会社の毒は」と告発する一方、「先祖さんの祟っとんなさるち、(略)/うちの先祖さんにも、よっぽど死に目の悪かったおひとの、おんなさったことでしょうね/(略)えりに選って、いちばん優しか人間に、きよ子にとりつきなさった」と引き取る。
 惨状を楯に告発するルポルタージュはたやすい。そこをほろほろと崩れるような文体で決して暗くなることなく掬いあげてきたところに石牟礼文学の凄さを見なければならぬ。識者はそこを知的に上昇し、患者家族の情念を潜ることなかったが、石牟礼は娘と凄惨な日々を潜った母や近親の語りを通して作品を紡ぐのだ。それを「浄瑠璃のごときもの」と作者は云い、「論理と分析だけで人々を感動させうるか」と新藤謙は問い、「近代への呪術師」を目指した作者の狙いの確かさを押さえる。しかし、志がそれに見合う文体に出会うかは万に一つの奇跡なのだ。その独自の語りの形成を可能にしたのが何であったかの探究が本書と云えよう。そこに周到な用意を読むべきなのかもしれない。なぜなら、ある女性患者は視察に来た厚生大臣や国会議員を前に告発するところを緊張のあまり、「テンノウヘイカバンザイ」と叫び「君が代」を歌い、室内を凍りつかせた、虐げられし者の逆説について新藤謙は落とさず摘記している。その意味で本書全編は石牟礼文学の本質が何であるかを知りたい者には得難い本となっている。
 これは石牟礼道子の形成を、著者によれば、その自然への共生と呪術者的な近代批判を核としてその内在化をその表現に辿るものと云えるが、彼女を天草生まれの水俣育ちとし、島原の乱や西南の役をテーマにしたのを見ながら、なぜか熊襲に繋がらいもどかしさがある。それは熊襲がなぜ朝敵なのかという問いを欠くに等しい。熊襲こそ天皇制にとって最も虐げられたものの謂であった。それゆえ今生の貴賎は遠い過去の貴賎の逆転現象で、そこに浮かばれることの決してなかった熊襲の苦悶があった。
 それが如何に奥深い傷を成すかは、肥後一の宮・阿蘇神宮の淵源とされる草部吉見神社は下りの宮として著名だが、百数段を下ったところに主神・彦八井命(国龍神)は死後もかつての朝廷側の祭祀勢力によって今も蟄居・閉門にある。その妃・草姫(くさかひめ)を出した日下部一族の本拠には草部神社の名は見られず、幣立宮が立つ。それは日本国の「弊害を断った宮」として熊襲の本源の粛清を語るのではないのか。
日本人は根にもつことを知らない淡泊な性格とされる。しかし、そのように天皇制が日本人を育てあげたので、天皇制は徹底した根絶やしをもって恨みの根を断った。命乞いする者を先兵に立て、「夷をもって夷を征する」中に天皇制を確立させた。この同胞近親との壮絶な生き残りをかけた殺し合いの中に朝敵は自らの誇り高い歴史を見失い、生き残った者は犬にも劣ると揶揄される歴史をもった。
 その朝敵・熊襲の地に残ったのは、天皇制に命乞いした一握りの転向勢力で、抗戦した主力は辺境に多く落ち伸びるほかない歴史をもった。それは熊襲の雄族・菊池氏の分布を見れば、熊本より蝦夷の地・岩手県に最多分布し、その地から遠い倭人の心を伝えるという『遠野物語』が出現したのは偶然ではない。そこに列島史の逆説がある。
遠い神代の昔から朝敵としての負荷を負わされた熊襲の本源・熊本に、時として真性の熊襲の血が奔騰し、時代を揺り動かす。谷川雁がそうであり、石牟礼道子然り、そして吉本隆明もその血を辿れば祖父は天草の船大工であった。のみならず、維新革命をリードした西郷隆盛の別名が菊池源吾であったことを人は知らねばならぬ。私はそこへと新藤謙の筆がいつか伸びることを期待し、遠い熊襲の神々の解放なくして、現世の天皇制からの解放もまた、むつかしいと云っておこう。(10.10.14)

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